お茶あれこれ252 2017.1119~1129
1. 江岑夏書
もう樅の葉が散るようになった。短い針のような細い葉が、無数に庭や路辺に散らばる。階段の三和土の上は、どうにか掃除はできる。庭の苔や下草や七瀬川ビリ石の上と、アスファルトの道路は諦めている。蹲のそばの満天星も散り始めた。毎年、見事な紅葉を見せるので、蹲の上に降り注ぐように散っても文句は言えない。娘が生まれた記念に植えたモミジは、もう40年を超えているが、種をばらまいて勝手に芽を出したモミジが、20cmほどから2mくらいまで庭に10数本ある。つい切れなくて伸びてしまったそれらは、日の当たらぬ所の葉はまだ碧く、黄色や赤や枯葉や、もう落ちて枝だけになった木など、あちこちに実生の椿とモミジがいつの間にか成長してきた庭になった。これを自然でいいとみるか、茶庭の風情ではないとみるか。「そうさなあ」と、赤毛のアンのマシュー爺さんになっている。
「江岑夏書」は、表千家四代江岑宗左が五代随流斎のために書いたものと言えるだろう。「茶話指月集」と同じように、三代宗旦からの聞き書きである。今時の出版物のように、広く読者を求めたり、宣伝したりするものではなかった。茶の湯に関する多くのものごと、道具や茶会記、露地や茶室についての話である。利休の時代から見聞きしてきたことを宗旦が江岑に話したことであり、それを随流斎に伝えておくことが目的であった。利休が直接文字にしたものが少ないのは、昨今のマニュアルのように、「茶は字面を読んで頭で覚えるものではない」と、利休は考えていたからであろう。
この江岑夏書が書かれた時代は寛文3年(1663)、表千家だけのものであったこの書が一般に出されたのは、実に昭和17年(1942)のことになる。およそ300年の間、茶道をしてきた人たちも、文字として読むことはなかったのである。そこに利休の、「茶の湯は文字では伝えられない」という思いがあったことを、優れた茶人たちは理解していたに違いない。
江戸時代に、出版が困難だった訳ではない。実際、この時代数多くの茶の湯関係の書が出されたことは、何度か話してきた。多くの事例を引いてきた「古織伝」は1659年、また「草人木」は1626年、「南方録」は1690年、「細川三斎茶湯書」は1668年など、当時は利休没百年に向かって茶の湯書の出版は流行の感さへあった。江岑宗左も利休への回帰を念頭に書いたのではあろうが、出版することよりも引き継ぐこと自体を重要視したのである。点前手順を暗記することや見栄を張ることばかり気になる茶の湯関係者は、自分も含めて虚心に自戒した方がいい。
随流斎については、以前蕪村の俳句の背景(220)で話した。五代には別して苦労があったと思われるが、この江岑夏書があって、宗旦の茶を固く守り伝える意思が培われたのではないだろうか。その意味からしても、宗旦のことをもっと深く知り江岑夏書を真摯に勉強することは、千家さんだけでなく茶の湯を勉強する者にとって、大きな意味があると思われる。手順を覚えることにのみ精一杯で、利休忌や天然忌はしても宗旦忌が11月19日だったことなど、知りもしないのかもしれない。