「ビーアウトオブデンジャー」第八話
家に帰ると十四時。玄関に母の靴がありました。この靴は私が社会人一年目の時、初任給で買ってあげたものです。「トントントン」、音が聞こえます。母が台所で料理をしています。この時間帯、彼女は仕事に行っているはずなので、私は不思議に思いました。
「あら、お帰りなさい。」
「ただいま。」
「どこに行ってたの?」
「ちょっとね。散歩かな。」
「散歩かなって、傘はどうしたの?」
「差さなかった。」
「あらそう。昨日ね、テルテル坊主を作ったの。」
母は私の方を振り向かず、何かを切り続けていました。「トントントン」という音がリビングに響き渡っていました。ベランダの方を見ると、テルテル坊主が吊るしてありました。私と母の下着は今日も隣同士。
「本当だ。」
「昔よく一緒に作ったわね。」
「うん。」
「雨、嫌いでしょ?」
「嫌い。でも今日は、そうでもなかった。」
音が止まりました。でもまたすぐに再開しました。
「そう。」
消防車のサイレンが鳴り響いているのが聞こえます。
「あら、火事かしら。」
と母は言いました。
私は堪らなくなって、自室へと走りました。部屋の扉を閉め、濡れたままベッドに飛び込みました。咄嗟のことではありません。ベッドに飛び込む前に、身体が濡れていることもよく分かっていました。二階の自室へと向かっている最中、階段を上っている途中に、濡れたままベッドに飛び込もうと決めていたように思います。堪らなくなったのも、突然のことではないのです。全て、はっきりとした意識の中自分で選択したことなのです。ベッドに雨が染み込んでいきます。枕が濡れると気分が悪くなります。私の今の心情にとてもフィットしていました。それもそのはずです。私の心情をより劇的なものにさせるために、私はこうして普通ではしないことを敢えてしているのですから。
堪らなくなったのは本当です。事実です。あの火事はもしかしたら、私が起こしたものかもしれないと思うと、居ても立っても居られなくなったのです。
「あら、火事かしら。」
という彼女のセリフが何度も耳元から聞こえます。あれは、他人事です。もし、私が関与していることを知ったら彼女はなんというでしょう。それに私は今日、電車の中で突然大きな声を出しました。そんなことを母が知る由もありません。私はこれまで彼女に、火事を起こしたり、電車で発狂したりするような、素振り、要素を見せたことはありません。それもそのはずです。私自身最近まで感じていなかったことなのですから。私は、母に、常に私のことを知っていて欲しいと思っています。最新の自分を母に伝えない限り、私は母に嘘を付いていることになってしまいます。嘘を付いたまま、母と食事をすることが私には出来ません。耐えられないのです。雨が降っても傘を差さない私を母は嫌ったでしょうか。それくらいは許されるだろうと思い、私は傘を敢えて差しませんでした。コンビニを燃やしたと知ったら、母は私を軽蔑するでしょう。電車で行儀の悪いようなことをしたと知ったら、母は私を遠ざけるでしょう。だから、私にとってあれらは挑戦だった訳なのです。母は私のことを自分のことのように思っています。それが愛だと考えています。私は、母が嫌うことをしません。だから、母が隣にいない時でも、母が提示するであろう選択肢の中から答えを選びこれまで生活を送って来たのです。希望はまだあります。母が私を自分だと捉えているのであれば、きっと私がしたこと、してしまったことを喜んでくれる可能性があるということです。だって、私はオレンジ色に染まるコンビニを見た時、今までに感じたことのなかった確かな「私」を感じ、嬉しくて堪らなかったのですから。
「バチッ」「バチッ」
朝の三時です。デッドラインが今夜も走っています。布団は生ぬるく、身体が冷えているのが分かり、私は慌ててリビングへと向かいました。母が食事を作ってくれている途中に、自室へ駆け込んでしまったことを思い出したためです。リビングは真っ暗でした。私は台所の蛍光灯から伸びている紐を引っ張りました。一瞬白く光り、また消えて、また白く光る、これを高速で連続的にパラパラと繰り返した後、真っ白な光が付きました。鬱陶しいなと毎回思います。
私の料理はどこにも用意されていませんでした。母はあの後、一人で食事をしたのでしょうか。背中を丸め何かを食べている母の姿が浮かびました。何を食べているかは、靄がかかっていてよく分かりませんでした。申し訳ないことをしたなと思いました。それと同時に、気持ちが楽になったような実感がありました。自分の中から湧き出る確かな解放感に気が付かない振りをして、冷蔵庫を開け中から麦茶を取り出しました。冷蔵庫の中は煌々と光っていて、私は核心を突かれているような気持ちになり急いで扉を閉めました。「ダンッ」大きな音が鳴りました。強く締めすぎてしまったのかもしれません。母が起きてしまうのではないかと、思うようにしました。本当はもうどうだってよいことなのかもしれません。コップに注いだ麦茶を口に含み喉を通過した頃、蛍光灯の周りに何匹かの蠅がたかっているのが見え、胸の辺りがソワソワしました。冷蔵庫のヴォーンという音、時計の針が一秒毎に鳴らす音、「バチッ」「バチッ」、蠅の羽が擦れる音、換気扇が回る音、私の呼吸音、私は世界で一番孤独なのかもしれないと、そんな阿呆なことを思ったのです。
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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。