お茶あれこれ303 2018.0415~0426

1. 中川廣倫Ⅳ
今年の桜は、3月中に早々と散ってしまった。花の後に散っていく花柄が道や露地を赤く染める中に、いくらか残っていた花びらが爪ほどの白い点を際立たせる。先に付いている「がく片」の赤は変わらないが、数センチの花柄自体は色が変わっていく。始めに散る花柄は薄い色で目立たず、後に散っていくほどグリンの色が濃くなってくる。すると、散り積もった道の色が違ってくる。同じように散っているのだが、前半は赤く後半はグリンが混ざって橙色っぽくなってくる。毎日掃き集めると、重さはなくても嵩は一抱えするほどになる。
朝夕鶯が鳴く。昔は、ホーホケキョ、と聞こえていたが、幼いのか今はきちんと言えないようで、語尾をごまかすなよ、と言いたくなる。姿は見えない。姿の美しいメジロは、自慢げに椿や桜に止まって、蜜を吸うか花を荒らしていた。声と姿を古来混同した。さすがに日本画の世界では、わずかに緑がかった茶で鶯を描いているが、おおよその人は黄緑っぽく美しいメジロの色を、鶯と思っているようにある。

(前回の話を続ける)年貢について、「先年巡視使が通行時、案内の者から聞いた年貢に、全国に聞き及ばない高免と、宿泊した宇田枝で庄屋頭取を呼び出し委しく尋ねた」という記録がある。郡奉行上庄兵衛の現場の意見と中川廣倫の思案は一致し、農村の困窮の実態を紹介、年貢率の緩和などの政策で地下を救助することが、国を豊かにすると提案している。ちなみに、岡藩の人口は、享保14年(1729)の107042人がピークで、安永9年(1780)84777人、天保11年(1840)69397人と減少を続け、この後幕末まではほぼ一定している。この年寛政11年(1799)8月26日、久貴公からの書付には、多病の廣倫を気遣いつつ「近年の人別減少と農家困窮の救助のこと、その方存念一杯に取り計らい、時には自身で見分に出かけ、地方役人共ヘ指示いたせ、そこで何事かあらば追々申し聞かせてくれ」と、廣倫に一任した。

寛政12年4月29日久貴公からの書付がある。「昨秋は近年にない凶作であったが、その方の格別の働きで役人共精々取り計らい行き届いたので、郷中穏やかになり、離散の者も帰り人別増し、家督始めに申し付けた趣意も立ち満足している、今後も奉行始め郷中掛かり役人共へ、貧民を大事に育て、人別を増すよう取り計らうように」と。書付と労いの目録(裏付きの裃、御袷)を、廣倫は頂戴した。
文化元年(1804)8月、多病のため隠居した廣倫は、休息料三十人扶持を与えられ、家督は嫡子廣長に譲った。この頃、本家を継いでいた中川(古田)廣計は老職であり、兄廣倫に代わって藩運営と文化面に力を注いでいた。文化4年横山甚助の改革が始まる。その全てが悪法ではなかったが、産物の専売制や問題もあり、年貢は厳しくなり、文化8年の大一揆へと突き進んでいく。四原一揆と言われた岡藩の百姓一揆は、豊後筑前肥後へと拡大していった。時の老職中川廣計は、立場上その責任を取らされ隠居、植木お野宅で隠居暮らしをしていた兄廣倫は、十年後68歳で亡くなる。

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