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「ビーアウトオブデンジャー」第十二話

「バチッ」「バチッバチッバチッ」
 音が鳴り止みません。正の字がどんどん増えていきます。
 
駅に行きました。昨日の駅です。隣駅までの切符を買って改札を抜け電車に乗りました。車両の中には暴力的な日常が敷き詰められていました。私はその場で嘔吐しました。足が震えています。私の輪郭は私自身の手によって作られます。嘔吐をして、口の中が酸っぱい。それだけのことです。私の家が見えてきました。昨日人が死んだ場所の上をこの電車は走ります。
 電車を降りて、花屋へと私は向かいました。店員さんがジロジロと私を見ていました。怖がっているようでした。
 「これで買える花束を下さい。出来るだけ、カラフルな感じでお願いします。」
 と私は言って、ポケットから千円札を差し出しました。
 赤、黄、紫、の花束を買いました。花の種類は分かりません。意味なんてものは、どうだってよいのです。私は両手で花束を抱えるようにして、自宅の方向へと進んでいきました。そして昨日自殺が起きた場所へと辿り着いたのです。私は線路に足を踏み入れ、人がひかれたと思われる場所にそっと花束を置きました。
線路から出て、しばらくそれを眺めていました。間もなく電車がやって来ます。普通の電車です。私はそれから一度も後ろを振り返らずに名無し駅へと向かいました。
 昼間の名無し駅を見たのは初めてのことでした。辺りが明るいせいか存在感がなく、ひっそりと佇んでいるように見えました。よく見てみると、駅の外壁がところどころ汚れているのが分かりました。小まめに手入れをしていないのでしょう。私は周囲をぐるりと見てから、改札機を飛び越えホームへと向かいました。
 一人の女性が立っていました。目を疑いましたが、ホームの端に四十代程の女性が立っていたのです。彼女は私に気が付いていないようでした。いや、気が付いていたのかもしれません。どっちだってよかったのだと思います。彼女は線路を見つめていました。下見をしているのかと思いましたが、これから自殺をしようと思っている人間には見えなかったのです。そのように見えない人間も自殺はしますが、この人は違うと思ったのです。そんな表情をしているように見えました。私は意を決して彼女に話しかけてみました。近づいて行くと彼女は目に涙を浮かべているのが分かりました。
 「何をしているんですか?」
 彼女の方から声を掛けてきたわので、驚きました。
 「いや、特に。あなたは何を?」
 「私も、特に。」
 「大丈夫ですか?」
 「あなたは、デッドラインについてどう思いますか?」
初めて彼女と目が合いました。答えなくてはいけないような気がしました。
「別にあっていいと思ってます。生きることだけが正しい訳ではないと思います。」
「そうですか。」
「あなたはどう思いますか?」
「私は嫌いです。憎くて堪りません。」
「どうしてですか?」
「私の旦那はここで死にました。」
私は冷静を装いました。正直胸が張り裂けそうな思いでした。でもそれを悟られてはいけないと思ったのです。
「そうなんですか。」
「私は彼に生きていて欲しかった。例え彼が死を望んでいたとしても、私は彼に生きていて欲しかった。」
私は言葉に詰まりました。考えはあります。色々な言葉が頭の中を駆け巡ります。でもどれも正しくないような気がして、私はその場で黙り込むことしか出来ませんでした。
「すいません。いきなり。話しかけてしまって。」
 そう言って彼女は私の横を通り過ぎて行きました。
 私はベンチに腰掛けました。私が持っている遺書を書いた男性は、彼女の旦那さんなのかもしれないなと、なんとなく思いました。だとしたら、渡すべきだったのでしょう。彼は遺書の最後に「愛している」と書きました。彼女は彼に生きていて欲しかったと思っていました。そしてデッドラインを憎んでいると言いました。こんなところ無かったら良いのかもしれないな、と私はふと思いました。
 帰り道、ここに来るのは最後になる気がしました。もう私は名無し駅には行かないと思います。自分が望むものだけを見ていくつもりはありませんが、見たくないものを見つめなくてはならない生活に私は少し疲れてしまったようなのです。そして、何が正しくて、何が間違っているのか、そもそも正しさとは何なのか、そのようなことが一切分からなくなってしまいました。私は私を見捨てたりはしません。望むだけの世界を見るということは、私自身を否定することになります。私はここ最近、多くの人の死を音で聞き、そして目にしました。不思議なことに、死と遭遇すればする程に私の中から生きる活力のようなものが湧いて来るのを感じるのです。それは私が死を幸福だと思っていないからに違いありません。死んでいった人間を見て、私は生きていることを実感してしまったのですから、世の中の連中と、私も大して変わらないのかもしれません。私もまた卑しい人間なのです。それを認めた上で私はこれからも生きることを決意しました。

家に帰ると玄関には母の靴がありました。私が初任給でプレゼントしたものです。
「トントントン」
リビングに向かいました。そこに母の姿はありませんでした。
 雨が降っています。ベランダに目をやると無数の雨の線が重なって外が白く輝いているように見えました。腹が減りました。
私と母の下着が干してありました。下着の先から大きな雨粒がコンクリートに滴り落ちています。母のワンピースは長時間雨に打たれてしまったせいか、黄ばんでいるように見えます。テルテル坊主はありませんでした。だから雨が降ったのかもしれません。鼻を突き刺すような臭いがしました。台所には洗っていない食器が乱雑に重なっていたので食器を一つ一つ丁寧に洗いました。それでもなお部屋の中は異臭で満ちていました。
「バチッバチバチバチ」
 デッドラインが今日も走っています。私は急いでリビングへと向かいました。途中数えきれない程の蠅が私の目の前を横切って行きました。私はそれを手で追い払うようにして自室へと向かいました。
 ベッドの上にあるノートを手に取り、正の字を書き足していきました。面倒だなと思いました。
窓の外を見ると、電線の上に鳩がいました。私に背を向けました。ベッドから立ち上がり私は窓の扉を開けました。暖かく柔らかでそれでいて湿ったような風が、私の身体を通過して部屋の中へと入っていき、ノートを一枚めくりました。私が思う世界とは、今私が眺めている景色そのものです。地平線は果てしなく続いていることくらい分かっています。でも想像することは出来ません。
 遠くの方に真っ白な点のようなものがあります。そこから灰色の煙が上がっているのが見えました。向こうはもう夕方のようです。電線の鳩は私に背を向けています。
「トントントン」
 見たいものだけを見ていてはいけません。受け入れられないようなことも時には認めなくてはなりません。私は常に選んでいます。
鳩が飛んでいきました。
私は後ろに下がりました。助走を付けるためです。目を閉じるか閉じないかを考えました。私はつくづくつまらない人間だと思います。両足に力を入れて窓に向かって思いっきり走りました。

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落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。