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「ビーアウトオブデンジャー」第七話

目が覚めると朝の八時でした。早起きをすると得をした気分になります。意気揚々とリビングへと向かうと、微かに食事の匂いが残っているのを感じました。冷蔵庫を開け、麦茶を取り出し、コップに満杯注いで、一気に飲む。ぷはぁ~と声に出して言ってみました。自分の声が良く聞こえます。私はこんな声をしていたのだなと、改めて思いました。新聞を見ると、昨晩のデッドラインの自殺者数は「0」とだけ表記してありました。自殺者がいないのは久しぶりのことでした。嬉しくも悲しくもありません。これは正常なことです。死人が出なかったことを祝福する人間は誰一人としていません。テレビは勿論、インターネットですら話題にもなりません。他人が死ぬことに関して、人々は何も思わないような態度を取るのです。自分の手が届く距離の範囲内の人が死ななければ、何だってよいのです。面識のない人間が生きていようが、死んでいようが、どちらだってよいと、人々はそう思っているのです。
 最寄り駅へと向かって歩を進めました。最近は意識的に外へ出るようにしています。気持ちが晴れ晴れとします。曇っています。灰色の空です。安堵感があります。今日は久しぶりに電車に乗ってみようと思いました。普通の電車です。
 切符売り場の電子パネルには様々な行き先が表示されていました。行き先は決まっていないので、ひとまず隣駅までの切符を買って改札を抜けて、後は気分の赴くままということにしました。
 先程まで通勤ラッシュの時間帯であったことは、車両内の臭いを嗅げば分かりました。帯びた熱を冷ますように、電車は徐々にスピードを上げて行きます。車両内は比較的すいているように見えました。普通の電車は名無し駅を通過すらしません。ですが、遠目から見えることはあります。二十秒程見えます。デッドラインが開通した頃、誰もがあのロールケーキのような形をした駅を見ると「あれじゃない?」とか「怖くない?」と言ったり、写真を撮ったりしていました。私は決してそうゆうことはしませんでした。名無し駅が私には見えています。今もなお、二十秒間、私の目には名無し駅が写っています。車両の中は静かです。話しているのは、向かいの席に座っている六十代くらいの夫婦くらいでした。二人は仲睦まじくさも素敵なように見えました。二人の頭と頭の間から名無し駅が見えています。二人のことが羨ましいと思いました。私が繊細なのか、二人が鈍感なのか、私の頭が悪く、二人が賢いのか、よく分からなくなりました。とにかく二人の世界には、デッドラインが存在していないことは確かでした。私は何を考えているのでしょうか。少し精神的になり過ぎたのかもしれません。
 二人の奥のにある景色を見ているつもりなのですが、誤解されてしまったようで、二人は席を立ち隣の車両へと移って行きました。嫌な気持ちにもなりましたが、見晴らしがよくなったことに気を取られ、不快な気持ちは徐々にしぼんでいきました。
ぼんやり外を眺めていると、あのコンビニが一瞬見えました。煙が立っていて、赤く燃えていたように私には見えました。
私は大きな声を出しました。咄嗟のことではありません。実は家を出る直前くらいから、決めていました。ですが、周囲の人からしたら突然のことに見えたかと思います。視線が私の元へと集まりました。集まったと言っても、車両の中には私を除いた四人です。サラリーマンと、若い女性、男子学生が二人、それぞれがそれぞれのタイミングで私をちらと見たのです。私はもう一度、大きな声を出しました。二回目は言葉を発しました。
「冗談じゃない!」
と言ったのです。本当です。それこそ冗談ではありません。私は確かに「冗談じゃない」と大声を上げたのです。二回目は誰も私の方を見ませんでした。私は存在していないことになりました。次の駅で降りようと決めました。私は興奮していました。恥じらいと成長を感じました。私の輪郭は他人の目によって決まるのです。
電車が止まってドアが開いたら、私は一呼吸置き、落ち着き払った様子を周囲に見せ、堂々と車両から降りました。電車が私の前から走り去っていく途中、あの夫婦と目が合いましたので、私は微笑みかけるようにしました。これは演技です。空は晴れていました。新鮮な空気が私の身体を駆け巡っていくのが分かりました。階段を下りて、反対側のホームへと向かいました。下りの電車は、先程よりもすいていました。私が乗る車両はいつもすいているような気がします。気のせいだということは分っていますが、今日はそんなことを本気で思える程に清々しい気分なのです。
 乗客は私を除いて五人。それぞれが離れた所に座っていました。ここにいる人達にも私と同じような時間が流れているのでしょうか。
 私は座席の上で横になってみました。こんなことをしたのは生まれて初めてのことでした。今回は誰も私に気が付いていないようでした。皆が皆、自分に没頭しているのです。私は天井を見つめながら、何も考えていないようなフリをしました。電車が速度を落とし始めたのを感じ、私はゆっくりと姿勢を正しました。
 電車から降りようと席を立った際、
 「冗談じゃない!」
 ともう一度叫んで見ました。車両にいる数人が、私を一斉に見ました。二回目はあまり恥ずかしいと感じませんでした。むしろ達成感のようなものが私を包んでいました。改札を抜けると、街が薄暗くなっていることに気が付きました。間もなく、雨が降ります。私は商店街に向かい、道の真ん中をゆっくり歩きました。電車中で突然大きな声を出すような私が、平然とした顔をし真昼間の商店街に紛れているのです。普段は人通りの多い商店街ですが、雨が降ろうとしているからか辺りは閑散としていました。まだ雨は降っていません。私以外の人々は天気予報を見ているのだろうか。明日は晴れる、明日は雨が降る、そんなことが事前に分かったとしても私にはどうすることも出来ません。手に負えないことを知っても仕方がないのです。ただ受け入れることしか出来ないのです。私は雨があまり好きではありません。雨が地面に当たる音を聞くと思考がぼやけるような感覚に陥り、憂鬱な気持ちになるのです。幼い頃はよく、母と一緒にテルテル坊主を作りベランダに吊るしました。雨が降らなければよいと、雨が降るであろうということを知ったうえで、抵抗をしていたのです。あの頃と雨に対する気持ちは変わらないというのに、今ではテルテル坊主は作りません。それは、そんなことをしてもどうにもならないと諦めてしまったからに他なりません。私は雨が嫌いなので、雨が降っている最中に早く止めと強く憤ります。天気予報は見ませんし、準備もしません。私は決して雨を受け入れません。だからこうして傘も差さず、ずぶ濡れになりながら商店街を抜けていくのです。
 公園の中にある公衆トイレの脇の自販機が雨に打たれているのが見えました。雨の粒を受けた自販機は、「ゴツゴツゴツ」と音を立てています。壊れてしまわないか、気になりまりました。普段は息を潜めながらもどっしりと構えているように見えるあの自販機は、公園で戯れる少年少女に比べ活気がなく、ヒビの入った遊具よりも見ていて息苦しく思います。常に景観を壊し続けていた自販機が、雨に打たれることで初めて公園の一部に見えました。壊れてしまえばいいのにと思いました。
 帰り道、あのコンビニの前を通りました。白く光っているはずのコンビニは、オレンジ色に染まり、熱を帯び、雨を蒸発させるかのように燃え盛っていました。これは私がやったことなのでしょうか。私は灰皿の前で煙草を吸いました。背中で光を感じ、私の目の前には雨の粒が滴っています。私は何かを超えようとしているのではないかと、自分に可能性のようなものを感じました。自分が、物凄く微妙な所にいるのが分かりました。火の付いたままの煙草とライターを灰皿に入れました。私は後ろを振り返らず、雨を全身で受けながら自宅へと歩を進めたのです。初めて、雨も悪くないな、とそんなことを思いました。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。