
「マタギドライヴに至る変化,進化する計算機自然(デジタルネイチャー)と逆再生される人の文明」
序論:狩猟採集から農耕・工業社会への急速な変化と進化的ミスマッチ
人類は数百万年にわたって狩猟採集生活を営んできたが、農耕の普及は約1万年前という近い過去のことであり、さらに工業化や情報化社会への移行は数百年から数十年ほど前という、進化史的に極めて短いスパンである[1][2]。こうした急激な生活環境の変化に対し、人間の生物学的進化が十分に追いついているとは考えにくい。農耕・定住社会や近代工業社会は人類に豊富な食料や物質的資源をもたらす一方、狩猟採集時代に形成された生理的・認知的特質との間に「ミスマッチ(不適合)」が生じ、多くの現代病や社会問題を誘発しているとする見方が近年広く認知されている[3][4]。
本稿では、このような進化的ミスマッチの実態とメカニズムを神経科学・進化生物学・人類学・認知科学という複数の観点から整理する。さらに、現代において狩猟採集的な脳や身体をいかに捉え直し、テクノロジーや新たな社会システムと融合させていくかという課題を、落合陽一が提唱する「デジタルネイチャー(計算機自然)」「マタギドライヴ」「ホモスタック」「ハムフリー」といった概念と対比させながら論じたい。落合の議論は、一見すると未来志向のテクノロジー論に見えるが、実際には「人間の古層」への深いまなざし、すなわち人間の狩猟採集性や身体性をいかに引き継ぎつつ高度な計算機環境に溶け合わせるかという問題意識を含んでいる[5][6]。
その際、マタギという伝統的な狩猟者のあり方に着目し、デジタルネイチャー時代にこそ「狩猟者としての人間」の知恵や感覚が再評価される可能性を示唆したのが「マタギドライヴ」の構想である[7]。また、ホモスタック(Homo Stuck)は進化上の過去に“スタック”している人類の現状を指し示すと同時に、その限界を脱する視座としてハムフリー(Hum-Free)を提案する。すなわち、テクノロジーによる身体・認知能力の拡張を活用して進化の時差を克服するアプローチである[8]。本稿では、これらの概念を学術研究の成果と照らし合わせることで、「狩猟採集脳を抱えたまま高度技術社会を生きる」というパラドクスをどう乗り越えられるのか、その一端を探求していく。
第I部:神経科学的視座から見る“石器時代の脳”
1. 報酬系とドーパミン:スイートスポットへの強い嗜好と依存症
人間の脳内にはドーパミンを中心とする報酬系が存在し、これは本来、食物摂取や繁殖行動など生存に直結する行動を強化するために進化したとされる[9][10]。狩猟採集時代、甘い果実や蜂蜜は貴重な高カロリー源であり、それを見つけ出した際に強い快感を得る(ドーパミン放出)ことは適応的であった[11]。しかし、現代では精製された糖分や高脂肪食が容易に手に入り、さらにソーシャルメディアやオンラインゲームなど**“超正常刺激”**とも言うべき人工的な強い報酬があふれている[12]。
このような過剰刺激に脳がさらされると、報酬系の感受性が変化し、より強い刺激を欲するようになったり、従来の自然な報酬への感度が低下したりする「アダプテーション」が起こり得る[9]。いわゆる“ドーパミン中毒”状態であり、ギャンブル依存やSNS依存といった現代的病理が急増している背景には、石器時代の脳が高度に人工化された環境刺激に曝されている進化的ミスマッチが隠れていると多くの研究者が指摘する[12][13]。
特に、SNSの「いいね」や通知音、ネット通販の購入ボタンの即時快感、オンラインゲームの報酬設計などが、人間の報酬系を頻繁に刺激して中毒的な使用行動を引き起こすという見解は、近年の神経科学・心理学研究でも定説となりつつある[14]。これらは本来の生存環境には存在しなかった非常に強力な報酬刺激であり、狩猟採集時代の脳には“オーバースペック”な誘惑といえる。ここに人間の進化史と現代社会の乖離、すなわち進化的ミスマッチの一端が如実に示される。
2. 好奇心と探索行動:狩猟採集環境での適応と現代社会の情報中毒
人間の脳はまた、好奇心や探索行動を促進する仕組みを持つ。狩猟採集生活では、未知の領域や新奇な情報をいち早く発見できることが生存に直結したため、人は**「何か新しいもの」「未確定だけれど報酬の可能性があるもの」**に強い興味を持つよう適応したとされる[15][16]。実際、脳のfMRI研究では「まだ手に入れていない報酬を期待する段階」でドーパミン回路の活動が活発になることが示され、新奇探索そのものが快感をもたらすことが確認されている[17]。
しかし、現代においてはインターネットを介した情報刺激が洪水のようにあふれ、人々は常に新しい記事、動画、SNS投稿、ニュースなどにアクセスできる。情報を得るまでの「待ち時間」が著しく短縮され、いつでも刺激が得られる環境は、脳の好奇心システムを過剰に駆動させる可能性がある[18]。新しい通知が来ると即座に確認したくなる衝動、絶え間ないスクロールやクリックの繰り返し、情報の断片を求め続ける行動などは、古代の狩猟採集者の「探索本能」がデジタル空間で暴走している例とも解釈できる[15][18]。
もちろん、情報アクセスの容易さは学習や創造性の拡大にもつながるが、その一方で集中力の散漫やメンタルヘルス問題などが顕在化していることも事実である[19]。このように、**「好奇心・探索=適応的」**だった進化史的要因が、ネット社会の激しい情報消費へと暴走する構造こそが、現代の情報中毒の一因になっていると神経科学者らは警鐘を鳴らしている[20]。
3. ADHD的特質と迅速な反応:古代からの生存優位と現代とのズレ
注意欠如・多動症(ADHD)の特性は、学校教育やオフィス労働の場においてはしばしば「集中力不足」「衝動性」「落ち着きのなさ」として問題視される。一方、近年の研究では、狩猟採集環境においてこうしたADHD的特質がむしろ生存上の優位性をもたらした可能性が示唆されている[21]。
例えばケニアの遊牧民アルiaal族を対象とした調査では、ADHD関連遺伝子(ドーパミン受容体遺伝子DRD4の7リピートアレル)を有する男性が遊牧生活を続けている場合、栄養状態や健康面で有利になる傾向が見られた[22]。しかし同じ遺伝型でも定住生活を送る男性ではむしろ不利になっており、同じ遺伝子特性が環境によって正負両方向に働くことがわかった[22]。研究者はこれを「狩猟的・遊牧的な生活では、新奇追求や素早い反応が資源探索や危険回避に役立つが、農耕や学業においては定常的な集中力が優位になるためだ」と解釈している[22]。
また、ADHD的な行動特性(高い活動水準、衝動性、多動など)は、古代の狩猟採集集団で一部のメンバーに備わることで、集団としての探索範囲や反応速度を高める集団適応的価値を持ったという理論的シミュレーションもある[23]。このように、ADHDは必ずしも「脳機能の欠陥」ではなく「進化的多様性の一形態」とも考えられるわけだ[23]。しかし、現代の定住社会・学校教育・オフィスワークでは不利に評価されがちであり、それが多くの当事者を苦しめている。ここにも狩猟採集脳を引きずったまま急変した環境に置かれる進化的ミスマッチが顕在化しているといえる。
第II部:進化生物学的視座から見る人類の身体と遺伝的変化
1. 進化的ディスコーダンス仮説:10,000年の急変と“石器時代の身体”
約30〜40万年にわたってホモ・サピエンスの祖先は狩猟採集生活を続けていたが、農耕が普及したのはせいぜい1万年ほど前からである。さらに産業革命や都市化は過去数百年〜数十年の出来事にすぎない[1][2]。このような短期間では、遺伝子プール全体が大きく書き換わるほどの生物学的進化は起こりにくいとされ、狩猟採集時代の身体的・生理的特質が多く現代人にも残存しているという考え方を、「進化的ディスコーダンス仮説」または「狩猟採集時代適応説」という[3][24]。
具体的には、現代人が糖尿病・肥満・心疾患などの生活習慣病に悩まされるのは、もともと高カロリー源が少なかった狩猟採集環境で「省エネ型」「脂肪貯蔵型」の代謝システムを獲得していたからだという説明がなされる[24]。こうした遺伝的形質は、飢餓リスクが高い古代社会では有利に働いたが、食が豊富すぎる現代社会では過剰蓄積となり、逆に健康を害する結果を生んでいるわけである。このミスマッチが「文明病」の一因となっているという指摘は、多数の疫学研究や臨床研究で支持されてきた[3][24]。
2. 遺伝統計学的研究:狩猟採集由来の遺伝形質の残存例
実際、遺伝統計学的研究では、現代人のゲノム中に旧石器時代・縄文時代の狩猟採集民由来のアレルが遺伝的に保持されていることがわかっている[25]。たとえば日本人集団の場合、縄文人由来の遺伝情報と肥満リスクの関連が示唆される研究があり、これは狩猟採集民的な代謝特性が一部の現代人に強く残っている可能性を裏付ける[25]。また、欧米集団の研究でも、狩猟採集祖先からの遺伝情報がBMI(体格指数)に関連する例が確認されている[25]。
ここから先は

落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
いつも応援してくださる皆様に落合陽一は支えられています.本当にありがとうございます.