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日本と万国博覧会:初参加から2025年大阪・関西万博まで


19世紀:万博への初参加と近代化への道

幕末から明治維新へ – 日本が万国博覧会に初めて参加したのは1867年のパリ万博でした。この時、徳川幕府と薩摩・佐賀藩がそれぞれ独自に出品を行い、日本の工芸品や茶屋(日本女性が煙管をふかす姿を見せる茶店)が来場者の関心を集めました (1867年第2回パリ万博 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場) (ウィーン万博とジャポニスム | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)。日本からの出展品は「珍しい東洋の逸品」として注目され、これが西欧でジャポニスム(日本ブーム)を巻き起こす契機となりました (1867年第2回パリ万博 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)。1867年博覧会への参加は、パリに派遣された渋沢栄一ら幕臣たちにとっても西洋の文明や産業を学ぶ転機となり、帰国後の近代産業や経済制度の構築に繋がりました (渋沢栄一 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場) (渋沢栄一 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)。明治維新政府も万博を「文明開化」の舞台として重視し、殖産興業と国際交流の戦略に組み込みました。

ウィーン万博と「美術」の誕生 – 明治政府は1873年のウィーン万博に国家として初めて公式参加し、新生日本の姿を世界にアピールしました (ウィーン万博とジャポニスム | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)。この博覧会では、日本館に神社建築と日本庭園を造営し、浮世絵、陶磁器、漆器、人形、刀剣、甲冑など 幅広い工芸品・美術品 を出品しました (ウィーン万博とジャポニスム | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)。正倉院宝物や神社所蔵の宝物など国宝級の品も含まれ、名古屋城の金鯱や鎌倉大仏の模型、五重塔の大型模型といった 目を引く大型展示 も配置されました (ウィーン万博とジャポニスム | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場) (ウィーン万博とジャポニスム | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)。これらの展示品選定にはお雇い外国人ワグネルの助言があり、「未熟な機械製品より日本独自の精巧な美術工芸品を出すべき」との方針で、日本の伝統工芸の粋が紹介されたのです (ウィーン万博とジャポニスム | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場)。このウィーン万博への出品準備に際し、英語の“Fine Art”を訳した新語「美術」が公式に用いられました ( 明治時代-現代編 | 日本画ラボラトリー)。「美術」 という言葉はそれまで日本になかった概念であり、万博をきっかけに近代的な美術の概念や制度が形成されていきました ( 明治時代-現代編 | 日本画ラボラトリー)。当初「美術」は絵画・彫刻・建築を指す語でしたが、明治初期の日本では油彩画屏風や生人形、擬洋風建築など西洋と伝統が混淆した造形物も含まれ、従来の工芸に西洋の芸術概念を接ぎ木するように受容されていきました ( 明治時代-現代編 | 日本画ラボラトリー)。こうして万博は日本における「Art(芸術)」観念の輸入と再定義の場となり、美術学校の創設や博物館の計画(実際、政府は博覧会のための収集品をもとに博物館設立を構想しました (佐野常民とウィーンの日本人 | 第1部 1900年までに開催された博覧会 | 博覧会―近代技術の展示場))など文化政策にも影響を与えました。

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