お茶あれこれ231 2017.0819~0914

1. 茶道長問織答抄
霧か靄がかかったような、まだはっきりしない朝、露草の花びらの青と金色のしべが、そこだけスポットが当たったみたいに浮かんで見える。やがて朝は明らかになってくるが、露草の控えめな姿は、廻りに溶け込んだまま。左右に開いた2枚の青い花びらの下に、小さめの透き通ったような白い花びらが1枚付いているが、多分気が付かない人も多いだろう。万葉集以来、すぐに消える儚さを詠んだ歌が多い。乾燥させて、解熱剤や下痢止めに使われる生薬でもあるが、古くより若芽、若葉を和え物、お浸し、炒め物、てんぷらで食べてきた。染め物に使うからとか、月の光を浴びて咲くから、などの理由で別名、着草、月草とも呼ばれてきたようだ。染め物としては水にすぐ溶けてしまうマイナスも、それを活かして友禅の下絵を描く青色として使われてきた。母の友人が、京都で友禅の絵描きさんだったが、時折お邪魔していた学生時代に、弟子入りを考えた事がある。

ナンバンギセルを見つけた。10日ほど前には全く姿がなかったが、細く立ち上がって傾げた先っぽがわずかに紫がかっている。よかった。しばらく経ったら、あちこちに広がってきたようだ。ちょうど一年前に「思ひ草」で少し書いたので、ちょっと気になっていた。季節に合わせて巡り合えるのは、いつものこととはいえ嬉しい。

「茶道長問織答抄」慶長17年(1612)正月12日の後半より、
「織部殿、咄ニいかなる因果に数寄をしならひ候、此寒ニ大坂堺にて方々へ数寄ニ参候故、煩も発候、殊ニ御城へ切々祗候申候も、数寄故ニ候、此引事に、
     たれゆへさのミ 身をつくすらん
     舟つなげ 雪の夕の 渡し守 」

あれこれ185「織部公の歌」として、前句と後句が逆になっているが、この和歌のことを話した。あの折の出典では藪内剣仲に宛てたとも言われている歌だが、時代から考えて豊臣方に対する愚痴か不満か、とのニュアンスで書いた。家康は潰す機会を狙っているのに、秀吉の威光が忘れられない豊臣方は自分たちの力を過信している。織部は、関ケ原で決着がついた、と冷静に見ている。家康の魂胆はわかっているが、何とか豊臣家だけは大坂の一大名でもいいから残してやりたい。愚かな豊臣方は納得しない、一大名などになれるか、徳川こそ太閤様の遺志を尊重して礼を尽くすべきではないか、と。織部は以前に話したように、将軍家茶堂の地位を利用しながら、江戸へ駿府へ、各大名たちとも根回しを続けていく。そんな時代背景の、織部の和歌。

ここでは、「織部殿の話、何の因果で茶の湯を始めたのか、この寒さの中なのに、大坂や堺であちこち茶会に行かなならん、病気にもなろうよ、ことに江戸城まで度々伺いお仕えするのも、茶の湯故かと嫌になる、誰か止めてくれ、こんな時に例えていえば、こんな歌よ、と。上田宗箇は、織部の愚痴を聞かされているわけです。茶の湯をしていなかったら、こんなきつい思いをしなくて済んだのに、と。

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