「ビーアウトオブデンジャー」第六話
家に着いたのは朝方の五時です。玄関を開けた途端、家の奥からオレンジ色の匂いが漂ってきました。「トントントン」と規則的な音が遠くから聞こえてきます。私は急いで靴を脱ぎ、揃え、リビングへと向かいました。
「蛍光灯の色、変えたんだね。」
「そう。だって、この色ずっと嫌だって言ってたでしょ?」
「うん。こんな時間から料理?」
「作ろうと思って。」
台所に立つ母の背中が小さく丸く見えました。「トントントン」と子気味良い音がリビングに響き渡ります。
「こんな時間まで何をしてたの?」
「ちょっとね。」
「嬉しいわ。」
「何が?」
「そんな顔久しぶりに見たから。お母さんは嬉しいの。」
「ごめんね。」
私はそう言って、自室へと向かいました。「トントントン」「バチッ」交互に音は続きました。
目が覚めると、昼間でした。リビングに向かうと、誰もいませんでした。母はもう仕事に出掛けたのでしょう。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップが満杯になる程に麦茶を注いで、一気に飲みました。美味かったです。幸せだと思いました。ベランダには母の下着と私の下着が隣同士。蠅が三匹私の視界に入りました。いいのです。
リビングで食パンを食べました。食器も自分で洗いました。それから外に出て、コンビニへと向かいました。それは深夜、名無し駅にいたあのコンビニ店員さんのことが気になったからです。働いていて欲しいと、純粋に思いました。
公園に向かっている途中、子供とあの女性がいました。いいのです。
コンビニに入り、レジに目を向けると彼女が立っていました。目が合わないようにすぐに視線を逸らし、私はエナジードリンクとライターを手にしました。
彼女の前に行き、思いついた番号を言って煙草を取ってもらいました。彼女は機械的な表情をして、「袋に入れますか?」と私に尋ねました。「はい。」と答えると、不貞腐れたような態度で袋を取り出し、乱雑に私がお金を払って買った商品を詰めていきました。彼女は怒っていました。名無し駅でのことを根に持っているのかもしれません。「あの、」と言うと、彼女はまた瞳をギョッとさせ、お釣りを釣銭皿に置きました。私は釣銭皿を見つめながら、釣銭皿を手に取り、斜めに傾けて釣銭を一気に掌へと乗せました。釣銭皿を彼女の前に投げるように置き、私は彼女の眼を見ないようにして、店を出ました。店を出る時「ありがとうございました~。」という血の通っていない男性の声がレジの方から聞こえて来ました。私はコンビニの前にある灰皿の脇に立って煙草を吸いました。私は考えました。私に対する、彼女のあの態度は一体何を意味しているのだろうかと考えました。私は彼女の人生を阻んでしまったのでしょうか。もしかしたら余計なことをしてしまったのかもしれません。テレビに映るあの人達が、他人の生き方についての善し悪しを語っているのと、昨日私が彼女にしたこと。その違いについて何遍も何遍も私は考えました。死にたいと思っている人間にとって、生きるということは、決して正義とは限らないとその時に分かりました。そんなことは分かっているつもりでしたが、実際には分かっていなかったようなのです。自ら命を絶とうとしている人間が目の前にいたら、私と私の身体は、それを阻むことを選択しました。皆も私と同じでしょうか。だからこそ、デッドラインが存在するのでしょうか。だから、名無し駅は真っ白なのでしょうか。ホームに色が付いていたのは何故なのでしょう。どうして我々は常に前を向き、常に前進しなくてはならないのでしょう。死にたい人間が自ら望んで選んだ死に対し、拍手喝采といかない訳を私は考えました。分かりませんでした。もしかしたら私は彼女を地獄に引きずりこんだのかもしれません。私にとってのデッドラインは、彼女にとってのホーム側だったのかもしれないのです。彼女を通して一つだけ分かったことがあります。それは私はまだ生きていたいのかもしれないということです。
火を付けたまま、灰皿に煙草を入れました。ライターも灰皿の中に入れました。私は彼女に関与することを諦めました。後は、何かが彼女を決めるでしょう。私は空を見上げエナジードリンクを飲みました。
「トントントン」「バチッ」
深夜だというのにも関わらず、母はまた料理をしています。そして相変わらずデッドラインは走り続けています。目を閉じると、燃え盛っているコンビニが瞼の裏に浮かんで見えました。彼女はどうなってしまったのでしょうか。不安な気持ちになってきました。何故、あのようなことをしてしまったのか、今になって自責の念に駆られているのです。私は馬鹿なのです。携帯電話で、「ライター 火事」や「煙草 灰皿 火事」等を検索しました。結果的に火事になってしまうこともある、ということが分かりました。「火事」というワードが入っているので、どこのホームページを見ても火事に纏わる文章が書いてあるのです。当たり前の話です。胸の奥がヒンヤリとして、全身から汗が噴き出してきました。囂囂と燃えるコンビニの中で、彼女は私の方を見つめ何かを言っています。初めて見る表情です。悲しげで虚ろな目をしているように見えました。それで馬鹿らしくなりました。彼女は私が頭の中で思い浮かべた想像の彼女なのです。何故私は、ここに来て死を拒む彼女を想像したのでしょうか。知らんわ。
「煙草 火事 起きない」 「ライター 安全」と調べると、彼女は生きているような気がしてきました。よかったと思いました。
この記事が参加している募集
落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。