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俺の腰を後ろからツンツンとしてくる上司がすでに死人である理由について。

「わっ」と思わず声を出した。バイト中、飲み物を品出ししている時のことだ。
後ろを振り返ると、おっさん、月に三回くらい店にやってくる偉い人。人差し指で腰をつつかれた。自分が汚れたような感覚に陥る。
「ちょっとなんですか~!」と言うと「お疲れ~」と満足げな顔を浮かべ事務所に入っていく。
悔しいと思う。「わ!」と声を出してしまったことが悔しくてたまらない。裏を取られてしまい動物として正しい反応をしただけのことなのに、それを予期された上で俺の「反射」をコミュニケーションの糸口とされてしまったことに惨めさを感じる。
「ちょっとなんですか!」と言っている時の階段を降りているような感覚が忘れられない。上司があらかじめ突き立てておいた刃に自ら飛び込むような行為。帰り道に酷く落ち込む。自分とは一切関係のない業務を遂行した分お金をもらうという当然の因果関係の中で奮闘することにあきれ果てて会社を辞めフリーターになったのに(それが全てでは全然ないけど)、またこうゆう阿呆のせいで予定調和で蔓延った空間へと収束されていくことに苛立つ。そういう空間から出れないだろうという計算の元上司も俺の腰をつついている訳で、実際に俺は彼をぶん殴れなかった。彼自身を殴る価値はないが、自分の人生史としては殴ってもよかったなと思う。

彼は「今日は誰もコーヒー淹れてくれないんですねえ」と言った。これも彼なりのコミュニケーションの取り方の一つで、一種のじゃれ、冗談なのであるが、このセリフを聞いた誰かは本当にコーヒーを淹れなければならず、冗談に終始できていないことが問題であって、それに気付けていない彼がノウノウとコーヒーを飲んでいる姿を見ると、こんなにも悪い人間がなんの罰も受けずに生きているのだから、法律というのはアテにならないものだなと思う。俺の感覚だと死刑に値する。
今日の帰り道に公園で繰り返しフルスイングで素振りをする中学生がいて、あの運動を保たせたまま彼をコピーして、そのままコーヒーを飲む上司の背後にペーストしたらどうなるんだろうと思った。そんなことを部下に思われている彼は存在としてとても悲しいに決まっていて、俺はそれだけでも充分な気がした。

難しいのは、彼の行為は俺を不快な気分にさせることが目的ではないという点にある。上司とのことに限らず、ここら辺のことに何年も悩んでいる。相手に悪意がない場合は怒ってよいのか否かということをよく考えている。俺の腰を突いた上司は、純粋にコミュニケーションを取りたいのだろうけども、若い人との接し方が分からず考えすぎた挙句、その思考の経過が歪んだ行為となって表に出てしまったのだと思う。だから俺が彼にぶち切れたとしても彼はなんのこっちゃ分からないはずで、せめて考えるきっかけくらいを与えることはできるのだろうが、別に俺は彼の成長を求めていないし、俺がキレた瞬間に、キレられた理由を噛み締めながら「もう自分はどうしようもない人間なのだな」と絶望して欲しい訳なのだが、分からないのだからそうもいかない。
道路の端にある小石につまずいたとして、「おい邪魔だこらぁ!!!」と怒鳴り散らしても、阿呆なのは俺だということだ。
小石でも社会に入ればある程度の金を稼いで生きていけるということは、多くの人間にとって希望になるのではないだろうか。だから大事なのは金を稼いで生きるということではないということにもなる。人につまずかれる小石でも生きていければいいやと思うのは、今、死んでいる証拠である。やり直しはきく。俺は彼を許せる。その日の体調によっては。


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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。