お茶あれこれ201 2017.0602

1. 向井去来
七段花が、少し咲き始めた。薄い青の小さな花(実際は咢かな?)は、息を止めてそうっと見る。江戸期以来幻の花と言われていたが、最近は園芸種が出ているとか。山紫陽花、額紫陽花、真っ白と青の普通の紫陽花、甘茶、といつの間にか紫陽花の種類が増えている。丈は剪定していくから、毎年ほぼ同じ姿を見せる。咲く時期が違うし、花の形が違うが、それにしても七段花は、またいつ幻の花になってしまうかと気になっている。かつて、沈丁花が突然無くなったことがある。山紫陽花は、日を追うごとに藍の色を濃くしていき、小粒ながら蕪村の言う淵の色である。もちろん蕪村の淵の色は朝顔だが、山紫陽花の小さな藍の塊も千変万化の青を見せる。
移ろう時を捉えて表現してきた蕪村が、画家として名を残したのも納得できる。
甘茶が、色は未だだが形ができつつある。梅雨入りの季節だが、花たちは時期を感じながら、自分が立つ舞台を設えているのだろうか。

192は、方丈記や徒然草から村田珠光への話だった。未完成の美は未来へ対する予感であり、滅びの美は過去への憧憬である。今見えるものでそのことを感じるから、美しさがわかり、この国はそれを「侘び」「寂び」として磨いてきた。
後に本居宣長が研究したり、芭蕉につながったりするが、芭蕉の弟子である去来(1651~1704)の、「岩鼻や ここにも一人 月の客」という句に、教えられたことがある。高校に、国語の名物教師がいた。亀井勝一郎の友人で、竹田に川端康成を招き、嫌だという川端に無理を言い、高校で講演をさせている。一緒に写った久住高原での写真を指し、道元についてだったなあ、と亡くなられる数年前、仰った。高校時代、和歌や俳句の鑑賞は、人によって違うものだと答えたら、ひどく叱られた。
ベストの鑑賞は、幾つもあるのではない。作者の思惑だけでなく読者の鑑賞能力とも一つになって作品の価値を高める、と言って例を挙げたのが去来の句だった。去来が、「客」は岩の突端で月を見ている人と言ったのに対して、芭蕉から「客」は去来自身でなくては浅い、と指摘された、と。「去来抄」に、「寂び」についての話がある。
「さびは句の色なり。閑寂なる句をいふにあらず」といって例をあげている。
「花守や 白きかしらを つきあわせ」芭蕉は、「さび色よく現れ」と誉めている。
桜の咲き乱れる庭を管理する老夫婦だろうか、爛漫と咲く桜の下で寄り添い立っている二人の姿が、老いの寂しさと華やかな桜の姿を重ね合わせ、美しさをより表現しているということだろうか。歳をとっているから孤独だとか哀れとかいうのではない、俗世間の不要な雑味を超越した老いと華麗な花を合わせ見る感覚はあるかと、問われている。茶の湯の真も、ここに在る。道具の組み合わせに虚栄はないか。花に余分な一枝を入れてないか。主客の話は、自慢や饒舌に流れてないか。料理に見栄を張ってないか。虚栄を捨てなければ、茶の湯ではない。不要なものを引いていっても、美しさは消えるものではない。いや、不要なものを引いたら、美しさが残るのか。

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