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「映像」という言葉の歴史と思想的背景
仏教用語:影像,我々は常にぬるぬるしているのである.
「物化する計算機自然と対峙し,質量と映像の間にある憧憬や情念を反芻する」の翻訳をしている.
仏教における「映像(影像)」の概念と用法
日本語の「映像」は、もともと漢字では「影像」と書かれ、仏教用語として用いられてきました。「影像」(えいぞう/ようぞう)は仏教で鏡に映った影や姿を指し、万物に実体がないことを示す概念です (影像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。これは鏡に現れる像(=影)が実在ではなく、因縁によって現れ消えるものであることから、この世の現象も本質的に空(くう)で自性がないと説くための比喩でした (影像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。例えば平安時代の『今昔物語集』には、唐の僧・玄奘三蔵が洞窟で仏の影像を見たという説話が記され、鏡に映る仏影の奇瑞が語られています (影像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。このように「影像」は仏や高僧の姿が幻のように現れた像を意味し、無常観や無我を説く文脈で用いられました。
やがて「影像」は転じて絵画や彫刻に表された仏・神、人の姿も指すようになりました (影像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク) (影像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。例えば*「祖師の影像を飾る」*というように、高僧や祖師の肖像画・木像を「影像」と呼ぶ用例があります (影像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。この場合の「影像」は、「御影(みえい)」とも言われ、敬意を込めた人物肖像の意味で中世以降使われました。「影(かげ)」という言葉自体、古語では光や水・鏡に映った姿も意味しており (影(カゲ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)、人や物の姿形=像をそこに映し出す光の投影として捉えられていたことがわかります。仏教美術の分野でも、仏像を「佛影」「聖影」などと記す例が見られ、像そのものよりも「写し出された尊像」というニュアンスがありました。
日本語における「映像」への転換と現代的用法
近代以降、「影像」と書いていた言葉は**「映像」の表記が一般化していきます。明治期に西洋由来の“image”*の訳語として「映像」という表現が登場し、光学・写真術の文脈で使われました (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。たとえば1883年の訳書『眼科学』には「眼底の映像を認視する方法」*という記述があり、レンズを通して網膜上に結ばれる光学的な像を「映像」と呼んでいます (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。このように光の反射・屈折によってできる像という科学的意味で「映像」が使われ始め、大正時代には映画のスクリーンに映し出された像を指す語としても用例が見られるようになりました (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。
もっとも、第二次大戦前まで一般には「映像」という語はそれほど広くは浸透しておらず、主に用いられたのは従来からの**「影像」*でした (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。状況が大きく変化したのはテレビの普及期(1950年代以降)です。「映像」という言葉はテレビ放送の広がりとともに日常語として定着し、視覚メディア全般を指す広い意味で使われるようになります (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。それ以前には、「映像」は映画に関しても「画面上の像」*という限定的な意味合いで使われることが多く、映画作品全体を包括する概念ではありませんでした (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。しかしテレビ時代になると、写真・映画・テレビといった物理的・化学的手段で実現された新しいタイプの画像を指す語彙として「映像」が一般化します (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。これは従来「影像」に含まれていた二つの意味、すなわち(1)光学的に映し出された像と、(2)絵姿・肖像とが統合されて、テクノロジーによるリアルな映像という概念に発展したためと考えられます (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。現在では映画・テレビ・写真・動画・CGなど多様なビジュアルメディアを総称して「映像」と呼び、「映像文化」「映像世代」などの語も生まれています (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。
一方で、「映像」は心理的な文脈で**心に浮かぶイメージ(心象)**を指す場合もあります。現代の国語辞典にも、「心の中に描き出された姿・イメージ」の意味が「映像」の一つとして挙げられています (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。もっとも、この意味ではカタカナ語の「イメージ」が使われることの方が多く、「映像」という日本語が用いられることは稀だとされています (映像(エイゾウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。
「影」「映る」「像」の漢字史と思想との関わり
「映像」を構成する漢字、「映」「影」「像」は、それぞれ中国古代から重要な概念を担ってきました。まず**「影」(影/景、かげ)という字は、本来は太陽や月などの光そのものをも意味し (影(カゲ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)、転じて光によって生じる陰影や反射像を指しました (影(カゲ)とは? 意味や使い方 - コトバンク)。古典日本語でも「月影」は月光、「水影」は水面に映る姿を意味し、「面影」「御影」など人や物の姿=像**を表す語にも「影」が使われています。これは、姿形は光によって映し出されるとの感覚が言葉に反映されていると言えるでしょう。
中国思想において「影」はしばしば比喩として登場します。先秦の典籍『管子』には、「臣下が君主に仕えるさまは影が形に従うようなものだ」との記述があり (如影随形_成语「如影随形」什么意思_如影随形 解释及出处 - 国学大师)、「影」は常に本体である「形」に付き従うものの喩えに使われました。「如影随形」(影は形に随うが如し)という成語はここに由来し、切り離せない密接な関係を指す慣用表現となっています (如影随形_成语「如影随形」什么意思_如影随形 解释及出处 - 国学大师)。このように、「影」は実体に依存して現れる無二のものの象徴でもあったのです。また仏教においては、「影」は夢や幻と並ぶはかない現象の代表として頻用されます。大乗仏典『金剛経』の有名な一節に*「一切有為法、如夢幻泡影」*(この世のあらゆる現象は夢や幻、泡や影のごとく実体のないもの) (《金剛經》云:「一切有為法,如夢幻泡影;如露亦如電 - 法界佛教總會)とあり、**影=シャドウ(陰影)**は実態を持たない儚いものの典型とされています。
「映」という字は、光が照り映えることや光を反射して映し出すことを意味し、『説文解字』(2世紀)では*「映:明也。隠也」と定義されています (映 - Chinese Text Project)。明るく照らす一方で実体は「隠れる」、つまり姿は見えても掴めないというニュアンスが含まれており、光の反射現象の本質を捉えた解説といえます。実際、中国の山水描写では「山川自相映発」(王羲之『蘭亭序』)のように、山と川がお互いの姿を映し合って輝くといった表現が古くから見られます (映 - Chinese Text Project)。この*「映」(うつ-る/うつ-す)の感覚は日本語にも受け継がれ、鏡や水面に像が現れることを「映る」、映画をスクリーンに投射することを「映す」などと表現するようになりました。漢字文化圏では、「映」「影」という字を通じて光と像の関係**を捉えてきたと言えます。
「像」(ぞう)という字は、人偏に象(かたどる意)を組み合わせた形声文字で、形象(かたち)や肖似(似姿)*を意味します (像 - Chinese Text Project)。『易経』繋辞下には「象也者、像(かたど)る也」*との有名な一文があり、象(現象としてのシンボル)はこれ(真実)を像るものだと説かれています (像 - Chinese Text Project) (像 - Chinese Text Project)。ここでは「象(象徴)」と「像(イメージ)」が対比され、目に見える現象世界は根源的実在の写し(像)であるという思想が述べられています。漢籍では「儀像」「想像」などの語にも「像」が用いられ、かたちあるもの・心に描く形の双方を示すようになりました。また後漢以降に仏教が伝来すると、仏や菩薩の彫像を指す「仏像」のような用法も一般化しました。中国六朝時代には既に洛陽や長安で盛んに仏像造立が行われ、「金人像」(金で作られた仏像)といった記録が史書に見られます。以後、「像」は具体的な立体物から心的イメージまで含む広い意味**を持ち、漢語圏・日本語圏双方で重要な語となりました。
心に映るイメージと投影の哲学
以上のように、「映」「影」「像」は物理的な光と姿の関係を表すだけでなく、哲学や宗教において心と現実の関係を語るキーワードにもなっています。仏教思想では、私たちが認識している外界は心によって投影された映像のようなものだと説かれます。大乗仏教の唯識思想はその典型で、「三界唯心、万法唯識」(欲界・色界・無色界の三界はただ心の所現、森羅万象はすべて識(心のはたらき)が生み出した影像である)という命題を掲げました (三界唯心萬法唯識 - 【中台世界】 禪林衲子心)。これは、あらゆる現象は心の鏡に映った映像に過ぎず、もし心(識)の働きがなければ「世界」は成立しないという意味です (三界唯心萬法唯識 - 【中台世界】 禪林衲子心)。実際、唯識学派の経典や論書では、認識対象はすべて心が生み出す**「影像」(梵: pratibimba)であり、外界の事物そのものが心に直接来るのではなく心が写し取った像**を見ているのだ、と説明されています (大乘佛教思想研究·12佛典中“唯”的二类否定意义对中国佛学研究的提示 – 西园戒幢律寺) (大乘佛教思想研究·12佛典中“唯”的二类否定意义对中国佛学研究的提示 – 西园戒幢律寺)。
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落合陽一の見ている風景と考えていること
落合陽一が日々見る景色と気になったトピックを写真付きの散文調で書きます.落合陽一が見てる景色や考えてることがわかるエッセイ系写真集(平均で…
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