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ポストデジタルネイチャーアートと2025年


以下の論考では、メディアアーティスト・研究者・起業家として活動している落合陽一を、特に現代芸術批評の文脈で再検討する。これまでのインタビュー対話やサーベイの情報を踏まえ、彼が「ポストデジタルネイチャーアート」へと向かう姿勢を、ホワイトキューブ以降の西洋芸術史や日本の芸術空間の問題、さらには宗教や技術哲学との関係性から読み解き、その方向性をまとめる。


1. デジタルネイチャーとポストコンテンポラリーアート

落合陽一が近年提示する「計算機自然(デジタルネイチャー)」は、世界の根底に計算の存在を前提とした新しい自然観である。従来の「人間中心の自然観」が問い直され、計算を基層とする自然観への転換が起こると彼は捉える。これによって生じる芸術の在り方は、もはや単純なコンテンポラリーアートではなく「ポストデジタルネイチャーアート」と呼ばれる新段階に入る。
ここで重要なのは、デジタル技術の応用や物質と非物質の融合を表層的に強調するだけではなく、「技術哲学」と「芸術批評」のあいだを総合的に探求する姿勢である。技術哲学においては、テクノロジーが人間や社会の自然観をどのように変容させるかが問題化されるが、落合はこの問いを芸術という表現手段の有無を超えて取り扱う。論文・政策立案・社会実装・起業など、幅広い領域で同時並行的に活動するなかで、芸術のみを究極の表現媒体とせず、しかし結果的にアートへと至るという可逆的な在り方が特徴的である。


2. ホワイトキューブ以降の日本芸術空間

落合陽一の活動を現代芸術批評の側から見たとき、しばしば問題化されるのが「ホワイトキューブ」という展示空間の存在である。ホワイトキューブは20世紀に西洋で確立され、白い壁と閉鎖的な箱状空間を「中立の場」として設定することで近現代美術を評価する仕組みを生み出してきた。
一方、日本には古来、茶室や寿司屋、神社空間など、用途や文脈に根差した多元的な芸術環境があった。茶室はもとより「意味の塊」として設計され、床の間や道具の配置、所作の様式とともに一体化していく芸術空間である。ここでは作品と観者が切り離されるのではなく、時間・行為・空間が総合的に組み込まれ、鑑賞者自身が自然の一部として体験を深める構造を持つ。
落合は、この日本独自の空間性こそが「西洋中心の価値観によって漂白」され、戦後社会の中で周辺化してきたと位置づける。茶室や寿司屋を再構築する動きは、単に伝統を尊重した「和風モチーフの作品展示」ではなく、ホワイトキューブが標準として君臨し続ける現代の美術制度を逆照射し、別の多元的芸術空間を再提示する試みと言える。そこには、「日本の芸術空間を外部から眺めるオリエンタリズム的アプローチ」に迎合せず、主体的に茶室や寿司といった空間の根底にある神道や仏教(とりわけ真言密教)の思想に踏み込み、芸術空間を再発見するという強い意思が読み取れる。


3. 宗教・思想との内在的アプローチ

落合が茶室や寿司といった伝統的文化要素を扱うとき、しばしば「表層的な日本イメージの利用」と混同される。しかし、彼は神社を自ら建立したり、真言密教の仏像制作に携わるなど、宗教的実践へ直接に踏み込む姿勢を見せている。
これはたとえば、クラシック音楽を「素材」として使うリミックス(サンプリング)ではなく、自ら指揮者となり伝統的な譜面から熟考して音楽を紡ぎ出すような行為に近い。すなわち、表層や記号だけを利用するのではなく、宗教的文脈を内在的に学習し、深度をもって作品をつくりあげる点に大きな特徴がある。
この内在的アプローチは、「ヌル(空)」という概念の取り扱いにも顕著である。落合は仏教思想、とりわけ真言密教の「空性」を参照しながら、物質と非物質、情報と身体の「あわい」を計算機自然の世界観に接続しようとする。ヌル=空が与える本質的な無の概念を、デジタル技術による可視化・可聴化・可触化の仕組みと結びつける試みは、技術と宗教哲学を横断する相当に特異な姿勢といえる。


4. 「社会課題」の道具化を拒絶する立ち位置

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落合陽一が「今」考えていることや「今」見ているものを生の言葉と写真で伝えていくことを第一に考えています.「書籍や他のメディアで伝えきれないものを届けたい」という思いを持って落合陽一が一人で頑張って撮って書いています.マガジン開始から4年以上経ち,購読すると読める過去記事も1200本を越え(1記事あたり3円以下とお得です),マガジンの内容も充実してきました.

落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…

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