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「遍在する音楽会」 ステートメント注釈付き(原文ママ+注釈)(かき途中)
音[1]と光[2]の共感覚[3]を探ることは時間[4]と空間[5]の中に縁起[6]を探していくことに似ている.日本フィルハーモニー交響楽団[7]との協働[8]を続けて数年[9][10][11][12][13].《耳で聴かない音楽会》®[9][11]を始めとして,耳だけでない音楽[14]を探し続けてきた.マルセルデュシャン[15]が網膜のための絵画[16]を抜け出て,思索探求[17]と哲学[18]の自由を芸術[19]にもたらしたように,我々も耳だけの音楽[20]から離れたとき,オーケストラ[21]の構成要素[22]となるものが何かという問い[23]を持ち続ける試み[24]を続けてきた.この古典的とも言える問い[25]をオーケストラと共に実直に探求する活動[26]を続けてきた.当時代性[27]を持ってこの問題にどういう答えを出すことができるのか,時代と社会と共に歩んできた[28].初回[9]から4分33秒[29]というジョンケージ[30]の作品を扱ってきたものの,メイン[31]で彼の作品を扱うのは初めての試みとなる.いよいよ時は満ちたというべきか,それとも時間芸術[32]を受容する我々そのものが変容しつつある[33]というべきだろうか.今回の演出の過程ではいつものような時間と空間ではなく,時間なき音楽[34]と向かい合うことになった.
ナムジュンパイク[35]が1980年に述べた「定在する遊牧民」[36]のコンセプトやポストコロナ[37]の祝祭[38]・身体性[39]を込めて昨年の醸化する音楽会[13]を開催した.定在する遊牧民とはデジタル技術によって人の知的活動は遍在し,あたかも遊牧民のように世界中に出現しながら,物質的な身体は定在しているという状態を指す[36].デジタル技術による定在遊牧性[37]と現代社会[38]についての思考を続けているうちにこの変化[39]は,狩猟採集社会[40]・農耕社会[41]・定在遊牧社会[42]と続くような千年レベルの大きな変化[43]なのではないかと考えるようになった.ゆえに,大きなパラダイムの変遷[44]として農耕社会以前について[45],身体性について[39],規範や倫理について[46],そして森林[47]や炭素循環[48]について思考を続けていた.
森林に多く存在するきのこ[49]はネットワークを張り巡らせる生き物[50]である.ジョンケージ[30]は4分33秒[29]:無音の音楽のことを「きのこの音楽」[51]と呼んだが,耳もなく目もないきのこにとっての音楽とはなんだろうか.その補助線[52]として考えられるのは仏教的世界感覚[53]であると思う.ケージの作風[54]は鈴木大拙[55]の禅の講義[56]を受ける以前と以後で大きく変化したことが知られている.空海[57]風にいえば山も水も木々も空も鳥も我々も全てのものは変化し,そして繋がっている[58].自分が今の時代に補足をするならばそれは波動も物質もデジタルも計算機も含めた大きな流れ[59]を体得することかもしれない.熟考を続けるうちに,それは物質的,触覚的なグルーヴ[60],そして森林生態系[61]にとっての音楽そのものではないだろうかと考える機会が増えた.この森林生態系としてのグルーヴを人に置き換えてみたらどうなるだろう.社会で生まれるさまざまな音[62],ネットワーク[63],社会的生物としてのヒト[64],そして音でも光でもない味覚や触覚や嗅覚的なグルーヴ[65].それは奇しくもコロナ禍[66]で失ったコンヴィヴィアル[67]な体験の構成要素[68]そのものではないだろうか.
森と共にコンヴィヴィアルな要素と共に生き[69],非言語的[70]脱論理的[71]な体感知[72]を希求する上で定在遊牧的[42]な縄文社会[73]のことをリサーチするに至った.縄文人[74]は近年の遺伝学的調査[75]によれば,東アジアの人々から派生し,琉球人[76]・アイヌ人[77]・縄文人と三つに分かれた遺伝的特性を持つ人々であったとされている[75].サステナブルな社会[78]を思考する上で1万年以上[79]にわたる持続可能社会[80],そして戦乱なき[81]比較的平和な安寧[82]を営んだ上記の人々の文化や生活を見逃すわけにはいかない.土器[83]や土偶[84]をめぐる調査[85]やアイヌ音楽を伝承する人々[86]との協働[87]など多くの事例[12][13]を通じて,大いなる自然[88]から何かを紡ぎ[89],育て[90],それを還し[91],また受け継ぐこと[92]の重要性を感じている.集団[93]における未来の情報[94]を価値[95]とし,時間[4]や金銭[96]という概念を導入すると失われてしまう持続可能性[97]があるのだろう.例えるなら茶道[98]の茶禅一味[99]・即今[100]のように,過去現在未来[101]という時間の流れの中に身を置く[102]というよりは,今[103]それそのものへ着目し,時間という概念を超えた空間芸術[104]としての音楽への回帰[105]と理解が,現在向かいつつあるポストインターネットの定在遊牧社会[106]と共鳴しうると考えた.
我々は今空間的に遍在し[107],資本[109]や時の流れとはまた違った価値観[110]を揺籃しつつもあり,物質的身体的なものへの飢え[111]から回復[112]しつつある中で,平和を希求し[113],分断を乗り越えるための何か[114]を,文化や歴史の営み[115]の中から紡ぎだそう[116]としている.ケージの時代[117]に描けなかったキノコの音楽[118]・そしてキノコの楽器[119]とは何か.そんなことを思いながらこの空間に生きる遍在する身体[120]の共感[121]に想いをはせてほしい.
------------落合陽一
脚注:引用含む 6で挫折
楽音や噪音でなく音波(物理量)として述べていることに注意されたし https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3#%E9%9F%B3%E6%A5%BD%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E9%9F%B3
物理量としての光として述べている.前段の音と光で視聴覚を暗喩している https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89
音に色がついて見えたり色に音がついて見えたりすること もしくはその両方が入ることで惹起される感覚など https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A
1と2で扱った光と音を波として捉えて,波動方程式の時間変数から
4の波動方程式の空間変数から
仏教用語の縁起,すべてのもの(ダルマ、現象、原理)が他のものに依存して生じるということ とりわけ密教寄り(後述)の5までの文脈を踏まえる https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%81%E8%B5%B7
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落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
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