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『ワイルド・グレイ』 美しさを追い求めた彼らの人生

『ワイルド・グレイ』観劇。
芸術とはなにか。

芸術は美しい。美しいものは自由だ。
芸術は、自由なのか。
芸術を生み出すためにもがき、悩み、それでいて思い通りにならないこと、それさえも、自由なのか。

『ワイルドグレイ』の存在を知るとき、それは「ドリアングレイの肖像」とワイルドの人生を重ね合わせたのだと想像できる。
想像していたのに、晩年のワイルドがロスを置いて家を出るとき、これは小説のように生きた男の物語なのだとはじめて実感した。小説のように生きるのは、あまりにつらい。

見返りのない愛をワイルドが去ってもなお持ち続ける、いや、持ち続けなければもはや生きられないロス。まさにバジルじゃないか。
ワイルドに献身的に愛を捧げることこそが、彼にとっての自由だった。ロスにとっての、最も美しい生き方だった。

芸術とは何なのか。
創作活動によって、美を追求する活動か?それが定義なのだとしたら、
『ワイルド・グレイ』を観て、自らの人生を美しい方へ切り開いていく生き様そのものが芸術になりえるのだと知った。

ワイルドの「小説でもそう(自分の思い通りの結末に)できなかった」という台詞が残る。
小説でもできなかったのなら、そして人生が小説を模倣するのだとしたら、再び未練が残ることはわかっていたはず。
いや、そうでないことを信じていたのかもしれない。人生を「美」に従って生きることで、小説では実現できなかったことを叶えようとしたのか。事実は小説よりも奇なり、だから。

さておき、東島さんのダグラスは見事だった。長身で一見落ち着いた、少し嫌味な貴族に見えるが、口を開けばまさに子ども。あどけなさを感じる口調と声質には傲慢さや苛立ちすら覚える瞬間もある。が、それを無かったことのように消し去ってしまう歌唱の美しさよ。
ミュージカルでは、容姿と同じか、それよりも、歌声で美しさを感じやすいと思う。劇中でもワイルドを振り回し、感じたままに話すダグラスだが、幼少の頃から美しさによって許されてきた部分があるのだろう。それが舞台だけでもわかる。惹きつけられる歌声だった。また素敵な俳優に出会えた。

『ワイルド・グレイ』は音楽も美しかった。
文豪のイメージとは離れたワイルドの奔放さや自由さを、ワルツ・3拍子に乗せていたのが心地よい。
ワルツを聞けば、貴族の社交界を思わせる。ワイルドだけが3拍子や6/8拍子で歌っていた(と思う)のは、その自由さや社交の才の表れか、はたまた貴族階級への憧れや繕いか。
羽根が生えたように歌い踊り、霧など全て晴らしてしまうかのようなワイルドの姿。演じる立石さんの持つ魅力が活かされたシーンだったのだと思う。

福士さんの歌声は、密度が高く四角く感じる。立石さんは黄色い花が咲くようで、東島さんは絵の具をたっぷりとつけた筆の跡のようだった。
枯れかける花にいくら色を塗ろうとしても、それは報われることなく花は枯れていく。そして、絵の具もいつか乾いてその場を離れていく。いまの瞬間を永遠に閉じ込め、人々にそのままの姿を見せることが、その時できた唯一のことだった。
そんな情景が浮かぶ三重唱だった。


ワイルドが男色罪のない時代に生まれたら、救われるだろうか。いや、それでも同じような結末になっただろう。
罪であっても自分の美しさを突き通すことが、彼の美しさのひとつだった。いや、罪を犯すことさえ、美しかったのか。それとも、愛すること自体が美しいのか。自らの小説が美しいのか。
わからない。わからないから、美しい。わからないから、彼の人生は芸術とも思える。

「美しさは自由だ 自由とは美しい」
若きワイルドが歌ったこの言葉。
なぜか、これだけは心に刻んで帰らねばと感じた。

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