『ぼそぼそ声のフェミニズム』を読んで
「弱いものは虐げられて当然」「努力不足は自己責任」。
そういって誰かを非難し、その非難を野放しにしている構図が、苛烈に、非人道的になってきている……と感じる。
例えば、福祉サポートが届かず命を落とす親子がいたり、昨今の不況で職を得られない大学の知り合いを見たり。
「弱いものが弱いままでそれなりの生活ができればいいのに」「弱いことはそんなにダメなのか?(逆に聞くけど、みんなそんなに強いのか?)」。そして、「人生のマルチエンディング化(ライフスタイルの多様化に伴って、幸せの形やそれを支える制度も多様化)が進めばいいのに…」と考えていた。
そんな私にとっては、この本および著者の栗田さんは、同志と呼ぶには、私は何もしていないからあまりにおこがましいけれど、希望になった気持ちでいる。著者の栗田さん自身は、この本を読んだからといって即効薬的な解決策がみつかるわけではないと述べておられるけれど、私にとっては、耳障りがよくて威勢のいいハウツー本より、気づきと次の行動へのヒントを断然得られるものだった。
★栗田隆子, 2019『ぼそぼそ声のフェミニズム』, 株式会社作品社.
1.何者でもない私、私ならではの幸せとは
自分がただ生きる権利を、しっかりと主張しないといけない、と最近はひしひし感じている。女性であること、労働者であること、市民として納税をしているので公共サービスを享受したいこと、いろんな局面で感じている。ただ、「権利を主張」という発想をしたときに、どうしても「一人前の、自立した、立派な市民(たぶん決意に満ちた表情をしている)」じゃないとうまくいかないんだろうなと思ってしまう。自分は守るべき夫や子はいないし、バリキャリでもないし、命を懸けて告発しているハリウッドの女優さんたちでもないし、そんな主体になれていないな、という軽い絶望を覚えていたのだった。それが見事に見透かされ、「大丈夫だよ」と声をかけてくれるようなエッセイが冒頭にある、それがこの本。
自分の幸せを願うときに、なぜ自分の「何者でもなさ」が引き止めてくるんだろう?それは、自分がどのように幸せになりたいかを考えた時の手札が「家庭を担う女性的な生き方」 or 「仕事を外で行う男性的な生き方」のどちらか…とすごく乏しいからだろう。この二分の枠組みも、近代家族制度が作り上げた近年のものに過ぎないフレームワークなのに。
例えば、ライフ・ワーク・バランスという言葉。ライフ=家庭で、ワーク=家庭の外で、どちらかを充足させようとするとどちらかが沈む構図をイメージしてしまう。人生のあらゆる要素が、二分できるとは到底思えない。ライフでもありワークでもある領域(うまくいけば、きっと幸せだろう)、ライフでもワークでもない領域(人生にとってさほど大事でないこともある)もあろうに、ライフ・ワーク・バランスという言葉の前では、何かを犠牲にして何かを優先するという生き方しか想像できなくなる。何がライフで何がワークかは自分が決めて、マルチなエンディングの中からしかるべきゴールにたどり着きたいのに。
そんな割り切れないモヤモヤする自分を「生きていることの複雑さそのもの」と肯定してくれたのが、この本だった。栗田さんによれば、何者かになろうとして焦って「安定した仕事をしさえすれば」「結婚さえすれば」と思ってしまうことは、そんな生の複雑さを受け止めず、短絡的な行動であるらしい。
例えば「仕事がつらいなら辞める?→転職やフリーターもつらいと聞く→いっそパトロンのような人と結婚して養ってくれたらいいのに→しかし結婚にも負の側面がある、所得の壁やDVや扶養や…→もう、なにが私の幸せなのかわからない…」という気持ちになることがある。結婚願望が明確にあるわけではないのに、「結婚」という選択肢が「一発逆転リセットボタン(凶かもしれない)」として選択肢に入ってくるのが、我ながら不思議なものだ。「結婚さえすればなんとかなる」と思いこまされるということは、「結婚という選択肢の一つに過ぎないコマンドを選ばないと、サバイブしにくい多様性のない社会構造」ということかもしれない。それくらい、よってたかって女性を不利な袋小路に追いやる現代社会の「構造」「構図」に気づかされる。
2.「働く」について、心から話したいだけなのに
働くことの怖さ。また、キャリアという言葉の中身のなさ。誰かに言ってほしかったんだと、栗田さんの本を読んでから気づいた。このことを、こんなに真摯に、現実的に、まじめに、考えた本は、今まで読んだことがなかった。
目の前のことを、自分にできることをやるのではダメだ、キャリアを見通して生きていかなければ一人前の大人になれないんだ、という社会の要請。一方で、いわゆる単純労働では生きていくのに十分な資産が得られないこと。キャリアにカウントされないような仕事が実際にあり、実際の誰かが今日も従事しているのに、そのまなざしの暴力性には目をつぶること。
就活時に考えさせられる「自己実現」=「職務を通して自己実現しなければならない」という圧力をかけられること。実現したい自己の多様性のなさ。貧困対策として行われる公的な「就労支援」。キャリア教育という名のもとに夢を描かせ、適性の名のもとに職業を振り分け、経済的にも・社会的にも差別する構造がグロテスクさ。
…働くことにまつわる、どうにもならなさ、欺瞞、行き場のない気持ち。いまや、キャリアという言葉を聞いても、「自助」にスパンコールをかけただけに過ぎない気がしている。でも、私も「キャリアを詰んでいる途中だ」とそのキラメキにすがるように踏ん張るときもあるし、「何がキャリアだ、くそくらえ」とその中身のなさにすべてが虚しくなることもある。でも「仕事がつらい」という言葉を出した途端に、「お前は不適合者だ」と捕まるような怖さもあり、話すことができない。
いつも、自分が働く姿への評価は「バリキャリの真似」or「ネットの底にこびりつくネタ〈社畜〉」で茶化して自分を慰めるしかない。世界中の全員が働くことを楽しんでいるとはさすがに信じていないし、世界中の全員が労働を冷笑しているとも思っていないけど。そして、働くことに関して過剰な賞賛も冷笑もせずに話しているものは、企業の採用ページか自己啓発系のメディアでしか見たことないのは、なんという皮肉か。市井のみんなで本当のことを話して、働いている人も働いていない人も、励まし合って、誇りに思いたいだけなのに。そんなずん止まりを私も経験している。
3.自立の意味をはき違えて、握力を磨いて、そして自分の首を絞める
私は、上述のような思いもあって、ずっと強くなりたいと思っている。実際に、小中高のつらい出来事を「これは修行だ」と思って、乗り越えてきたこともあり、強さへの憧れを全面的に否定することはできない。けれど、あらためて、強さとは、なんだろうか。
強くなりたいと考えていた大学生のときに、フェミニズムに授業で出会った。#MeToo運動が出てきたころだった。教科書で見たウーマンリブの人たち以外に、現在も、理念を実行する強い女性がいるものなのか、と思った。これぞ私の求める強さ…とワクワクした。
と同時に、泣いてメソメソしている自分には、フェミニズム的実行を選ぶ余裕なんてない、と思った。
「努力本性説」からは抜け出せない。そして、努力をして当たり前という態度を自分や他者にとることで生まれる傷や、温存される差別が確かにあると思っている。
例えば、私は、うまくいかないことに対して道理をつけたがるふしがある。ひとえに、「自分の努力不足や能力不足のために招かれた失敗ではないですよ」と周りに思ってもらうためである。そうした「ゆるしを得る」言説を自分のほかの要因に求めるとき、その言説を温床にして差別が残ってしまうのだろうと思う。
例えば、「女性だから○○(力仕事など任意のできないこと)は難しいよね」、という言葉。私が○○をしようとしてできなかったときに、その言説で何となく、個人として免除されたような気になる。一方で、その言い訳に使われた差別的な言説は、現代社会で実行力を持って、今日も生き永らえ、○○をしようとする誰かの足に枷をはめる。だから、私も差別を日々してしまっている…と思って、どうしようもねえなと悲しくなっている。
また、栗田さんは、「自立」という言葉が、就労支援を中心とした政策の見出しによく使われており、体制側の「面倒は見ません=雇用環境をよくするわけではない」「でも自立をしてください」という脅迫と、要支援者を責めるような機能をしているという指摘をされている。
1980年代までは「自立」に甘い響きがあったのだという。しかし現在は「義務」としての「自立」、できなければペナルティや軽蔑が待ち受ける殺伐とした「自立」、義務で自己完結する行為が「自立」と捉えられていると、問いかけている。
胸につかえていたものがするっと降りるような気さえした。
私は確かに、自立に憧れつつも、自立にプレッシャーをかけられていた。
そして、その陰で見逃される、社会体制の不備・温存される差別的な言説。
それらをなくすためには、私はどのような身の振る舞いをすればいいだろう。自分がなにかをできないことを、「世間的には○○」「女性は○○」「一般的に○○」と外側の世界を巻き込んで正当化しないようにしている。でも、そのあまりのしんどさに「おのずから朽ち」そうと思うときもあるし、けど、ここは譲れない一線なのだと思う。しかし、それもまた、自分の弱さを自己処理することで「自立」を演じる、もろい強さなのだろうか。
私は強くない。恵まれた環境を生かして社会を変えるというノブレス・オブリージュを果たせる強さは、私にはない。
私は恵まれている、と思うことにしている。そうでないと、すぐ世間や、「持たざる」性のせいにしてしまうから。でも、そもそも、本当は私が恵まれているかはわからない。誰かと比べたわけじゃないし、不幸自慢が始まるくらいなら比べないほうがずっといいと思う。私も一時期は、実家の経済状況や、己の資質(容姿や能力や性格)を恨んでいたことがあるが、今は開き直って、自分で自分を貶める不幸の渦の波がかからないギリギリの淵には立てている。この状況は恵まれていると呼びたい、そう思うことで矜持が生まれ、なんとかぎりぎりを保てそうだから、そのくらいのうぬぼれは許してほしい…という泣き言。
4.自己責任論の外に出るのに必要な対話
「自己責任論」は毒になることがわかったけれども、下手すると不幸自慢やバッシングが起こりうる身近やネット上の言説空間において、他人を信頼することがリスクとなっている。その状況に風穴をあけるには、どうすればよいか。
と、栗田さんは言う。
別稿(WEBサイトだったか、確かでない)で、栗田さんは、窓際で5分、深呼吸をして、など具体的な「祈り」を紹介されていた。自分の気持ちを、決して拒否されることのない存在に向かって吐露し、自分の感情をわかることが重要だったと述べておられた。
わたしも、給与から仕事内容から、つらさ・楽しさ…洗いざらいぶっちゃけられる友人はそう多くない。友人たちはきっと聞いてくれるけど、友人たちもそれぞれの生活を一生懸命頑張っており、気が引ける。そういうのはいっそのこと赤の他人がいいときがある。だが、そんな場を探すにもエネルギーは必要で、いまはそんなに元気がない。私は特定の神様を信じていないから、聞いてくれる大いなる存在も今はいない。
だから、私は、もう一人の私に向かって打ち明けるところから、はじめてみようと思う。ジャーナリング、自分のインサイトをつかむ、瞑想ブーム…似たようなことを考えている人が多いことは、上記の物事が流行っていることからわかる。目まぐるしさで己が迷子になっている人たちと一緒に、わたしもできることから始める。
そうしたら、マルチエンディングの中から、私だけの道が見つかるのかもしれない。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?