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「ビーアウトオブデンジャー」第四話

午後十八時に母はいつも帰ってきます。玄関が開く音がした時、毎回時計の針を見ているので間違いはないと思います。
 「バチッ。」
 家の真裏から人が死ぬ音が聞こえてきます。デッドラインが走り始めているということは、もう真夜中ということです。それなのにも関わらず、母は未だに帰って来ないのです。私は怖くなりました。先程の音は、母の命が潰れた音なのではないかと、そんな良からぬことを考え始めていました。しかし母は自ら自殺を試みるような人間ではありません。彼女は強くそれでいて少し鈍感な所があります。彼女は朝ごはんを毎日食べています。母は自ら死を選んだりはしません。
 私はそのままの格好で急いで外に出ました。「スーサイドライン」を使用するためには、深夜二時から三時二十分までの間に、無名の駅に集合しなくてはなりません。そこで自殺志願者達は一斉に、デッドラインにひかれていくのです。
この駅はスーサイドラインが開通されたと同時に出来た駅です。駅名はありません。生きている人からは「名無し駅」などと呼ばれています。私の家からは走って三十分程の所にあります。タクシーに乗るお金は持っていません。だから走りました。母が名無し駅にいないことは分っていたのですが、万が一、いた場合のことを考えると、向かわずにはいられませんでした。まだ間に合うのかもしれないと思っていました。それに、部屋であの音を聞きながら母の帰りを待っていることが私には出来なかったのです。途中から私は歩きました。普段運動をしていないため、すぐに息が切れてしまいます。もっと走れるのではないか、と何度も自分に問い掛けてはみたのですが、身体というのはもの凄く現実的なものでした。次に思ったのはタクシーには乗らなくてよいのかということです。可能性はかなり低いですが、母親が駅のホームででデッドラインが来るのを今まさに待っているとしたら、お金を惜しまずにタクシーに乗るべきだと私は思いました。お金も身体と同じです。精神のように自由な選択は出来ません。私は今、タクシーにも乗らず、歩いて母親がいるかもしれない場所へと向かっています。可能性なんてものは考えるだけ無駄です。事実として、私は母の生死より、疲れや金銭の有無を気にしてしまったのです。ポケットから携帯電話を取り出し、イヤホンを耳にして、気持ちが暗くなるような音楽をかけました。自分で音楽アプリを開き、自分で選曲をして、自らセンチメンタルな気持ちを演出したのです。
 名無し駅まであともう少しという所で、仮に母がいた場合、私はなんと声を掛けるのだろうとふと思いました。「死なないで」と私は本当に思っているのかどうかが気になりました。思っているから、こうして外に出ているのではないかと自分を納得させようとしました。でもそれは違います。私は、咄嗟に家を飛び出した訳ではありません。部屋から出る直前、ベッドの上にあった携帯電話を手に取り、その後イヤホンを数秒間探しました。向かっている途中のことを考えてしまったのです。私が着替えなかったのは、着替えたらおかしいなと思ったからです。そのおかしさは、他人から学んだ価値観です。母が死んでも悲しくなかったらどうしようと、私は不安になり、家を飛び出したのです。でも、母には生きていて欲しいなと、私は思えると信じています。
 名無し駅を自分の眼で見るのは初めてのことでした。インターネットで見た名無し駅は真っ白でした。実際に真っ白でした。あまりにも白過ぎて、不安になりました。台所、あのコンビニと同じ種類の白です。名無し駅は普通の駅です。仰々しく存在することを避けているように見えました。これから自殺をする人を受け入れる場所なのですから、もっと明るい色にすれば良いのになと思いました。こじんまりとした佇まいは、自殺に手を差し伸べているようにも見えました。だとしたら、やはりこの色で合っているのかもしれないとも思いました。
 改札の前に行くと、切符を買わないと中には入れないようでした。普通の駅でも同じことです。切符売り場に行くと、電子パネルに「20000円」とだけ書かれていました。二万か、と思いました。手持ちでは足りません。
 遠くから電車が走ってくる音がしました。デッドラインです。私が部屋で数えた時、このデッドラインは一時間に二本走ることが分かりました。デッドラインが近付いて来ます。ホームの前で突っ立っている母さんの姿が頭に浮かびました。「母さん」と叫ぼうか悩みました。叫べばよいのに、叫ぶかどうかを考えてしまったのです。
デッドラインの警笛が聞こえました。普通の電車と同じ音です。それにちょっと遅れて、雨を含んだ湿った土に上から大きな石を落とした時のような、そんな音が聞こえました。耳に纏わり付く、粘着質のある音でした。私はその場から走り去りました。私よりも早く身体が動き出したのです。口が勝手に開いても、錆びた鉄のにおいがしても、私は走り続けました。もうこれ以上は走れないと決めていたのは、私です。名無し駅に向かっている最中とは打って変わって、身体が私を動かしているようでした。
 家に帰ると、玄関に母の靴がありました。職場に行く際、母が必ず履いていく靴です。私が社会人一年目の時、初任給で買ってあげたものです。あの時母は、私のために喜んでくれました。
 部屋に戻ると、身体が重く感じました。ここまで身体を動かしたのは数年ぶりのことでした。汗だくのままベッドに横たわるのが嫌だと思いました。そう思えたことに安心しました。私は風呂場へと向かいシャワーを浴びました。濡れたままの髪で台所へと向かう最中、一匹の蠅が私の目の前を横切りました。私はその蠅を掌で勢いよく潰しました。「バチッ」という音がしました。台所へと向かい、入念に手を洗い、冷蔵庫を開け麦茶を飲みました。それから部屋に戻り、久しぶりにノートを開きました。たくさんの正の字が書かれていました。エナジードリンクの効果は遅れてやってくるのかもしれません。ノートを閉じ、ベッドに横になりました。電気を消し、目を閉じたのですが、瞼の裏に真っ白な名無し駅が張り付いていました。
 「バチッ」「バチッ」「バチッ」
 三回聞こえました。三人が死にました。私は電気を付け、重い体を引きずるようにしながら、机の元へと向かい、引出しを開けノートを手に取り、そこに三本の線を足しました。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。