EAZY(バイトな日々 番外編)
僕は普段noteでバイトな日々というマガジンを書いている。
働き始めてからつけ始めた日記を、読めるレベルに修正して日々更新しているのだ。現在は2017年頭の頃の日記を公開していると思う。
相も変わらず僕は、その日記に出てくるコンビニでバイトしている訳だが、今日出てくる話は今年の話。番外編とでも言った所だろうか。
毎朝牛乳を運んできてくれている、業者のおっちゃんがいる。納品が終わると、毎回コンビニのお茶を買ってくれて
「はい100万円」とか言ってくる。鬱陶しいと思いながら、愛嬌溢れるおっちゃんが好きで、僕は仲良くなった。
息子の話や、パチンコの話、色んな話をした。
運送の仕事はかなり辛いらしく、後1年で定年で辞めれると喜んでいた。
だが彼は数ヶ月前に突然死んでしまった。
理由は分からないが、恐らく過労だったと思う。
業務的なやりとりしかしていない社員達は、「残念だったね。」と言って、一時間くらい落ち込んでいる風の雰囲気を出していた。
それが僕にはとても気持ちが悪かった。
でもその知らせを聞いた直後にアハハオホホとされてもイラッとするので、その社員達の判断は正しかったと思う。
でもやっぱり、周囲から浮かないように空気を読んで喪に服せるような、その理性的な判断に何だかイラッとした。
だが僕はおっちゃんが死んだ事をここ数ヶ月忘れてしまっていた。ふとした時に思い出す事は何度かあったが、忘れていた。
小学生の時に、父親が死んだ。一週間振りに学校に行った時、もの凄く楽しかったのを覚えている。
多分すがりたかったのだと思う。日常に溶け込みたかったし、暗いおうちに帰りたくなかった。
友達とドッジボールをしている時にふと、楽しくていいのかな?と僕は思った。つまり喪に服さなくていいのかな?という事だ。
帰宅し、母親に
「学校で笑ってもいいの?」と聞くと、母親は
「楽しい時は笑いなさい。」
と言ってくれ、とても救われたのを今でも覚えている。
喪に服す時間というのは「相場」みたいなものがあるが、これをまともにやっているとかなり心身がやられる。切り替えられるなら早く切り替えた方がいいと思う。悲しんでない訳ではない。
そうと分かっていても、おっちゃんが死んだ事をもう忘れていた自分に僕はびっくりした。
自分も嘘くさい奴だなと思った。
だけどいつまでも覚えてはいられないし、ずっと暗い気持ちでいる訳にはいかない。前に進まなくてはならないとも思ったが、例えば親父が死んだ事を乗り越えた事で、前に進めたかと思うと甚だ疑問だ。
僕は「人が死ぬ」という出来事を受け入れるキャパが、人間の脳にはないのではないかと思った。だから消去していくしかないのではないかと。
数年前僕は一度、親父は何故死んだのかという事を急に考え始めた事がある。普通に死んだわけじゃなかったので、理由を探せる余地はいくらでもあった。僕は母親に電話をかけたり、色々な方法で親父が死んだ理由を探した。
日に日に頭がパンクしそうになって、終いには頭が少し薄くなった。
パンクしそうになると薄くなるのだ。
考えに考えた結果、親父が死んだ理由は「当人にしか分からない。」だった。
そんな事があっていいものかと思ったが、実際そうだった。
そして僕はこれからも生きていかなくはならないので、親父が死んだ理由を考える事を辞めた。
きっと皆もそうしているのかもしれない。考えなくてはならない事かも知れないけど、考えなくてもいい事って割とあるんじゃないかなって、最近思えるようになってきた。
僕に時間が増えた。
親父が死んだ理由に悩みに悩みおかしくなりそうだった時、
母親は
「生きてる人優先だよ。」って言ってくれた。
多分これはかなり深い。
落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。