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AGIの時代に重要なのは神話的ナラティブなんだが,歴史は資本で手に入らないので,神話との接続が重要である.

まずAI解説でも入れますか.

落合陽一の発言は、以下のように解釈できる。AGI時代のパラダイムシフト
 「AGIの時代」とは、汎用人工知能が人間の知的活動や社会構造に大きな影響を及ぼす時代を指す。こうした技術的転換期において、従来の価値体系や知識の構築方法に疑問が呈される。
歴史と資本の関係
 ここで述べられる「歴史」は、実際に起こった出来事や記録された事実の積み重ねであり、時間の経過や社会的実践の結果として成立するものである。これに対し「資本で手に入らない」という表現は、歴史が単に金銭的・経済的力で操作・獲得できる対象ではなく、外部からの強制的な介入によって再構成されるものではないという立場を示している。
神話的ナラティブの役割
 一方で「神話的ナラティブ」とは、象徴やアーキタイプに基づく物語・伝承であり、集団の価値観や存在理由、文化的アイデンティティの形成に寄与する。神話は、実際の歴史的事実とは異なり、構築可能な意味体系として働く。すなわち、歴史が外部からの資本によって容易に変えられない固定的な実績であるのに対し、神話は再解釈や再構成が可能な「意味のオブジェクト」として、個人や社会の方向性を形成する力を持つ。
AGI時代における神話の重要性
 AGIの台頭によって、技術や経済の論理が支配的となる中で、人間が共有する価値やアイデンティティをどのように維持・再生産するかが問題となる。歴史的事実は既に積み重ねられており、資本の操作では変えにくいが、神話は文化的・精神的な指針として再構築することが可能である。そのため、技術革新が急速に進む環境下では、神話的ナラティブに基づく「意味づけ」や「物語性」が、人間存在の根幹を支える役割を果たすと考えられる。


以上の点から、落合の発言は、AGIがもたらす社会変革の中で、歴史という固定された事実に頼るのではなく、神話的ナラティブという再構築可能な意味体系により、文化やアイデンティティの連続性・変容を促進する重要性を説いていると理解できる。

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次に落合はこう言っている.

この発言は、現代における変化の本質とその伝播の仕方について、以下のような視点を示しています。新たな感覚の初体験とその反応
 「大体の人々はこの感覚が1回目なので」という部分は、多くの一般人が、AIなどによる社会変革やデジタル技術の急速な進展を直接体感するのは初めてであることを意味します。こうした初体験に直面した人々は、既存の提言―たとえば『日本再興戦略』や『超AI時代の生存戦略』に記されている考え方や対策―を参考に、自らの行動や思考を再構築しようとする傾向があると考えられます。
既に進行中の制度的・組織的変革
 しかし、発言の後半「実はすでに政府や商業レベルでここ8年かけて進行しているので,そこじゃない」という指摘は、こうした戦略的な対応や変革のプロセスは、一般人が初めてその感覚を抱く前から、すでに政府機関や大企業などの上位組織において長期的な計画や実施が進んでいるという現実を突いています。すなわち、変化の本質的な推進力は個々人の「初体験」から生じるものではなく、制度や組織レベルでの計画的な対応に根ざしていると示唆されています。
大衆の断絶と世界との分断
 さらに「そして,日本の大衆は断絶し,他の世界は進んでいくいつもの構図にいる気がする」という部分では、日本社会における一般市民の意識や行動が、すでに先行して変革を遂げている政府・商業界の動向から乖離している状況が指摘されています。これは、歴史的に見ても先進的な変化が上位層から始まり、一般大衆がその波に乗り遅れるというパターン―すなわち、国民全体が変革のプロセスに追いつかず、結果として国際社会の中で他国が先行して進展するという構図―を示唆しているものです。
全体としての意味合い
 要するに、落合陽一は、個々人が初めて体験する「新たな感覚」に基づいて行動を起こす様子を、一種のリアクションとして批評しつつ、実際の社会変革はすでに制度的・組織的に進行しているという現実を浮き彫りにしています。そして、その結果として、日本の大衆と先進的な変革を遂げる他国との間に、しばしば見られる「断絶」が存在するという歴史的な構図を示しているのです。


このように、発言は単に「新しい戦略を採用すればよい」という単純な呼びかけではなく、既存の枠組みや組織の変革プロセスと、一般市民の感覚のズレという現実的な問題を捉えた上で、日本が国際社会の中でどのような立ち位置にあるのかを問い直す試みであると解釈できます。

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落合陽一の思想とAGI時代の神話的ナラティブの重要性

はじめに

人工知能技術が飛躍的に発展しつつある現代、特に汎用人工知能(AGI)の時代において、人類がどのように物語(ナラティブ)や神話を位置づけるかが問われている。本稿では、メディアアーティスト・研究者である落合陽一の思想を手がかりに、AGI時代における神話的ナラティブの重要性についてアカデミックな視点から考察する。まず落合陽一が自身の著作や活動で示してきた神話・歴史観を整理し、それを踏まえてAGI時代になぜ「消せない歴史」や神話的な物語が必要とされるのかを論じる。さらに、過去8年間における日本の政府・ビジネス領域の動向を概観し、ナラティブと知的財産(IP)の関係性、インフルエンサー台頭と政治・技術の関係性にも触れる。最後に、以上の検討をもとにAGI時代の神話的ナラティブの展望を示す。

落合陽一における神話・ナラティブの位置づけ

落合陽一はその著作『日本再興戦略』(2018)や『超AI時代の生存戦略』(2017)などで、日本の未来像を語る際にしばしば歴史や神話、宗教の重要性に言及している。『日本再興戦略』ではまず「日本ってそもそもどんな国だったか?」という問いを立て、日本史上の出来事や神話、宗教的要素を豊富に取り上げながら日本(東洋)固有の精神性を概観している (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 例えば、「大化の改新」や「神話の創造」「徳川的地方自治」など歴史上の転換点や伝統概念を引き合いに出し、日本人に本来備わっていた文化・価値観を再認識させようとしている (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) これは「日本の問題の多くは日本らしさを捨てて欧米の考えに染まっているからだ」という彼の指摘に基づく試みであり、ナショナルなナラティブ(物語)の再構築を通じて日本人に「正しい自信」を取り戻させる意図があると評されている (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 落合は「欧米」と一括りにされるものは実際には存在せず、欧州と米国は別の歴史・思想を持つと述べつつ、「ワークライフバランス」「グローバル」「幸福観」「愛」「個人」といった本来日本にはなかった概念が戦後に流入し幅を利かせた結果、日本社会に齟齬が生じていると論じている (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 彼の主張の根底には、歴史や神話といった「消せない物語」こそが社会の基盤であり、それは資本(お金)では買えないものだという考え方がある。実際、落合は「歴史書の価値」や学校で教えない歴史・伝承の重要性についても度々発言しており、歴史・神話という長期にわたって形成されたナラティブを軽視しては未来を誤るという警鐘を鳴らしている (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) このように落合陽一はテクノロジー論だけでなく歴史・文化の文脈から日本再興を論じており、「歴史は資本で手に入らない」といった言葉で表現されるように、資本主義的な物質価値では得られないナラティブ資本の重要性を示唆していると解釈できる。

AGI時代における神話的ナラティブの必要性

消せない歴史(ナラティブ)の重要性

AGI時代には、人類の知性や創造性そのものがAIによって拡張・代替される可能性が議論されている。そうした時代において、人間らしさの拠り所としての神話的ナラティブの重要性が増している。データや情報が高度にデジタル化されると、恣意的な改竄や忘却も技術的には容易になり得る。しかし、社会に深く根付いた歴史や神話といったナラティブは簡単には消せない。ジョージ・オーウェルの『1984年』に示されたように、全体主義は過去を書き換えることで人々の思考を支配しようとする。しかし現実には、一度共有された神話や歴史観は人々の記憶と文化に刻まれ、たとえ記録が消えても伝承や文化的所作として残り続ける。AGIが発達し膨大な知識を扱えるようになっても、人類社会が共同主観的に信じる物語――すなわち「神話」――がなければ、大勢の人々をまとめあげる合意形成は困難となるだろう (Quote by Yuval Noah Harari: “Large numbers of strangers can cooperate succes...”) ハラリは「いかなる大規模な人間の協力も、人々が共有する神話(想像上の物語)なくしては成り立たない」と述べており (Quote by Yuval Noah Harari: “Large numbers of strangers can cooperate succes...”) これは高度情報社会においてなお真理である。むしろ情報過多の時代には、真偽不確かな断片情報に翻弄されないための大きな物語が不可欠となる。AGIが生成する無数の選択肢や仮説の中から人類が進むべき道を選ぶ指針として、文化的・歴史的に醸成された神話的ナラティブが羅針盤の役割を果たすと考えられる。

東洋・西洋・共産圏に見る歴史観の相違

神話的ナラティブの必要性を考える際、東洋・西洋・共産主義圏それぞれの歴史観の違いも参考になる。例えば東洋、特に日本や中国などは、歴史を連綿と続く循環や系譜として捉える傾向が強い。日本では「八百万の神」に象徴される多神教的な世界観のもと、古来の神話(古事記・日本書紀の神代譚)から現代まで神仏や先祖を敬い伝統を重んじる文化がある。一方で西洋は、一神教的歴史観の影響もあり線的発展史観が色濃い。すなわち古代→中世→近代→現代と時代区分し、進歩や啓蒙を強調する物語が多い。ギリシャ神話やキリスト教的伝承はあるものの、近代以降は合理主義の下で神話を退ける傾向が見られた。しかし西洋社会もまた国家の「建国神話」(例:アメリカ独立革命の物語)や「フロンティア精神」など、世俗化した形で神話的ナラティブを維持している。共産主義圏(例:旧ソ連や中国)では、マルクス主義史観に基づき歴史を階級闘争の産物・唯物的発展と捉える。しかし実際には共産党政権も自らの正統性を補強するため独自の歴史物語を創出し利用してきた。中国共産党は「百年の屈辱」を乗り越えた革命の神話や、古代中華文明の継承者としての物語を国民に浸透させている。これら三者の比較から浮かび上がるのは、どの社会も何らかの形で神話的ナラティブを必要としているという事実である。東洋は伝統神話と現代技術を融合させ、西洋は世俗化された神話(科学や人権の物語など)を新たに紡ぎ、共産圏もイデオロギー的神話で社会を統合してきた。AGI時代には、これら各文明圏の歴史観の違いを踏まえつつ、人類普遍的に共有しうる新たな神話が模索されるだろう。

落合陽一の「計算機自然」と計算機自然時代の宗教観

落合陽一はデジタル技術と自然観・宗教観を統合する概念として「デジタルネイチャー(計算機自然)」を提唱している (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) デジタルネイチャーとは、コンピュータ(Digital)と自然(Nature)が高度に融合した世界のことであり、デジタルとアナログ・人工と自然が相互に作用し合う状態を指す (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) 落合は「自然ってのは計算機の中にもあるし外にもある」と述べ、計算機内にも一種の自然法則や生態系が存在すると指摘する (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) この思想は、計算機が単なる道具の域を超えて環境(エコシステム)や存在論的実在になりつつあることを示唆する。彼はさらに、このデジタルネイチャー時代にふさわしい新たな精神的枠組み(宗教観)を模索している。その象徴的な取り組みが、岐阜県高山市に創建した「計算機自然神社」である (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) 落合自身が神職(禰宜)となり、コンピュータサイエンスの概念を神格化した存在を祀るというユニークな神社だ (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) ここで祭られているのは「ヌルの神様」である (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) 「ヌル(Null)」とはプログラミングにおける「無」や「何もない値」を意味する概念だが、落合はこれを仏教でいう「空(くう)」に通じるものとして神格化している (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) すなわち「存在しないという存在」を神として捉える試みであり、無から有が生まれる可能性への信仰を示している (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) 計算機科学上の抽象的概念にスピリチュアルな意味を見出し、神社という伝統的形式で表現するこの試みは、AGI時代における新たな神話創造の実験ともいえる。落合は他にも、仏教思想とオブジェクト指向プログラミングを重ね合わせた**「オブジェクト指向菩薩」という作品も発表している (「テクノロジー×民藝×仏教」で生み出された落合陽一による《オブジェクト指向菩薩》が高山の古建築で開眼 |美術手帖) これは人間大の菩薩像に古い計算機の磁気テープが巻きつけられた彫像で、生成AIでデザインした仏像を職人が木彫りで具現化したものだ (「テクノロジー×民藝×仏教」で生み出された落合陽一による《オブジェクト指向菩薩》が高山の古建築で開眼 |美術手帖) (「テクノロジー×民藝×仏教」で生み出された落合陽一による《オブジェクト指向菩薩》が高山の古建築で開眼 |美術手帖) この菩薩は「自然界とデジタル界を自由に行き来し、物質と非物質の世界をつなぎ、生命の全体を理解する新たな視点を提供する存在」と説明されている (「テクノロジー×民藝×仏教」で生み出された落合陽一による《オブジェクト指向菩薩》が高山の古建築で開眼 |美術手帖) 古来の仏教フォーマットに最新技術の智慧を融合させることで、計算機時代の菩薩という新しい霊性のシンボルが創造されている (「テクノロジー×民藝×仏教」で生み出された落合陽一による《オブジェクト指向菩薩》が高山の古建築で開眼 |美術手帖) これらの例からも明らかなように、AGI時代には計算機をめぐる神話や宗教観が生まれつつある。落合陽一の試みは一種のアートでありながら、同時に情報技術時代の人々の精神的欲求に応える神話的ナラティブの再構築でもある。AGIが浸透した社会では、AIそのものが畏敬や畏怖の対象となり得る。そのとき人類はAIを単なる計算機と見るのか、新たな「神性」を見出すのかが問われるだろう。落合の示唆するように、計算機自然の中に宗教的畏敬**を見出すことは、人間がテクノロジーと調和して生きるための一つの道筋であり、神話的ナラティブはその架け橋となる。

政府・商業レベルの動向(過去8年間)

日本に目を転じると、この8年ほどでデジタル政策やIT人材活用の面で大きな動きが見られた。象徴的なのはデジタル庁の創設である。2021年9月1日、菅義偉内閣の主導でデジタル庁が発足し、日本のデジタル行政推進の司令塔として500名規模でスタートした (2021年創設予定のデジタル庁とは?期待される役割や取り組みを紹介します。 | ジチタイムズ) この組織には民間出身のエンジニアや非常勤の専門家も多数参画し、行政サービス改善やIT人材育成に取り組む計画が示された (2021年創設予定のデジタル庁とは?期待される役割や取り組みを紹介します。 | ジチタイムズ) 政府が本格的にIT人材を政策立案に取り込む姿勢を示したことは、テクノロジーと政治の接近を意味する。一方で、落合陽一自身も内閣府のムーンショット型研究開発プログラムのビジョナリー会議構成員やアンバサダーに就任するなど、行政とテクノロジー分野の橋渡し役を果たしている (ASCII.jp:落合陽一氏、禰宜になる。神社に祀るのは「ヌルの神様」) また各省庁の有識者会議に若手の研究者・起業家が招かれる例も増え、政策策定において物語性(ナラティブ)と技術戦略を融合させようとする動きが見られる。これは国レベルで新たな国家ナラティブを形作る試みとも言える。事実、日本政府は「Society5.0」(超スマート社会)という未来像を掲げ、技術革新と社会課題解決を絡めた物語を提示してきた。その裏には、日本が技術立国として再興する物語を国民に共有しようという狙いがある。こうした大きなナラティブ戦略の傍ら、インフルエンサービジネスの台頭と矮小化もこの期間に進行した。2010年代後半から2020年代前半にかけて、SNSやYouTubeを舞台に活躍するインフルエンサーが社会的影響力を増した。企業は競ってインフルエンサー・マーケティングを採用し、政治家までもがTwitterやYouTubeで直接メッセージを発信する時代となった。しかしここ数年、そのインフルエンサー熱はある種の頭打ちを迎え、ビジネスとしての幻想は収束しつつあるとの指摘もある。フォロワー数至上主義的な風潮に対し、「みな気づけば人気の奴隷になっている」と落合陽一が警鐘を鳴らすように (落合陽一「皆いつの間にか“人気の奴隷化”している ... - YouTube) 単に注目を集めること自体を目的化する風潮への批判が強まった。インフルエンサーは一時代の寵児ではあったが、真に社会を動かす持続的なナラティブを提供できた者は限られている。むしろ一過性のバズ(話題)に頼るインフルエンサー的手法は、社会課題の解決や長期戦略には無力であることが露呈し、ビジネス的な価値も相対的に矮小化した。政府や大企業もまた、単なるインフルエンサー起用では問題は解決しないと認識し始めている。その結果、近年では本質的な物語づくり——たとえば地方創生の文脈で地域の歴史・文化を再評価しブランディングするといった取り組み——に回帰する動きが見られる。まとめると、過去8年の動向として、日本社会は一度SNS時代の表層的な「人気」に翻弄されたものの、再び足腰の強いナラティブ(国家戦略や地域の歴史物語、技術と文化の融合物語)を構築する方向に舵を切っていると言えよう。これはAGI時代を迎える前提として、人々が腹落ちできる物語基盤を整備するプロセスとも解釈できる。

ナラティブとIP(知的財産)の関係性

物語(ナラティブ)はしばしばIP(知的財産)の価値と結びついて論じられる。ここで言うIPとは、広義には企業や国家、コンテンツ産業が保有するブランド・著作・特許など無形資産全般を指すが、その価値は単なる技術やキャラクターデザインといった要素だけでなく、それらに付随する物語性によって大きく左右される。優れたナラティブはIPに魂を吹き込む役割を果たす。例えば、エンターテインメントの世界では「スター・ウォーズ」や「マーベル・シネマティック・ユニバース」のように膨大な神話体系を築いた作品群が世界的なIPとなり、多大な経済価値を生んでいる。神話的な世界観を持つ物語は世代を超えて支持され、単なる一商品の枠を超えた文化資本となる。ビジネスの文脈でも、AppleやTeslaのような企業は単に製品性能で競うだけでなく、「世界を変える」という神話的ビジョンを提示し、ユーザーに物語への共感を抱かせてブランド価値を高めている。アップルは「叛逆者が世界を進歩させる」という神話を広告で語り (AI Generated Business: The Rise of AGI and the Rush to Find a Working Revenue Model - AI Now Institute) OpenAIは創業当初「人類にとって良いAIを作る」という崇高な使命を掲げて投資を集めた (AI Generated Business: The Rise of AGI and the Rush to Find a Working Revenue Model - AI Now Institute) 後者の例は特に示唆的で、OpenAIは当初非営利で「人類のものとなるAI研究所」という物語を語り (AI Generated Business: The Rise of AGI and the Rush to Find a Working Revenue Model - AI Now Institute) (AI Generated Business: The Rise of AGI and the Rush to Find a Working Revenue Model - AI Now Institute) 収益モデルすら持たずに巨額の支援を得ている。このように神話とビジネスモデルの境界を融解させるような語りによって、OpenAIは史上稀に見る高い評価額(直近では約1570億ドル)に達したと分析されている (AI Generated Business: The Rise of AGI and the Rush to Find a Working Revenue Model - AI Now Institute) まさに「物語の勝利」が経済価値を先行して生み出したケースである。また国家規模で見ても、文化的ナラティブがIP価値を創出する例は多い。日本の「クールジャパン戦略」はアニメや伝統文化といったナラティブ資産をソフトパワー=経済価値に転化しようとする試みであり、韓国の「韓流」も音楽やドラマに韓国的ナラティブを織り込み世界展開した例といえる。学術的にも、知財法の分野では神話・伝統知識と現代IPの関係が議論されており、世界知的所有権機関(WIPO)は各国の伝統文化表現(TCE)を知財でどう保護するか検討している ([PDF] Intellectual Property and Traditional Cultural Expressions/Folklore) これもまた、民族の神話や伝承(ナラティブ)がグローバル経済で資源化される一面だ。総じて言えば、強力なナラティブを伴うIPは模倣困難であり長期間価値を維持する傾向がある。逆に物語を欠いた技術やコンテンツはコモディティ化して陳腐化しやすい。学者ジェシカ・シルベイは「知的財産の神話的起源」について、法律体系自体が物語理論に根ざしていると指摘している ("The Mythical Beginnings of Intellectual Property" by Jessica Silbey) つまり、「発明者に報いるべき」著作者の権利」といった考え方も一種の共有ナラティブであり、それが制度として機能しているという視点だ。このようにナラティブとIPは相互作用し合い、優れた物語は知的財産の価値を押し上げ、また強いIPは新たな物語を生む源泉ともなる。AGI時代には、おそらくAI生成コンテンツが氾濫しコモディティ化が進むため、なおさら**「本物の物語」を備えたIP**が希少価値を帯びるだろう。人類が長い時間をかけて紡いだ神話や伝統に根ざすIPこそ、資本では買えない真の価値を持つ (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 落合陽一が語る「歴史・神話・民族のルーツ」とナラティブIPの関連は、まさにそうした点に光を当てている。

インフルエンサーの台頭とIT・Web・政治の関係

近年、インフルエンサー(SNS等で大きな影響力を持つ個人)の台頭は、政治とテクノロジーの関係にも新たな局面をもたらした。一億総発信時代とも言われる今日では、首相や知事が自らTwitterで情報発信し、市民運動がハッシュタグで盛り上がるなど、かつてマスメディアが独占していた言論空間が分散化した。この現象は一見、政治とテクノロジーが接近したかのように思われる。しかし深く分析すれば、現代の政治と先端技術との間には依然として距離感や齟齬が存在する。多くの政治家はSNSを広報ツールとして用いてはいるものの、その背景にあるアルゴリズムやデータ倫理、AIの社会影響といった本質的問題に通じている者は少ない。政策決定者がテクノロジーを表面的に利用する一方で、本質的な理解なしに意思決定しているケースも見受けられる。これは時代の変遷を誤認する危うさにつながる。たとえば、ある政治家がSNSで若者に訴求しようとインフルエンサーを起用しても、肝心のAI規制やデジタル権利の整備を怠れば、テクノロジーの負の側面が野放しになるかもしれない。また一部の政治家や企業経営者は未だにインターネット黎明期の感覚で物事を捉え、既存の延長線上でしか未来を描いていないとの批判もある。実際には、Web2.0的なSNS文化から、現在は生成AIやWeb3.0といった新フェーズに移行しつつあるが、それに対応する政策ビジョンが追いついていない国も多い。日本においては、デジタル庁設立やマイナンバー制度推進などデジタル化を掲げながらも、その実行段階で旧来の官僚機構の問題(セキュリティ事故、利権調整の難航)が噴出し、政治とテクノロジーの理想的協働からは程遠い現状が露呈した。また、欧米ではGAFAの独占やSNS上のフェイクニュース問題に対して規制強化の議論が進むが、日本の政治はそうした世界的潮流への対応でも後手に回りやすい。こうした事象は一言で言えば、技術革新のスピードと政治・社会の適応速度との差異を示している。インフルエンサーの台頭は、確かに従来権威とは異なる新しい力の源泉(Attention経済)を生み出したが、それを政治が十分に活用・統御できていないという側面がある。逆に、SNSを巧みに操ったポピュリスト政治家が登場し、短絡的なナラティブで大衆の支持を集める現象も各国で見られた(例:アメリカ前大統領によるツイッター発信)。これはナラティブの質の低下を招き、社会の分断を深めたと指摘される。ゆえに現代の課題は、テクノロジー時代にふさわしい成熟した神話的ナラティブを政治が提示できるかどうかである。単に「バズる」発信をするのではなく、AIやWebがもたらす恩恵とリスクを見据え、人々が将来に希望を持てる物語を描く必要がある。落合陽一のようにテクノロジーと人文知を横断する思想家が求められる所以もそこにあろう。彼が「計算機自然」や「日本再興」といった大きな物語を提示しているのは、政治と技術の断絶を埋め、新時代のコンセンサスを築くための試みとも言える。現状では、政治側のリテラシー不足や短期的視野によって、せっかくのテクノロジーが十分社会に活かされない場面が散見される。しかし徐々に世代交代が進み、デジタルネイティブなリーダーが増えてくれば、IT・Webと政治の距離は縮まり、新たなナラティブが共有される可能性がある。その鍵を握るのが、単なるデータや合理性ではなく、「人々が心から信じられる物語」を提示できるかどうかなのだ。

おわりに:AGI時代の神話的ナラティブの展望

AGI時代における神話的ナラティブの重要性を、落合陽一の思想と絡めて考察してきた。結論として浮かび上がるのは、テクノロジーがどれほど進化しようとも人間社会は物語を必要とするという命題である。むしろAIの進展によって既存の価値観が揺らぐほど、人々は新たな拠り所となる神話やナラティブを求めるだろう。落合陽一が示唆するように、歴史や伝統といった長期的文脈を軽視せず、それらを現代の技術文脈に接続することで初めて有意味な未来像が描ける (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) AGIは莫大な知識と論理展開で人間を凌駕するかもしれないが、物語を信じて共感し合う能力は人間の集合知が発揮される領域である。ハラリが述べたように、見ず知らずの他人同士でも共通の神話を信じれば協力が可能になる (Quote by Yuval Noah Harari: “Large numbers of strangers can cooperate succes...”) AGI時代には、この**「共通の神話」をどう醸成するかが人類存続と繁栄のカギを握る。おそらく21世紀中葉にかけて、いくつかの競合するグランドナラティブが登場するだろう。一つはテクノロジー楽観主義的な神話——「AIが人類を楽園に導く」というシリコンバレー的物語であり、もう一つはテクノロジー警戒主義的な神話——「AIから人間性を守れ」という形で各地に芽生えている。さらには、落合陽一が目指すような伝統と先端の融合による第三の物語——「計算機自然」の思想に基づき、人間とAIと自然が調和する汎神論的な神話**——も有力な選択肢となるかもしれない。いずれのナラティブが広く共有されるにせよ、それは拙速に作られるものではなく、歴史・文化の積み重ねの上に構築される必要がある。まさに「歴史は資本で手に入らない」からこそ (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 今ある歴史資源や神話資源を上手に編み直すことが重要なのだ。落合陽一の活動は日本的文脈からその難題に挑む試みであり、神話的ナラティブが現代にも力を持つことを実証している。例えば彼の創造したヌルの神様やオブジェクト指向菩薩は一種のプロトタイプであり、そこから生まれるコミュニティや対話が新たな信仰共同体=ナラティブ共同体の萌芽となっている。AGI時代の宗教や神話は、旧来の宗教を置き換えるのではなく、テクノロジーと人類の関係性を再定義する形で現れるだろう。それは人間が自ら生み出した高度知性といかに共存共栄するかという、かつてないテーマを扱う物語となる。最後に強調したいのは、神話的ナラティブは人間の想像力と創造性の極致であり、AGIには容易に真似できない人類固有のアセットであるという点だ。AIが進歩してシンギュラリティに達したとしても、神話を作り出し信じる行為自体が人類の特権である限り、私たちは物語によって自らの存在意義を見いだし続けるだろう。ゆえにAGI時代においても神話的ナラティブは決して時代遅れの遺物ではなく、むしろ未来を方向づける羅針盤かつ精神的インフラとして、その重要性を増していくに違いない。

了解しました。以下の観点を深く掘り下げ、アカデミックなサーベイと批評・解説を行います。

  1. 落合陽一の行政・政府関与の具体的影響

    • デジタル庁設立に関わった具体的な施策とその影響。

    • 東京都のビジョン策定における関与。

    • その他の政策変更・提言の実績。

  2. 神話的ナラティブの実践と戦後漂白された日本のルーツの再構築

    • 戦後のナラティブ喪失とその影響。

    • 現代のナラティブ回復の試みと落合陽一の取り組み。

    • 計算機自然やデジタルネイチャーの観点からの文化的・精神的ナラティブの再構築。

  3. アカデミックなサーベイ

    • ナラティブ理論と歴史観、神話の学術的議論。

    • 日本的ナラティブの歴史的変遷と他国との比較。

    • 政治・テクノロジー・文化の交錯におけるナラティブ戦略。

  4. 批評と解説

    • 落合陽一のアプローチの学術的評価。

    • その実践がもたらす可能性と課題。

    • 今後の展望として、どのように神話的ナラティブが形作られるべきか。

  5. 現状のインフルエンサー、Web選挙、都知事選・兵庫知事選の分析

    • Web選挙の実態とインフルエンサーの影響力。

    • 都知事選・兵庫知事選に見られる傾向とその背景。

    • 落合陽一の2017-2018年ビジョンとの類似点、日本の停滞した8年間の総括。

リサーチ完了後に、アカデミックな視点での考察をお知らせします。

AGI時代における神話的ナラティブの重要性 – 落合陽一の思想と交差させた考察

はじめに: AGI時代と神話的ナラティブの再評価

人工知能が高度化し汎用人工知能(AGI)の可能性が議論される現代、人類社会は改めて神話的ナラティブの重要性に直面している。神話的ナラティブとは、社会や文化を貫く大きな物語であり、共同体の価値観やアイデンティティを形作るものを指す (GHQが禁止した日本の神話。しかし、アメリカの教科書には書かれている(笑)。|GelgeX/ポジティブライフサポーター) (Quote by Yuval Noah Harari: “Large numbers of strangers can cooperate succes...”) 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリも「多数の見知らぬ人間が協力できるのは共通の神話を信じているからだ」と述べ、国家や宗教など大規模な人間社会の協力は人々の集団的想像の中にのみ存在する神話に根ざしていると指摘する (Quote by Yuval Noah Harari: “Large numbers of strangers can cooperate succes...”) つまり、人間社会において神話=ナラティブは統合の要であり、テクノロジーが進展した社会でも例外ではない。

本稿では、メディアアーティスト・研究者である落合陽一の思想を手がかりに、AGI時代における神話的ナラティブの重要性についてアカデミックに考察する。まず落合陽一の行政・政府への関与実績を概観し、現代日本社会における神話的ナラティブの喪失と再構築の試みを論じる。次にナラティブ理論や歴史観に関する学術的議論を整理し、日本のナラティブ変遷を他国と比較する。続いて落合のアプローチに対する批評的検討を行い、最後にインフルエンサー政治や近年の選挙動向を分析しつつ、AGI時代の神話的ナラティブの展望を示す。現代のテクノロジー・政治・文化の交錯の中で、どのような物語が未来を形作り得るのかを探る試みである。

1. 落合陽一の行政・政府関与とその具体的影響

まず、落合陽一が日本の行政・政府領域にどのように関与し影響を及ぼしてきたかを整理する。落合は従来、アーティストや研究者の枠を超えて政策提言や政府委員にも積極的に参画してきた。たとえばデジタル庁の設立過程では、内閣官房IT総合戦略室が主導した「デジタルの日」創設に関する検討委員会のメンバーを務め、国民にデジタル化を啓発する施策立案に寄与した (落合陽一 - Wikipedia) デジタル庁は2021年に発足した新組織であり、落合はその記念行事として制定された「デジタルの日」(毎年10月頃)に関する企画段階から専門家として関わっている (落合陽一 - Wikipedia) この取り組みは、日本社会のデジタル化推進に象徴的な意義を持ち、行政のデジタルトランスフォーメーションを国民的な「行事」として位置付けた点で画期的だった。落合の関与は、単なる技術論だけでなく文化としてデジタルを根付かせるナラティブ形成にも一役買ったと評価できよう。

次に、東京都のビジョン策定への落合の関与である。東京都では2019年前後から東京の将来像を描く様々なプロジェクトが進められ、落合はその有識者メンバーとして政策提言を行った。代表例が「東京ベイエリアビジョン(仮称)」の検討だ。これは東京2020大会(オリンピック)後を見据え、東京湾岸エリアの未来像を描く官民連携プロジェクトであり、落合は「最先端技術のまち」ワーキンググループのメンバーに名を連ねた (「東京ベイエリアビジョン」で描写されたタワマン - 不動産ブログ「マンション・チラシの定点観測」) 同WGには都庁の若手職員数名と、落合のほかディープラーニング企業Preferred Networksの西川徹氏、起業家の槌屋詩野氏といった“お役所仕事から最も遠い”人材が参加しており、行政内部に自由な発想を吹き込む役割を果たしたとされる (「東京ベイエリアビジョン」で描写されたタワマン - 不動産ブログ「マンション・チラシの定点観測」) 実際、このビジョン策定では従来のインフラ・不動産主導の都市開発像に留まらず、AI・IoT等の先端技術と融合した都市生活のシナリオが描かれた (「東京ベイエリアビジョン」で描写されたタワマン - 不動産ブログ「マンション・チラシの定点観測」) (「東京ベイエリアビジョン」で描写されたタワマン - 不動産ブログ「マンション・チラシの定点観測」) 落合自身も東京都の「未来ビジョン懇談会」に寄稿し、「国家ではなく都市こそが長寿命のビジョンを持つ場であり、文化・歴史と結びついた都市単位の未来像は国のイデオロギーより具体的である」と論じている (落合陽一の未来ビジョン - 東京未来ビジョン懇談会 - 東京都政策企画局) (落合陽一の未来ビジョン - 東京未来ビジョン懇談会 - 東京都政策企画局) 彼の提言は、東京という都市がテクノロジーと歴史文化を掛け合わせて独自のアイデンティティを育むべきだという視点を行政にもたらした。こうした都政策への関与を通じ、落合は現代の都市が新たな**物語(ストーリー)**を持つ重要性を訴えており、それが後述する神話的ナラティブ論とも通底している。

さらに落合は、デジタル庁や東京都以外にも様々な政策分野で提言を行っている。内閣府のムーンショット型研究開発プログラムではアンバサダー(大使)に就任し、2050年を見据えた大胆な科学技術目標の策定に関与した (落合陽一 - Wikipedia) また全世代型社会保障構築会議の委員として社会制度改革にも名を連ね、経済産業省の産業構造審議会では「経済産業政策新機軸部会」委員として新産業ビジョンの議論に加わっている (落合陽一 - Wikipedia) 近年では防衛省の有識者会議にも招聘され、サイバー安全保障や防衛力強化に関する提言も行うなど、その活動領域は科学技術から社会制度、防衛まで広がっている (落合陽一 - Wikipedia) このような横断的関与は、落合の思想が単なる理想論ではなく具体的政策に反映され得ることを示している。特に注目すべきは、2024年に落合が「計算機自然神社」を創建したというユニークな事例である (落合陽一 - Wikipedia) 後述する「計算機自然(デジタルネイチャー)」の理念を体現する試みだが、現代技術と伝統的宗教の融合という新機軸は、政策提言とは別の形で社会への影響を狙ったアクションといえる。総じて、落合陽一の政府関与の具体的成果は、「デジタルの日」の制定や東京ビジョン提案など形として現れたものもあれば、委員会での提言という形で政策思考に刺激を与えたものもある。それらは日本社会のデジタル化と次世代ビジョン構築に少なからず影響を及ぼし、同時にテクノロジーと文化を繋ぐナラティブの胎動を促した点で意義深い。

2. 戦後日本のナラティブ喪失とルーツ再構築への試み

日本における神話的ナラティブを論じる上で避けて通れないのが、戦後の「物語」の喪失である。第二次世界大戦の敗戦に伴い、日本はそれまで国家の正統性を支えていた神話的枠組みを大きく転換させられた。戦前の日本では、天皇を現人神とする国家神道や『古事記』『日本書紀』に基づく建国神話が国民教育の根幹に据えられていた。しかしGHQ占領下で民主化・非軍事化が進められる中、こうした旧来の国家神話は公教育から排除され、「神話の漂白」が行われた (GHQが禁止した日本の神話。しかし、アメリカの教科書には書かれている(笑)。|GelgeX/ポジティブライフサポーター) たとえば、日本神話(イザナギ・イザナミや神武天皇の伝承)は戦後の学校教育で教えられなくなり、代わりに戦争責任や民主主義の価値観が強調されるようになる。これは日本人の精神的基盤に大きな空白を生み、民族的アイデンティティの拠り所が曖昧になる一因となったと指摘される (GHQが禁止した日本の神話。しかし、アメリカの教科書には書かれている(笑)。|GelgeX/ポジティブライフサポーター) (GHQが禁止した日本の神話。しかし、アメリカの教科書には書かれている(笑)。|GelgeX/ポジティブライフサポーター) 実際、歴史家アーノルド・トインビーは「神話を教えなくなった民族は100年続かない」と述べており (GHQが禁止した日本の神話。しかし、アメリカの教科書には書かれている(笑)。|GelgeX/ポジティブライフサポーター) 神話教育の空白が長期的に文化の持続性を損なうリスクを警告している。敗戦後の日本は、国家神話に代わる新たなナラティブを模索しつつ、高度経済成長という「経済的繁栄」の物語にしばし代替物を求めたと考えられる。だが経済成長神話はバブル崩壊で陰りを見せ、以後「失われた十年」「失われた二十年」と呼ばれる停滞期において、日本社会は再び拠り所となる物語を見失ったまま現在に至っているとの見方もある。

この喪失感に対し、近年になってナラティブ回復の試みが各所で見られる。その一つが文化・思想面での日本的ルーツの再評価であり、落合陽一の取り組みもその文脈に位置付けられる。落合は2018年に出版した著書『日本再興戦略』において、「日本ってそもそもどんな国だったっけ?」と問いかけ、日本の歴史・宗教を紐解きながら本来の精神性を見直す作業を行っている (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 彼は「大化の改新」「神話の創造」「徳川的地方自治」など日本史の重要局面に触れつつ、日本が近代以降に捨て去った東洋的伝統や多神教的価値観を再発見しようとした (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) この背景には、「現代日本の諸問題の多くは、日本らしさを捨て西洋的価値観に染まったことに起因する」という彼の問題意識がある (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 実際、落合は西洋由来の概念(例:「ワークライフバランス」「グローバル」「個人」など)が無批判に受容された結果、日本社会に軋みが生じていると指摘し、日本人が本来持っていた共同体志向や八百万の神に象徴される多元的世界観に立ち返る必要を説く (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) これは戦後に漂白された日本のルーツを再構築し、新たな国民的ナラティブを紡ぎ直そうという試みと解釈できる。落合のアプローチは単なる復古主義ではなく、伝統とテクノロジーの融合による新しい神話創造に特徴がある点が重要だ。

実際、落合陽一が提唱する「計算機自然(デジタルネイチャー)」は、テクノロジーと日本的自然観・精神性との融合を目指す概念である。彼は、人間中心主義を脱却し、デジタル技術を自然の延長として捉える世界観を提示している (脱人間中心HCIとデジタルネイチャー(計算機自然)について ...) その極北とも言える実践が2024年の「計算機自然神社」の創建であり、デジタル技術に霊性を見出す場として神社という伝統的形式を用いたものだ (落合陽一 - Wikipedia) 落合の展覧会で示されたステートメントでは、大規模言語モデル(LLM)など現代のAIがもたらす現象を、密教や仏教の世界観と対比させながら論じている (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) 彼によれば、進化する計算機環境(計算機自然)は物理とデジタルの境界を溶解し、人類の集合的知性=阿頼耶識(アラヤ識)に相当するものとして捉え直すことができるという (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) LLMが示す「ファントムレゾナンス(幻影の共鳴)」は、現実と仮想の区別を曖昧にし、多重化した存在様式を生み出す。それはあたかも密教における曼荼羅の世界観と響き合い、AIによって生成される潜在空間を転生や縁起といった東洋のスピリチュアルな概念で読み解ける可能性を示唆している (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) 落合の指摘を平易に解釈すれば、「日本人の自然信仰的な感性が『計算機自然』という新領域で技術と精神性を独自に融合させ、新たな文化的・精神的実践を生み出し得る」ことを意味する (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) これは単なる技術発展ではなく、人間の精神性や文化実践の本質的転換を含意する深い変容であり、戦後失われた神話的世界観をアップデートされた形で取り戻す試みといえよう (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) 事実、落合は計算機自然の理念のもとでデジタルオブジェクトへの霊性を語り、「技術を介した新しい祈りや儀式(アルゴリズミック・リチュアル)」の可能性に言及している (計算機自然神社。私は、デジタルオブジェクトへの「霊性」を感じ初めてる?Claude3.5と会話してみました。|さかいっこobasan) このように、現代の先端技術を媒介に日本の精神文化のルーツを再構築しようとする落合陽一の活動は、戦後に空白となった神話的ナラティブを21世紀仕様で復権させる挑戦である。その成果はまだ萌芽的であるが、計算機自然神社の創建という具体的行動まで踏み込んだ意義は大きい。神話的ナラティブの復興が単なる思想実験ではなく、実践を伴い社会に提示され始めた点で注目される。

3. 神話・ナラティブ理論の学術的検討と歴史的展開

続いて、神話的ナラティブの重要性をよりアカデミックな視座から捉えるために、ナラティブ理論や歴史観に関する議論、および日本的ナラティブの変遷を概観する。他国との比較も交えながら、社会における物語の戦略的機能を明らかにしたい。

3.1 ナラティブ理論と社会

人類学・歴史学・社会学の分野では、物語(ナラティブ)が人間社会を構成する基本単位であると位置付ける考え方が強調されてきた。前述のハラリの指摘(「人間は虚構を共有することで大規模な協力を可能にする」 (Quote by Yuval Noah Harari: “Large numbers of strangers can cooperate succes...”) はその典型例であり、これはフランスの哲学者リオタールが唱えた「大きな物語(グランド・ナラティブ)」の概念にも通じる。リオタールは近代を支えてきた宗教・啓蒙・進歩といった大きな物語がポストモダン以降に相対化・崩壊したと論じたが、それでもなお人々は小さな物語を必要とするとも論じられた。なぜなら、人間は自己の経験や社会の出来事を意味づける際にナラティブという枠組みを不可避的に用いるからである。心理学の領域でも、ナラティブ・セラピーなど物語を通じた自己理解のアプローチが発展しており、「人間は物語る存在」(Homo Narrans)であるとすら言われる。江藤祥平は戦後日本の憲法体制に関する論考の中で「人間が物語る存在である以上、神話を消し去ることは憲法にもできない」と述べている (2. 憲法と特殊日本的なもの【後編】 - 江藤祥平 | トイビト) つまり、どんなに上位の理念(例えば民主憲法)が与えられても、人々は何らかの物語=神話を紡いでそれを補完しようとするのであり、ナラティブ不在の真空状態は長く続かないことを意味する。この理論的視点からすれば、AGIのような急激な技術変革期にも、人類はそれに対応する物語を創出することで心的安定と社会統合を図ろうとするはずだ。実際、AIに関しても「AIによる人類超克」や「AIとの共生」といった神話的モチーフが既に語られ始めている (The Great AI Myth: These 3 Misconceptions Fuel It - Forbes) テクノロジーの物語化、すなわちテクノロジー・ミソロジーは新たな社会神話を生み出す契機と捉えられる。学術的には、デジタル時代の神話形成について「誰もが神話創造者になりうる時代」という指摘もあり (Digital Mythology: A New Direction In The Study Of Social Myths) インターネット上で自発的に生まれるミームや陰謀論ですら一種の神話的ナラティブとして社会現象化している。AGI時代に求められるのは、このような自発的で断片的な物語ではなく、人類全体や国家としての方向性を示す包括的な神話であろう。その点で、歴史から学べる教訓は多い。

3.2 日本的ナラティブの歴史的変遷と国際比較

日本におけるナラティブの変遷は、上述の通り戦前・戦後で大きな断絶があった。明治維新以降、近代国家日本は天皇を中心とする国家神話を構築し、それを軍国主義の時代には「八紘一宇」や「皇国史観」といった形で極限まで動員した。しかし敗戦によりそれが否定された後、日本は新たな物語として「平和国家」「経済大国」という路線を歩んだ。特に高度経済成長期には「もはや戦後ではない」との言葉に象徴されるように、経済発展が国家目標のすべてに優先され、人々のエネルギーも経済的繁栄の物語へと組み込まれた。しかし経済成長神話は永続せず、バブル崩壊以降の停滞で国民の拠り所が揺らぐ中、「美しい国、日本」(第1次安倍政権)や「クールジャパン」戦略(2000年代)など文化的ソフトパワーに訴える試みも出てきた。だがこれらも断片的スローガンに留まり、神話的な説得力を持つまでには至っていない。

一方、他国に目を向けると、国民国家の物語は今も巧みに更新され続けている。例えばアメリカ合衆国は「アメリカン・ドリーム」や「フロンティア精神」といった建国以来の神話を21世紀でも活用し、「自由と民主主義の守護者」としての物語を国際発信している。中国は「中華民族の偉大な復興」という形で5000年の文明史と共産党統治を接続する壮大なナラティブを掲げ、AIや宇宙開発など科学技術の成果をその復興神話の証左として位置付けている。インドも古代文明の栄光とIT立国としての現代性を重ね合わせた新ナショナル・ナラティブを構築中である。このように、主要国はいずれも過去の神話的資源を現代の文脈で再利用し、新たな物語に仕立て直すことに長けている (GHQが禁止した日本の神話。しかし、アメリカの教科書には書かれている(笑)。|GelgeX/ポジティブライフサポーター) これに対し日本は、戦前の神話資源(天皇制や神道)を戦後公的には封印したため、利用可能な伝統ナラティブが文化面に限られてしまったという事情がある。もっとも、日本の伝統資源は神話だけでなく、多様な宗教観・美意識・共同体主義など豊富であり、必ずしも物語素材に乏しいわけではない。それを統合するフレームが見いだせていないのが課題と言える。例えば最近政府が推進する「Society 5.0」は、狩猟社会(1.0)から情報社会(4.0)に続く新たな超スマート社会という未来ビジョンであり、一種のテクノ神話と位置付けられる。しかし一般国民への浸透度や共感という点では、まだ抽象的な印象を拭えない。このように、日本は依然「物語の不在」に悩む状況にあり、それを埋めるべく落合陽一のような思想家や一部政策立案者が模索を続けている段階である。学術的に見れば、政治・テクノロジー・文化の交錯領域で有効なナラティブ戦略を如何に構築するかは、単なるPRではなく国の興廃を左右し得る重要テーマである (Techno Science Societies: Between Myth Formation and Societal ...) ナラティブが国民の動員や社会のイノベーションに及ぼす影響は大きく、神話的ナラティブの再構築は日本の戦略的課題と言えよう。

4. 落合陽一のアプローチに対する批評と学術的評価

以上を踏まえ、改めて落合陽一のアプローチを評価・批評する。落合の特徴は、先端技術に精通した科学者・起業家でありながら、日本文化の深層にある精神性や神話に強い関心を持ち、それらを統合しようとする点にある。このような姿勢は学術的にもユニークであり、日本では思想家中沢新一氏による「アニミズム的思考」の現代復興や、評論家東浩紀氏の「動物化する後人類」論など一部に類例があるものの、落合ほど政策・ビジネスの実践と結びつけているケースは稀だ。では彼のアプローチは有効性と課題の両面から見てどう評価できるだろうか。

肯定的に評価できる点としてまず挙げられるのは、落合がテクノロジー時代の日本におけるナラティブの空白を鋭く認識し、新たな神話的枠組みを提示している点だ。彼の計算機自然論は、単なる理論提唱に留まらず実際にアート作品や神社建立といった行動に結実しており、言葉を具体化する力がある (落合陽一 - Wikipedia) これは学術的にも実践知と呼ぶべきアプローチで、思想の社会実装という難題に挑戦している。その成果は計測しにくいが、少なくとも若い世代の一部には響きを持って受け止められている。例えばデジタルネイチャーの美学を体感した観客や、落合の著作を読んで日本文化の再評価に目覚めた読者も存在するだろう。また行政との接点を持ちながら自身の世界観を曲げていない点も評価できる。多くの場合、学者や文化人が政府委員になると発言が無難になりがちだが、落合は委員会の肩書きを持ちながらもメディアで大胆な提言を続けている (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 例えば「日本には欧米的な個人概念は本来なかった」といった刺激的主張も公にしており (〖本〗落合陽一「日本再興戦略」感想・レビュー・解説|長江貴士) 体制内に入ってもオルタナティブな視座を提示する姿勢は、学術的には公共知識人のあるべき姿として肯定できる。

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