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こんな糞みたいな日には

8月29日は2020年の中で最も糞みたいな日であったと思う。俺には日記がある。折角最低なことがあったのであれば、少しでも元を取ってやろうと思ってこうして文章を書いているのだが、糞から元を取ろうとしても原料が糞である限り結局は糞なのである。だからと言ってひねくれていても仕方がないので、こうして夜な夜な狭苦しいキッチンの真下、蛍光灯の光を頼りに気が狂いそうな程蒸し暑い中日記を書いている。どうして部屋の電気を付けないかと言えばそのような気分だからである。実際には部屋の電気も付けているし、キッチンも狭苦しくもないし冷房もガンガンかけている。

最近は少し苛立っている。何がこう私をイラつかせるのかというと、まずはこの気温である。毎朝叫びたくなる程に暑い。職場で暑い暑い騒いでいると、「出身はどこなの?」とか聞かれて、「茨城です。」と答えると、「茨城ってそんな寒いの?」だのなんだの県民性の話をされ気分が悪くなる。私は県民性の話が嫌いなのである。大学生の時遅刻した元友人が、「石川県民だから」など訳の分からないことをぬかしやがり、半端なやんきーで溢れかえっている血の気の多い茨城県民である私は、茨城県民であることを理由に彼を半殺しにしてしまいたくなったのである。実際は彼の方が腕が太かったのでそのようなことは出来なかった。

そして本当にイラついたのは、昨日文藝に落ちていたことが発覚したことである。文藝というのは文藝新人賞のことで、そこに三月頃小説を送っていたのだが、落選していたのだ。ざけんなよ糞がとか思いながら、書いた小説読んで欲しいなあ~なんて考えていて、自費出版しようかしらとか考えたのだが金が無いし、給付金の10万も複雑な家庭環境に吸い込まれたし、第一現状自分には需要というものがないので、金を出してくれる人間なんてのは余程の変態でない限りおらず、まずは見てもらうことが先決だという考えに至った。本格的にイライラし始めたのはそこからである。

どこに小説を載せようかと考えたところ、自分にはnoteが適しているという結論に至った。おかげさまでnoteを始めてから9万ビューくらいいっており、更新をしていないのにも関わらずチラホラ過去の記事を読んでくれいる人がいるみたいなのだ。ありがたい。が、毎回noteを更新すると、例えばアカウント名に@起業家だのなんだの、肩書に命を張っているような阿呆が私の記事をいいねしてくれる訳で誠に不快なのである。noteは私が忌み嫌うタイプの半端なクリエイター、SNSで今日も作業作業とかつぶやいたり、生半可な傷や不幸を見せつけ、自分の弱さを蜜に同じ痛みを抱えた蠅のような連中をたからせ、心中しましょう、同じ痛みを分かち合いましょう、傷を舐めあいましょうみたいな感じで、読者に麻酔を打っては金を取るという、下品な半端者が多いのである。かと言って、そうゆう共通言語を持たない奴らを無視した文章を書くというのも、何か排他的な気がして、うううんうううんと枕の角を齧りながら浅い眠りに入り、本日の朝、ああ、投稿しようという決断に至った。
とは言っても、私は私のことが好きな人のことが好きだし、先程述べたような人間は私の周囲に多くはいないはずなので、是非読んでいただきたいと思う。日曜日から少しずつ公開していきたいと思いますので、是非よろしくお願いします。

ほいでバイトに行かなきゃならないので、布団から出ると脳天を切り裂くような頭痛と、眩暈があり、それに加え意識が朦朧とするのである。
気圧のせいである。バイト先に着いてからは耳が全く聞こえなくなってしまった。
昔からいつも通っている学校が見たこともないような新鮮な場所に見えたり、バイト先が夢の中のようだったりすることがあり、そうゆう日は最低なことばかりが起きる訳で、長きに渡ってこれはどうしてかと考えていたのだが、最近になって気圧のせいであったと分かった。

殺人的な気圧は、判断力を鈍らし、思考を停止させる。若干心地が良い程に意識がふわふわしていて、視点が定まらない。酔っ払ったような感覚と近い。もしかしたら頭痛薬が効きすぎているのかもしれない。29日だけでも8錠飲んだ。片頭痛が収まらないのである。
昼前一人のおばさんのレジを打った際、意識が朦朧としている私はレジを打ち間違えてしまった。すぐに訂正に入ると、おばさんは指先でトントントントントントントントントントンと机を叩いている。レジを打つ手を止め、これは何を表しているのだろうと考える。急かされているのだと気が付く。私を急かすための手段はこの他にも多くあるはずだが、彼女は人差し指で机をトントントントントンするという手段を選んだ。とりあえず無視をしてレジの修正を済ませ、正しいレシートを渡すと、彼女は不服そうな顔でレシートを受け取り私に向かって大きな声を出した。大きな声の内容は私のミスを指摘するようなことで、それは実際には見当違いも甚だしいことだったので、私は穏やかに「あなたが間違っているのですよ。」ということを伝えたのだが、それがいけなかったのか、引くに引けなくなった彼女は、更に罵声を私に浴びせたのである。私は気が付くと彼女より何倍も大きな声で、彼女を罵っていた。これには隣でレジを打っていたお姉さんも、私も、そのおばさんの後ろに並んでいた人も驚いていた。私はその場でエプロンを取って後方にぶん投げ、「ムカつく、絶対殺す。」みたいなことを言って、5秒深呼吸をした後、「次の方どうぞ~」とニッコリしたのであるが、その切り替えの早さが裏目に出てしまい、その後の客が若干引いているように見えた。

私はよく「怒らない」と言われるが、実際のところ短気である。がしかし感情的にならないことを念頭に置いて生活しているので、圧倒的な理性や理論で怒りの理由を分析、解析し自分を納得させ、怒りを鎮めているのである。
怒りは反射のようなもので不可抗力的に発生してしまうので、もうそれに関しては諦めており、発生してからの処理に全力を注いでいるのである。
がしかし、今日に限っては気圧による判断力の欠如、客のトーン、言い方、間の取り方などが全てハマってしまい、ブチ切れてしまったのだ。
キレたらキレたで不快なので、不快である。

それから大勢の人に「サービス業とはなんたら」みたいなことを言われまくったが、そもそも「サービス業」とはなんなのであろうか。気持ちの悪い言葉だと思う。帰宅してからも、自宅が自宅でないように見えたので、これはまずいと思い、おかんに電話をかけた。私はおかんに銀行員だと嘘を付いているので、レジ業務を想像の銀行業務と置き換え、今日あったことをおかんに話すと「サービス業がなんたらと」彼女も言う訳である。しかも誇ったような口調で。彼女はサービス業が長いことから、「サービス業のいろは」を私に語っていたが、まとめると「自分が間違っていなくても謝れ。」ということであった。それを職業としてのやりがいに置き換え、平気で頭のおかしい客に頭を下げることで、私をここまで育ててきたのだから、頭のおかしい客をなおさらぶっ飛ばしてやりたくなった。おかんはプロ特有のその道の人にしか分からない辛さみたいな言い方で、視線を斜め下に向けたような感じで「でもサービス業が一番病むのよね。」みたいなことを言っていて、立派ではあるがみっともねえなとも思った。
「サービス業とは」と平気で語る連中のほとんどは、思考が停止している。面倒を起こさない、ということを理念としてしまえば一丁前に見えるが、実際には単なる放棄に他ならない。年上の間抜け達がそうやって猿のような客を野放しにしてきたから、猿のような客は「店員には何を言ってもいい」と勘違いし、遂には猿になってしまったのである。

あのおばさんは本当に危険なことをしたなと思う。
私が今日自殺する気でいたら、私は彼女に何をしていたか分からない。
勿論自殺する気も、彼女に危害を加える気もないが、そんなことを彼女はどうして分かったのであろうか。私が最も嫌なこと、こだわっていること、気分、現状、環境、理念、美学、それらの何一つを知らないでいて、何か文句、注意をするにはそれなりの覚悟が必要だったと私は思う。

私は最近感情的にならない訓練をしている内に、一般的な正しさを元に理不尽から最も遠のいた決断を下す度に、合理性を追求する程に、人間から遠のいているような気がしてならない。
私は今日我慢の限界が来てしまった。後悔はしていない。
このまま止まらない。止まるきもない。早くバイトを辞めなければならない。売れたい。



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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。