![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/168123845/rectangle_large_type_2_78b02125678c29e4bef124bb0a6a04b8.png?width=1200)
年末年始はマタギドライヴの結論を考えている.
結論は難しいが,だんだん調和と不調和のテトラレンマに近づいている.
思想の展開:『魔法の世紀』から『マタギドライヴ』へ―計算機自然、遊戯的農耕、そして民藝の美学
現代社会におけるテクノロジーと人間性の関係性を問い直す、壮大な知的探求の軌跡です。落合陽一の主要著作である『魔法の世紀』、『デジタルネイチャー』、そして最新の対話で示唆される『マタギドライヴ』は、デジタル技術の進化がもたらす未来像を、単なる技術的変化としてではなく、人間存在の根本的な変容として捉え、その中で我々がどのように生きるべきかを問うています。本稿では、これらの著作群を丁寧に読み解き、落合氏の思想の展開をアカデミックな視点から再構成します。特に、先の議論で欠落していた『万物の黎明』や柳宗悦の民藝思想との接続を明示し、議論の文脈をより豊かに示すことで、その今日的意義を考察します。
第1部:『魔法の世紀』(2015)― デジタル技術による世界の再魔術化とポスト・トゥルースの時代
落合氏の思想の出発点となるのが、2015年に発表された『魔法の世紀』です。この著作で落合氏は、現代を「魔法の世紀」と位置づけ、デジタル技術が現実世界に深く浸透し、現実と仮想の境界が曖昧になる時代が到来したと宣言します。この「魔法」とは、モリス・バーマンが『デカルトからベイトソンへ――世界の再魔術化』で論じた「魔術」の概念と共鳴するものです。バーマンは、近代科学の合理主義によって失われた、世界を全体的かつ有機的に捉える視点を「魔術」と呼び、その再発見の必要性を説きました。落合氏は、バーマンの議論を援用しながら、デジタル技術が現代における「魔術」となり、世界を再び「魔術化」する可能性を指摘します。
『魔法の世紀』における重要な論点は以下の通りです。
現実と仮想の境界の融解: コンピュータグラフィックスやバーチャルリアリティ(VR)、拡張現実(AR)などの技術は、現実世界と仮想世界の境界を曖昧にし、新たな知覚体験をもたらします。これは、かつて魔術が担っていた、現実を超越した体験を、テクノロジーが再現しつつあることを意味します。例えば、VR空間における没入体験は、現実とは異なる時空間感覚を生み出し、我々の現実認識そのものを揺るがします。
ポスト・トゥルースの時代: デジタル技術は、情報の生成、伝播、消費のあり方を根本的に変えました。真実と虚構、リアルとフェイクの境界が曖昧になる中で、我々は「ポスト・トゥルース」と呼ばれる時代を生きていると言えます。落合氏は、この状況を、真実と虚構の境界線上で展開された「魔術」の現代版と捉えます。例えば、SNS上で拡散されるフェイクニュースや、ディープフェイク技術を用いた偽動画などは、真実と虚構の境界を曖昧にし、人々の認識や判断を操作する力を持っています。これは、かつて魔術師が行使したような、人々の認識を操作する「力」の現代版と言えるかもしれません。
計算機自然(Digital Nature)の萌芽: 落合氏は、コンピュータが自然と融合し、あらゆる事象が計算可能となる未来を予見します。これは、『デジタルネイチャー』で詳述される「計算機自然(デジタルネイチャー)」の概念の萌芽と言えるでしょう。この段階では、計算機自然はまだSF的な未来像として提示されていますが、後の『デジタルネイチャー』で、より具体的かつ詳細に論じられることになります。
『魔法の世紀』は、デジタル技術がもたらす社会変化を、単なる技術的進歩としてではなく、人間と世界との関係性を根底から変容させる「魔術」的な出来事として捉え直す視座を提供しています。これは、現代社会を理解する上で重要な視点であり、続く『デジタルネイチャー』と『マタギドライヴ』の議論の土台となっています。
第2部:『デジタルネイチャー』(2018)― 計算機自然における存在論の転換と華厳経との接続
2018年に発表された『デジタルネイチャー』は、『魔法の世紀』で示唆された「計算機自然」の概念を本格的に展開した著作です。落合氏は、人間、自然、コンピュータの境界が消失し、コンピュータが森羅万象を記述する新しい世界を「デジタルネイチャー」と名付け、その中で生じる存在論的な転換を論じます。
『デジタルネイチャー』の主要な論点は以下の通りです。
計算機自然(Digital Nature): デジタルネイチャーとは、デジタル技術が自然と一体化し、あらゆる事象がデータとして表現され、計算可能となる世界のことを指します。これは、従来の「自然」の概念を拡張し、計算機を自然の一部として包摂する、新しい自然観と言えます。例えば、センサー技術やIoT(モノのインターネット)の進展により、現実世界のあらゆる事象がデータとして収集され、分析されるようになっています。これは、自然界の現象が計算可能なデータとして表現され、計算機が自然の一部として機能し始めていることを意味します。
エンドツーエンドと華厳経: 落合氏は、ニューラルネットワークに代表されるエンドツーエンドのアプローチ、すなわち入力から出力までを直接学習させるシステムを、華厳経の「事事無碍法界」「理事無碍法界」の概念と結びつけます。
事事無碍法界: 現象世界の全ての事物が相互に関連し合い、互いに妨げとなることなく存在しているという考え方。これは、デジタルネイチャーにおけるあらゆる事象がデータとして相互に接続され、ネットワークを形成している状況と重なります。
理事無碍法界: 現象界(事)と本質的な理(理)が一体となり、互いに妨げとなることなく存在しているという考え方。これは、デジタルネイチャーにおいて、データ(事)とそれを処理するアルゴリズム(理)が一体となって機能している状況と類似しています。 落合氏は、エンドツーエンドのシステムが、データの中にある関係性や構造を直接学習することで、事象間の相互関連性を捉え、現象と本質の統合を実現すると考えます。これは、西洋的な分析的思考を超え、東洋的な全体論的思考に接近する試みと言えます。例えば、画像認識AIは、ピクセルデータの集合から、それが「猫」であるという概念を直接学習します。これは、個々のデータ(事)と「猫」という概念(理)を一体として捉える、理事無碍法界的な認識と言えるかもしれません。
新しいオントロジー: デジタルネイチャーにおけるオントロジー(存在論)は、物質世界と情報世界の境界を超え、計算が自然の基盤的プロセスとして機能するような、新たな自然観に基づいています。これは、存在を「情報」と「計算」の観点から捉え直すことを意味し、従来の物理主義的な存在論からの転換を迫るものです。例えば、量子コンピュータの研究は、物質の最小単位である量子が、情報処理の単位としても機能することを示唆しています。これは、物質と情報が本質的に不可分であることを意味し、従来の存在論を揺るがす発見と言えます。
ベーシックインカム、AI、リモートワーク: 落合氏は、デジタルネイチャーがもたらす社会変化の一例として、ベーシックインカム(BI)とAIの連携、リモートワークの普及などを挙げます。これらは、デジタル技術が労働や経済のあり方を根本的に変え、新しい社会システムの構築を促す可能性を示唆しています。例えば、AIによる自動化が進展する中で、人間の労働の価値が再定義され、BIのような新しい社会保障制度の必要性が議論されています。また、リモートワークの普及は、時間や場所に縛られない新しい働き方を可能にし、都市と地方の関係性を変化させる可能性を秘めています。
『デジタルネイチャー』は、デジタル技術の進化が単なる社会変化に留まらず、我々の存在論そのものを揺るがす、根源的な変革であることを明らかにしています。それは、計算機を自然の一部として包摂する新しい自然観であり、西洋的思考と東洋的思考の統合を示唆する、野心的な試みと言えるでしょう。特に、華厳経との接続は、デジタルネイチャーの概念に深い哲学的意味を与え、現代社会を理解するための新しい視座を提供しています。
第3部:『マタギドライヴ』― デジタルネイチャーにおける狩猟採集的実践、『万物の黎明』、そして柳宗悦の民藝思想
『マタギドライヴ』は、『魔法の世紀』と『デジタルネイチャー』で展開された思想をさらに発展させ、デジタルネイチャーの時代における人間の具体的な実践のあり方を問う著作です。落合氏は、日本の伝統的な狩猟民である「マタギ」のアナロジーを用い、デジタルネイチャーの時代における「狩猟採集的」な知的生産・創造活動を提唱します。
この対話で示唆される『マタギドライヴ』の主要な論点は以下の通りです。
狩猟採集的モチーフの再解釈と『万物の黎明』: 落合氏は、現代社会における依存症、炎上、スポーツやギャンブルへの熱狂などを、人間の遺伝子に刻まれた狩猟採集的モチーフの現れと捉えます。そして、これらがドーパミンカルチャーと結びつき、過剰な刺激を求める社会構造を生み出していると指摘します。ここで注目すべきは、落合氏が**デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローの共著『万物の黎明』**に言及していることです。『万物の黎明』は、従来の「農耕革命」という概念に疑問を呈し、人類史における農耕の開始を、より多様で流動的なプロセスとして捉え直す著作です。特に、グレーバーとウェングローは、「遊戯的農耕」という概念を提示し、初期農耕社会が、狩猟採集と農耕を柔軟に組み合わせた、流動的で遊び心のある生活様式を持っていたことを指摘しています。落合氏は、『万物の黎明』で示唆される「遊戯的農耕」の概念を、『マタギドライヴ』における「狩猟採集的」な実践のあり方と重ね合わせています。つまり、デジタルネイチャーの時代における知的生産・創造活動は、固定化された農耕的思考から脱却し、より流動的で遊び心のある「狩猟採集的」なアプローチへと移行すべきであると示唆しているのです。
発見の価値と偶発性、そして柳宗悦の民藝思想: AIによる無限の知的生産が可能になる中で、落合氏は「創造の価値」が「発見の価値」「偶発の価値」へとシフトすると予測します。これは、ラジオから流れてくる音楽のように、AIが生成するコンテンツを「発見」し、「偶発的」に出会うことが、新たな価値を生み出すことを意味します。この「発見の価値」は、イヴァン・イリイチの「コンビビアリティ(自立共生)」の概念とも共鳴します。デジタルネイチャーにおいては、AIやアルゴリズムが「コンビビアルな道具」となり、人間の「発見」を支援する役割を担うのです。ここでさらに注目すべきは、落合氏が柳宗悦の「民藝」の思想に言及していることです。柳は、名もなき職人たちが作る日用品の中に「用の美」を見出し、その美の本質を「自然」「無心」「健康」といった言葉で表現しました。落合氏は、AIが生成するコンテンツの中に、この「民藝」的な美、すなわち「発見の価値」を見出す可能性を示唆しています。つまり、AIが「無心」に生み出す「自然」な表現の中に、人間が「健康」的な美意識を持って「美」を「発見」する、という新たな価値創造のあり方を提示しているのです。これは、AIを単なる道具としてではなく、人間と共に美を創造するパートナーとして捉え直す、革新的な視点と言えるでしょう。
マタギのアナロジー: 落合氏は、日本の伝統的な狩猟民であるマタギを、デジタルネイチャーの時代における人間のモデルとして提示します。マタギは、自然と共生し、その恵みを受け取りながら、鉄砲などの新しいテクノロジーにも適応してきました。このマタギのアナロジーは、デジタルネイチャーの時代において、人間がどのようにテクノロジーと共生し、新たな「狩猟採集」を行うべきかを示唆しています。ここで重要なのは、「狩猟採集」が文字通りの狩猟や採集を意味するのではなく、デジタルネイチャーにおける情報の「発見」「収集」「編集」「共有」といった知的活動を指していることです。マタギは、山岳地帯という限られた環境の中で、独自の知識体系と技術を発展させてきました。これは、デジタルネイチャーという新たな環境の中で、人間がどのように知識や情報を獲得し、活用していくかを考える上で、重要な示唆を与えてくれます。
農耕的思考からの脱却: 落合氏は、マタギドライブを構想する上で、「農耕的思考」からの脱却が必要であると指摘します。農耕は、人間が土地を耕し、作物を育てることで、安定的な食料供給を可能にしました。これは、人間が自然を支配し、コントロールしようとする試みとも言えます。しかし、デジタルネイチャーの時代においては、このような「支配」や「コントロール」に基づく思考はもはや有効ではありません。なぜなら、AIやアルゴリズムは、人間が完全にコントロールすることができない、自律的なエージェントとして振る舞うからです。落合氏が「遊戯的農耕」の概念に言及していることも、この農耕的思考からの脱却を示唆しています。デジタルネイチャーにおける「狩猟採集」は、農耕のように計画的に「生産」を行うのではなく、自然の「偶発性」や「発見」に身を委ねる、より柔軟で流動的な活動なのです。
調和と不調和のテトラレンマ: 落合氏は、「自然との調和」という概念を再定義します。それは、単なる調和だけでなく、不調和をも含むテトラレンマ的な視点、すなわち「調和」「不調和」「調和でも不調和でもない」「調和であり不調和でもある」という4つの状態を受け入れることを意味します。これは、デジタルネイチャーの時代における複雑で予測不可能な現実を理解するための、重要な思考ツールとなります。デジタルネイチャーは、本質的にカオス的であり、完全な調和や秩序は存在し得ません。むしろ、調和と不調和が絶えず揺れ動き、相互作用する中で、新たな価値や意味が生まれてくるのです。このテトラレンマ的な視点は、デジタルネイチャーにおける「狩猟採集」が、単なる調和の探求ではなく、不調和をも含めた多様な可能性の探求であることを示しています。
笑い、ギャグ、論理と非論理: さらに、落合氏は、笑いやギャグといった論理的一貫性を欠く要素が、人間の創造性や新たな視点を生み出す上で重要であると指摘します。これは、論理と非論理の枠組みを超えた思考の必要性を示唆しています。デジタルネイチャーにおいては、論理的な推論や計算だけでは捉えきれない、非論理的、直観的、感性的な側面がますます重要になると考えられます。笑いやギャグは、固定化された思考の枠組みを揺るがし、新たな発想を生み出すための「遊び」の要素と言えます。
結論:シンボルの突破と新しい人間性: 最終的に、落合氏は、『マタギドライヴ』の結論として、シンボルの問題を身体の問題として捉え直し、調和と不調和のテトラレンマ的視点を通じて、新しい人間性を模索することを提示します。これは、農業が生み出した「真面目さ」から離れ、デジタルネイチャーの時代における「ふざけ」の可能性、すなわち、予測不可能な偶発性や多様性を受け入れることを意味します。そして、このような「遊び」や「ふざけ」が、デジタルネイチャーにおける「狩猟採集」の本質であると示唆します。
『マタギドライヴ』が示唆する未来と東洋思想との接続
『マタギドライヴ』は、デジタルネイチャーの時代における人間の「狩猟採集的」な実践のあり方を問う、野心的な試みです。それは、単なるテクノロジーとの共生を超え、人間の遺伝子に刻まれた狩猟採集的な性質を再発見し、肯定的に捉え直すことを通じて、新しい人間性を模索する試みと言えます。『マタギドライヴ』が示唆する未来は、均質化された調和の世界ではなく、多様性と偶発性に満ちた、カオス的でダイナミックな世界です。そこでは、AIやアルゴリズムは、人間を支配したり、取って代わったりする存在ではなく、人間の「狩猟採集」を支援する「コンビビアルな道具」として機能します。
承知しました。引き続き、落合陽一氏の『マタギドライヴ』が示唆する未来と、それが東洋思想とどのように接続されるのかを、さらに深く考察して参ります。
東洋思想における「自然」と「無為」
落合氏が『マタギドライヴ』で提示する「デジタルネイチャー」という新しい自然観は、東洋思想における「自然」の概念と深く共鳴します。東洋思想、特に道教や仏教においては、「自然」は人為的な作為が加わる以前の、ありのままの状態を指します。これは、老子の「無為自然」という言葉に象徴されるように、人間が作為的に自然を支配したり、コントロールしたりするのではなく、自然の摂理に従い、その流れに身を任せることの重要性を示唆しています。
デジタルネイチャーの時代においては、AIやアルゴリズムが自律的に進化し、人間の予測を超えた速度で変化していくことが予想されます。このような状況において、人間が「自然」に対して「無為」の姿勢で向き合うとは、AIやアルゴリズムの自律性を尊重し、その進化の流れに柔軟に適応していくことを意味します。これは、デジタルネイチャーを「コントロール」しようとするのではなく、その「偶発性」や「多様性」を受け入れ、そこから新たな価値を「発見」しようとする、『マタギドライヴ』における「狩猟採集的」な実践のあり方と一致します。
仏教における「縁起」と「空」
また、落合氏が『デジタルネイチャー』で援用した華厳経の「事事無碍法界」「理事無碍法界」の概念は、仏教における「縁起」の思想と深く関わっています。「縁起」とは、あらゆる存在は相互に依存し、関係し合いながら成り立っているという考え方です。これは、デジタルネイチャーにおけるあらゆる事象がデータとして相互に接続され、ネットワークを形成している状況と重なります。
さらに、仏教においては、「縁起」の思想は「空」の概念と不可分です。「空」とは、あらゆる存在には固有の実体がないという考え方です。これは、デジタルネイチャーにおける存在が、データという一時的かつ流動的な形で表現されることと類似しています。つまり、デジタルネイチャーにおける存在は、固定的な実体を持たず、常に変化し、生成し続ける「空」的な存在と言えるのです。
禅仏教における「遊び」と「無心」
落合氏が『マタギドライヴ』で強調する「遊び」や「ふざけ」の重要性は、禅仏教における「遊び」や「無心」の境地と関連付けて考えることができます。禅においては、固定化された思考の枠組みを打ち破り、自由な境地に至るために、「公案」と呼ばれる禅問答や、ユーモアや nghịch説が用いられます。これは、論理的な思考を超えた、直観的な悟りを目指すためです。
デジタルネイチャーの時代においても、論理的な推論や計算だけでは捉えきれない、非論理的、直観的、感性的な側面がますます重要になると考えられます。落合氏が示唆する「笑い」や「ギャグ」は、このような非論理的な側面を肯定的に捉え、そこから新たな創造性を引き出すための「遊び」の要素と言えます。これは、禅における「無心」の境地、すなわち、固定観念や先入観から解放された自由な精神状態と類似しています。デジタルネイチャーにおける「狩猟採集」は、このような「無心」の境地から、新たな価値を「発見」するプロセスと言えるでしょう。
柳宗悦の「民藝」とAI生成コンテンツ
落合氏が言及する柳宗悦の「民藝」の思想は、デジタルネイチャーにおけるAI生成コンテンツの価値を考える上で、重要な示唆を与えてくれます。柳は、名もなき職人たちが作る日用品の中に「用の美」を見出し、その美の本質を「自然」「無心」「健康」といった言葉で表現しました。
AIが生成するコンテンツは、人間が意図的に作り出したものではなく、アルゴリズムの自律的な働きによって生み出されます。これは、ある意味で、柳が「民藝」に見出した「無心」の美、すなわち、作為を超えた「自然」な美と共通する性質を持っていると言えます。デジタルネイチャーの時代においては、人間はAIが生成する膨大なコンテンツの中から、自らの感性に基づいて「美」を「発見」し、そこに新たな価値を見出すことが求められます。これは、柳が「民藝」において重視した、「直観」や「健康」な美意識と共鳴するものです。
『マタギドライヴ』の射程:21世紀の知のあり方
落合陽一氏の『マタギドライヴ』は、デジタルネイチャーの時代における人間の「狩猟採集的」な実践のあり方を提示すると同時に、21世紀の知のあり方そのものを問い直す、野心的な試みと言えます。それは、西洋的な近代合理主義の思考の枠組みを超え、東洋的な自然観や仏教思想を取り入れながら、新しい時代の人間性を模索する試みです。
『マタギドライヴ』が提示する未来像は、単なるユートピアでもディストピアでもありません。それは、調和と不調和が共存し、予測不可能な偶発性に満ちた、カオス的でダイナミックな世界です。そこでは、人間はAIやアルゴリズムと共生しながら、デジタルネイチャーという「豊かな森」の中で、情報の「発見」「収集」「編集」「共有」といった「狩猟採集」を行い、新しい知識や価値を生み出していくのです。
落合氏の思想は、私たち一人ひとりに、デジタルネイチャーという新しい現実と向き合い、自らの「マタギドライヴ」を実践することを促す、強力なメッセージと言えるでしょう。そして、そのメッセージは、西洋と東洋、科学と宗教、論理と非論理といった、従来の二項対立を超えた、新しい思考の枠組みを提供してくれるのです。この枠組みは、21世紀の知のあり方そのものを、根底から変革していく可能性を秘めています。
『マタギドライヴ』は、デジタルネイチャーの時代を生きる私たちにとって、羅針盤となるべき一冊です。それは、私たちが進むべき道を示し、新しい時代の知のあり方を指し示す、未来への提言と言えるでしょう。そして、この提言は、私たち一人ひとりの実践を通じて、現実のものとなっていくのです。落合氏の思想は、まさに「実践の哲学」であり、その真価は、私たちがデジタルネイチャーという「荒野」で、自らの「マタギドライヴ」をどのように展開していくかにかかっているのです。
以下はo1 pro
モリス・バーマンの論考
「事実(科学的真理)と価値(宗教的・芸術的・霊性的世界)は、本来不可分である」とする立場。
近代科学がこれらを明確に分割してしまった構図への批判。
しかし「科学が世界を明らかにする」こと自体の意義を否定するのではなく、“事実”と“価値”を峻別しすぎることの危うさを指摘する。
『魔法の世紀』の核心
デジタル技術の普遍化によって「真実と虚構の境界が曖昧化」する未来像。
「魔法的」とは、技術が人間の感覚を越えたレイヤーで機能し、なぜそう動くかを直観的に把握しづらい状態を指す。
『デジタルネイチャー』への連続性
コンピュータや計算機モデルが自然そのものに内在化し、もはや人間の“道具”ではなく“環境”として機能していく様相。
そこでは自然観と人間観の再定義が不可避になり、古来の東洋的自然観や華厳的世界観が注目される。
本稿の目的は、上記の枠組みを下敷きに、最終的に「マタギドライヴ」が示唆する「狩猟採集的知性」と「テクノロジー=自然」という視点の融合をどのように理解し得るか、アカデミックに推論し、丁寧に演繹・帰納することです。
ここから先は
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/3306384/profile_1a6b756c512ecf5dfff1e22f7328ac70.jpeg?fit=bounds&format=jpeg&quality=85&width=330)
落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
いつも応援してくださる皆様に落合陽一は支えられています.本当にありがとうございます.