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Mさんが教えてくれた大切なこと

僕には、忘れられない患者様がいる。

Mさんという、パーキンソン病の患者様だった。

僕は、かつて某診療所の外来リハビリ部門に所属していた。

そこは、竹内孝仁教授が中心となって隆盛を極めていたパワーリハビリテーションをメインに実施するリハビリテーションセンターだった。僕も、「グループホームにおけるパワーリハビリテーションの有用性」という演題で、不束ながら症例発表させて頂いたことがある。

パワーリハビリテーションは、安全な姿位で、全身の筋肉をくまなく動かすことができるという点で、特にパーキンソン病(症候群)に有効であるという認識が、当時の私の職場では広がっていた。

ADL場面ではなかなか動かない筋肉群を、パワーリハビリテーションで動かすことで、ドーパミン分泌量を増やそうというのが、その主な論拠だった。

Mさんもまた、その論拠を当てにして、うちの診療所の外来を訪ねてきた。パーキンソン病とパワーリハビリテーションの関連記事をコピーして持参するくらいの熱の入れようだった。

Mさんは、当時、50歳手前。今の僕とさほど変わらない年齢だ。中学生の息子さんがいる、まだ若い患者様だった。パーキンソン病の診断を受け、一旦、退職を余儀なくされたが、また復職したくて、藁をもつかむ思いで、パワーリハビリテーションに賭けたのである。

パーキンソン病にありがちな、とても几帳面で真面目な性格のMさんは、決まった曜日の決まった時間に、必ず来院した。時に、中学生の息子さんを連れて。パーキンソン病のため、一定の間隔で数をカウントできず、マシン操作のリズムが崩れ、息子さんとご本人が一緒に爆笑する場面もあった(パワーリハビリテーションでは、マシンを操作する時、自分で数をカウントして頂く)。細かい振戦はあったものの、それほど身体機能面は悪くなく、毎回、自分で車を運転して、独歩で来院した。

何回か来院している内に、「おつ先生、再就職先が決まりました。」と嬉しそうに話してくれた。パーキンソン病で、しかも50歳手前。普段は、仮面様顔貌のMさんも、この日ばかりは「雇ってくれた会社に、全力で尽くしたいです。」と笑顔で話してくれた。僕も心から祝福した。

その、就職報告からしばらく、Mさんは、外来に来なかった。

「無理もない。就職したら、それどころじゃないよな。」

僕は、外来に来ないのは、良い便りだと思って、安心していた。

1週間ほどたった頃だったと思う。

Mさんがやってきた。

ひょうきんな中学生の息子さんではなく、奥様と一緒に。

奥様に肩を借りて、やっとの思いで、引きずられるようにやってきた。

随分、調子が悪そうだった。

Mさんは、いつも通り、パワーリハビリテーションのマシンに乗って、メニューをこなした。調子は悪そうだったが、鬼気迫るものがあった。僕は、専門的なアセスメントはおろか、いつもの茶飲み話すらできなかった。

一通りメニューをこなすと、Mさんは、また奥様の肩を借りながら、言った。「おつ先生の顔を見ると、安心する。」

僕は、なぜか一抹の寂寥感を覚えながら、「僕もですよ、Mさん」と、押し出すように言った。

それから、数日後のこと。

Mさんの奥様が、菓子折りを持ってやってきた。

「おつ先生、お世話になりました。先日、主人が亡くなりました。」

僕は一瞬、あらゆる感覚がなくなった。音も聞こえない、視覚も機能しない。

Mさんの奥様が、リハビリテーションセンターのカウンターに、菓子折りを置き、「お世話になりました。これで失礼します。」と言った瞬間、それを合図に僕の日常の感覚が戻ってきた。

奥様は、毅然としていて、とてもMさんが亡くなったような感じには思えない位だった。本当に芯の強い奥様だと思う。

奥様の来訪以降、その日の業務のことは、まったく覚えていない。気が付くと終業時間になっていた感じだ。

タイムカードを押して、僕は自分の車に乗り込んだ。

Mさんとの茶飲み話の時出てきた、Mさんの住む町名だけを頼りに、車を走らせる。何丁目かも、何番地かも分からない。でも、ひたすら車を走らせた。Mさんの住む町に着いて、町中、車をグルグル走らせた。Mさんの家なんか、分かりゃしないのに…。

フロントガラス越しの町並みが、歪んでいく。まるで、水の中の廃墟のように。

僕は、自分の涙で溺れるのではないかというくらい、泣いた。

どこまでも泣けた。

「おつ先生の顔を見ると、安心する。」

そう言ってくれたMさん。

僕は今でも自問自答する。

僕の今の顔は、目の前の相手を安心させることができているだろうか?と。

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