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不安の種から花は咲くか否か

その男は人の痛みを感じることがあまり得意でなかった。だから他者の痛みを想像した。そこでそれぞれに正義があることを知った。自分が思う、相手にとって最も効率的な言葉を発することで、満足し、無意識にも他人の痛みを養分としていた。
彼は言葉を信じていた。上手く使いこなそうとした結果、意味だけが通る実態のない空虚な言葉を使用するようになった。
そして直線的な力を嫌った。積み重ねてきたものが、誰かの意図やまた無意味な行動によって破壊されることを何よりも恐れていた。誰よりも力が強かったなら、また誰よりも力が強いと信じることが出来たのであれば、何も迷うことはなかったのかもしれないとよく考えた。

数年前、彼は日常というものを強く意識するようになった。例えば台所にあるパラパラと光る真っ白な蛍光灯だったり、シミだらけの団地のベランダに干してあるキャラクターもののTシャツを見た時、胸の辺りがゾワゾワし落ち着かない気持ちになった。

家族や友人恋人が自分に向ける屈託のない笑顔を見て、申し訳ない気持ちになった。だから自分は本来このような人間なんだ、と、自分を知ったらあなた達は私を嫌うだろうと、全てを見せようとした。それでも彼、彼女達は彼に向ける表情を変えることはなかった。ある時、彼、彼女達に自分もそのような表情をしているのかもしれないと思った。それは嬉しいことだった。
彼は好きな人に依存する傾向にある。これは弱さだ。

日常を意識するようになってから、彼は生活に対して潔癖症になった。少しの不安や恐怖、歪みを整えることに必死になった。その結果、ちょっとしたおうとつが大きな汚れに見え、幸福を感じれば感じる程何かに怯えるようになり、起きなければ起きると証明のしようがない、最悪な出来事を考えるようになった。

彼は幼い頃、父親を亡くしている。突然の自殺だった。これは彼にとって大きなトラウマになった。人々の気持ち、現状、環境、何もかもを無視してそれは突然起こる。
彼は死ぬことを受け入れていない訳でも待っている訳でもない。それが何であるのかをよく理解していない。食事をしていても、音楽を聞いていても、働いている時も、常に死というものがつきまとっていた。
日々を重ねれば重ねる程、大切なものが増えていく。それを横からつまんでしまえば、全てが崩れ落ちる。あまりにも無邪気だ。認めることが出来ない。

彼は不安の正体を突き止めようとしていた。不安に感じる理由、もしくは不安に感じる必要がないことへの理由など。
それは不安の種に水をやっているようなものだと最近気が付いた。
何を考え何を考えなくていいのかがよく分からない。
感情と理性が重なった部分から生まれる何かを期待していたが、それはとても危険なことで、彼は日常生活で感情を出発点とした理屈をこねるようになり、どす黒い何かに吞み込まれてしまっていた。

最近彼は低音障害型感音難聴という病気になった。
自律神経の乱れや、ストレスが原因で左耳が聞こえにくい時がある。
不安が不安でなくなるには、不幸にならなくてはならない。
死を待つのと同じようなことだ。限界が来ている。
まもなくそれはやってくる。
変わらなければいけない。もっと欲しいものがある。
急ぐ。もう秋です。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。