ビフォアコロナ・ウィズコロナ・アフターコロナ・ポストコロナ,名前はなんだかわからないけど,過渡期の文章を残すのは大切なんだと思う.
コロナ以降の社会と以前の社会での差を考えながら過ごしている.変化を書き留めておかないと,次の時代の常識になったときに,前の時代の日常を忘れてしまうから,そういう文章は大切だと思っている.時代の名前はまだわからない,ビフォアコロナなのか,ウィズコロナなのか,アフターコロナなのか,それらをひっくるめてポストコロナなのかもしれない.何をアーカイブしていくのが大切なのか考えている.
思考の整理は昨日のnoteの方が分かりやすくて,今日はエッセイ味が強い文章になると思う.
多分,何よりも過渡期の文章は状況が刻々と変わっていくから重要だろう.Twitterのような即時性の高いオープンなSNSを辞めてからそろそろ1年が経とうとしている.オープンさはなくなったけれど,サロンでは日々投稿をしているし,Noteもだいたい日に1回くらいは書いているから後で振り返る分には困らないだろう.ただ振り返るタイミングは得てして忘れてしまう.質量のあるものは壊れ,質量のないものは忘れられる.
ただtwitterをやめてからの自分を見ていて思うこととしては,即時性のないSNSを主体で文章を書いていくと表出する問題もあるということ.
「ニュース番組のコメンテーターのような他所行きの気分で世の中のニュースにコメントするあの感覚」がなくなってしまう.そして「他所行きの気分でされているコメントを見るたびにすげえダサい」と思うようにもなる.そのダサさに自覚的にやっていくプレイスタイルはそれでOKなんだけど,あまりに空疎で空虚で無自覚な瞬間がSNSから見て取れるたびにゲンナリする.しかし,それによって扇情的な要素が抜け落ちてしまうから,ニュースを見ても何も思わなくなる.それでいいのか? と言われればここは謎である.ただ,「天気の奴隷」でいる時間は少なくなる.しかし,どんよりした停滞に足を突っ込みながら,何もしないでいる時間は避けなければならない.くだらない会議をしたり,何か前進するような気分でいるための時間を過ごすことは,停滞の中にいる時間とほぼ同義だと思っている.他所行きを演ずる社会の中で本当に開疎な日常は獲得できるのかは甚だ不明であるが,ひだまりの中でパソコン片手に,環境音だけに身を任せて文章を打てることは幸福だと思う.
今日は,時間をとってデジタルネイチャーについて思索しながら,コロナによってシフトする社会と技術について,じっくり考えてみたい.ネグロポンテスイッチみたいなものが急に入ったような感覚がある.それに右往左往している仕組みやさんと,ただ自分に向かい合っているクリエータの差が目立つ.言葉・音・光,僕の好きな三要素と向かい合う時間が増えた.アーティストとしても研究者としても,それはそれで素晴らしいことだ.しかし,仕組やさんとしての自分の要素,社会接続された他の自分の要素は,読み切れない変化と描ききれない青写真の中で停滞している.多くの人々はなんだかんだ社会性の中で生きるから,社会接続された要素を考えるには深い洞察のための集中が必要なのだと思う.今日はそんな時間をとって考えてみたい.
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落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
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