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青い鳥症候群からも卒業しようか
今週末は天気に恵まれた週末だった。
先日私は、否定を卒業する旨の記事をリリースした。
記事をリリースすることが一つの節目になって、なんだか生まれ変わったような気持ちで過ごしていた。
特に平日は仕事という前線にいるため、思考のベースが前向きになって来ている手応えを感じやすい。
ところが休日になると、依然己の現状に落ち込む波がやってくる。うららかな気候や、自分のためだけに使える時間が、辛いことのように感じる瞬間がある。
太宰治の言葉が、私はなんとなく分かる気がしている。
とはいえ、いい加減己の現状に落ち込むことをなくしたい。これは積年の願いだ。
少しずつ良くなっている手応えはあるけれど、地面を掘り進めたら当たる岩盤のような、そういったものが依然思考のベースに横たわっていることを感じる。
己の現状に落ち込むのは、己で己の現状に満足していないためであり、当たり前だけど、己が満足する現実を創り出せれば、己の現状に落ち込むことはなくなる。だから、いかに、どのようにして、己が満足する現実を創り出していくかが重要である・・・。
己を振り返ると、おおよそそういう思いのもと、自己実現に取り組んで来たように思う。もちろん望んだ現実を創り出せるに越したことはない。
だけどそれっていわゆる青い鳥症候群だよなと最近思うようになった。何を隠そう、私は重度の青い鳥症候群であった。
とはいえ「人は100%の自由を必ずしも求めていない」ということも薄々分かってはいた。
私の肌感では「人は50%の運命と50%の自由」を求めている。
でなければ、己の運命を知りたいと思わないし、ご縁という言葉に胸が弾むこともないはずだ。
人は己の運命を確信して生きたい。
占い師に占って貰って知った運命では、人生を掛けて臨むには実体が弱い。占いはとても楽しいし、実際その時々に必要なメッセージを貰えることも多いと思う。だけどより優れた占い師に高い金額を支払うことで己の運命の真実に辿り着けるかと言われると、それはNOだろう。己の運命を一番知っているのは、他でもない自分自身だから。
また運命というと、ドラマチックでスペクタクルな事柄を想起する。実際そうかもしれないけれど、運命が現実レベルに落とし込まれた時、日常のさも落ち込みたくなる事柄の中に隠されていることが、最近薄々分かって来た。
だから青い鳥症候群になって、現状に落ち込んでそこで終わってしまうことは、運命の50%を実質捨てているに等しい。
本当はこの記事で、昨今の体験談を通した核心に迫りそうな話をしたいと思っていたけれど、時間の都合上それはまたの機会にしようと思う。
己の現状に落ち込むことなく、隠された運命を見出しながら、自由に生きていくためには、思考、つまり考え方が鍵になってくると思う。
考え方が変われば、何を望むかが変わる。
考え方が変われば、現状の捉え方が変わる。
考え方が変われば、望みへのアプローチが変わる。
なんというか、「点」自体・・形あるものや結果に対して価値が置かれがちな世界ではあるけれど、例えば、点から点への「遷移」や、点の「選択」といったプロセスに、思いの外重要な価値があるのではないかと最近はよく思う。
だからこそ、様々なことを知り、経験し、考え方をアップデートしていく必要があると思う。
一つずつ好転させていこう。
ps. メーテルリンクの「青い鳥」は小学生の頃に実際読んだので、ご安心いただきたい。