「論理で人は動かない」ならどういうゲームデザインが可能なんだろう
落合陽一です.ここ数年の自分の興味の一つ.
社会生活の中で,「論理的であること自体も多様な価値観の一つ」だと認め,「ロジックで通じない,エビデンスも関係ない,文脈や歴史も必要ないという価値観」があったとしてもそれを排除しないようにするのは職業研究者の頭で生きていると難しい.信仰を否定されるような拒否反応が生じることもある.研究者やロジックを使った仕事をしている多くの人が,論理的でない手法を,「なんとなくバカにすることで」論理の外で自分から遠ざけようとすることはよくわかるが,それでは分断の問題は解決しにくい.(ここでいうと狭義の)反知性主義の指摘する社会的問題は重要だが,(それだけではなく広義の)「非論理」「脱文脈」と対話する知性主義をどうやって構築していくことができるか,という問題には考えるだけではなくて実践や身体性も重要なのだろうと思って今日も作家的に手を動かしている.
文脈のゲームも原理のゲームもなく古典的な示威行動だけで繋がったグループのようなものとどうやって対話するかは興味深い.それも多様性の一つ,マルチバース・プリュリバースを構成する何かでもある.
一般的に社会インフラが成熟した共同体においては人口の減少が見られることがあります.しかしそれは環境負荷に対する動物元来の適応であり,その後緩やかな上下を繰り返して適切な人口規模に収斂します.すなわち,より高度なインフラのもと我々は人口収斂社会期に先進国でより早く移行したということです.これにより低環境負荷の実現やウェルビーイングの追求,サプライチェーンの短縮など,多くのメリットを享受し,ベーシックインカムなど先進的な制度を実験的に取り入れていくための障壁が小さくなるでしょう.
老いや死に対するイケてるデザインを作っていくのもウェルビーイングだと思う.ロジックがバーチャルな・サイバーな・コンピューテーショナルなものだとしたら,身体性や質量性が対話の一つの条件なのかもしれない.「グルーヴ」で解決するのも悪くない(というより空気の研究とは結局身体性(ある意味での非論理→フィジカリティ)の研究だったのかもしれない)
ゲームデザインは可能だと信じるとする.
ここで論理・信仰・法体系の社会基盤ではなく,(そのような論理のゲームの帰着では対応不能な状態),つまるところ「身体のゲームに回帰する」ことくらいしかデザイン不能なのではないだろうか.
つまり信仰(法・科学・社会システム・論理)に基づく社会基盤(ロジック)でなく,身体の議論に終始する動物的展開である.これは一つの可能性だ.(この辺の論理はまたどこかでレビューしながら考えよう.もしくはディストピアを構築しきって仕舞えば,ロジックだけでいけるのかもしれない)
一つの可能性として,みんな猫になって暮らせばいいのかもしれない.猫は逆たかり(Contrafreeloading)しないらしい.反出生でもないし,そこそこ良く増える.
きのこか,猫か.猫きのこか.猫きのこする遊牧民.これはナムジュンパイクの「定在する遊牧民」よりもちょっと普遍に近づいた気もする.
1980年、ナム・ジュン・パイクは、地球上のさまざまな場所で活動することでエネルギー消費を抑え、カーボンニュートラルな社会を目指す「Stationary Nomad」という概念を提唱しました。この概念を提唱した彼は、アーティストが電子キャンバスで表現する時代や、現在のNFT(ノンファングブル・トークン)の普及を予見していました。あれから40年、ポストコロナの世界では、ノマドという考え方が早くも浸透したモデルとなっています。
日本は森林生態系を持ち、お茶の文化が地域生態系の価値を高めてきた。1970年代につきまとった物質性と時間性の問題に取り組むために提案された規範としてのノマドの概念を、今日の計算された自然のエコシステムへの解決策としてどのように適用できるかを再考してみたい。
きのこと音楽といえばジョンケージ.
ジョンケージも60年くらいきのこしてたし.
きのこの音楽と猫になった人々に近づいている.今日も着実にきのこに近づいている.きのこと猫とグルーヴ,そして定在する遊牧民.この呪いを南方熊楠の罠と考えて,年末までにここから跳躍・離脱することを考えたい.
つまり早めに「きのこ」を通過しないときのこが人生の最終到達点になりがちなのである.きのこは繰り返し,やがてきのこになってしまう.人生は短い.きのこまでも到達しないことも多いが,きのこの重力を突破できる精神があるうちにきのこを超えていかないといけない.いや,きのこにならないといけない,いやきのこにはべき論は存在しない.ここにあるのはきのこ,ネットワーク化されたホモコンヴィヴィウムだ.響きあうきのこ.
自然や民藝性ともっと向かい合う.テーマはホモコンヴィヴィウムとステーショナリーノマド.ホモコンヴィヴィウムは造語でHomo Sapiens のようなもの.Homo+Convivium (ラテン語で饗宴) → 饗宴する人・共生する人.ステーショナリーノマド(定在する遊牧民については今年のsxsw).それらを通じて自然と持続可能性について考えていく.
つまりきのこ(ネットワーク化されたコンヴィヴィアルな知性)だ.まずはきのこになることだ.全身全霊で.
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落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
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