お茶あれこれ256 2017.1208~1213

1. 江岑夏書Ⅳ
昨夜の稽古に、侘助と日向水木を使った。花芽が寒風に震えながら陽を浴びていたが、そばの山茱萸と沈丁花にも花芽が付いていた。今日の昼は、横殴りの粉雪が舞った、というより吹き飛んでいった。しばらく西の窓から外は白く煙って見えなくなるほどだったが、積もるほどには降りきらなかった。

照葉が終わり葉は枯れ落ち、冷たい日が続く内に、木々は花芽を付け春の用意をしていく。可憐な花たちの毎年変わらぬ営みには、感動がある。比べてみれば、人間はだらしがないのかもしれない。一般的に言えないが、己を振り返ってみれば納得する。


これもよく知られた話だが、江岑夏書から。
「利休の時分には帛紗は小さかったが、小田原の陣へ出かける時、宗恩が薬包みとして大きい帛紗を縫って渡した。利休は気に入って、帛紗の大きさはこれにしようと決めた。大きさは、畳目17目と19目」

殆どの帛紗は、今もこの大きさだろうが、織部ではもう少し大きい。畳目にすれば、19目と21目である。色は紫か朱、その角に七つ桔梗を染め抜いている。今年の夏、熊谷先生からいただいた帛紗は、紫の色が少し明るく、折り畳んで腰に付けた時、七つ桔梗がちょうど見えるように、角ではなく一辺の中ほどにある。この位置もなかなかいい。古田家の替え紋である「七つ桔梗」を紫地から染め抜くので、織部流の帛紗は別注になる。正絹塩瀬の1反から帛紗を取っていくので、どうしても高くなる。

「蘭などの香りの高い花を入れる時は、お香は焚かないものです。お香の種類に関係なく、また風炉の香木でも炉の練香でも焚かない。勿論、宗旦はいつもそうでした」
書いてあることはわかるが、沈丁花やクチナシのように香りの強い花は茶席では入れない、としてきたのではないだろうか。水仙には、一部例外があるという感じで捉えてきたが。もっとも茶会記を見ると、時折いただいた花を使う席を見かける。

江戸期のように書院では特に立派な花を豪気に入れている。利休が禁花として、いつまでも枯れた様子を見せない花や世俗的な名前などを嫌って、歌で残していることは以前に話した。いろんな会記を見ていくと、その真偽は定かでもないが、余り一貫している訳でもない。当然宗旦はそんな事々は承知の上で、これを残しているのだろう。ここは本質を見極めその席に最も相応しい取り合わせに徹しなさい、という話と思われる。

織部はもちろんだが、利休も決め事に捉われず、かなりフレキシブルに対応している。深く学習もしていないのに、自由に独自性をなどと演じていくのは、単なる我がまま、無知の好き勝手に過ぎない。宗旦は、実際に利休を見てきたから、権力には近づかず有為転変に流されないように生きてきて、ひたすら侘び茶を追求してきた。そんな宗旦だから、矛盾しているような利休の言葉にも、その奥の本質が見えていたに違いない。表面に振り回されず、不易なるものを見よ、と。

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