お茶あれこれ254 2017.1128~1208

1. 富貴寺
久し振りに、富貴寺へ行った。前回は確か10年以上前のことになる。千年を超す佇まいは、何も変わることなく、ただ客だけは多かった。蓮華山富貴寺は、寺伝によれば養老2年(718)に開かれたという。阿弥陀堂は、平安後期、浄土思想阿弥陀信仰の全盛期に、榧の大木1本で建立、残りの材で仏像を刻んだと記録される。薄く灰色がかった木部は長い年月の間風雨に、木肌が浮き彫りのように晒されている。

裏山は、年を経た木立の中を急な坂や段々がどこまでも続く。お堂は道路脇から石段を上がっていけばすぐ近く、そこだけ森に囲まれたような平地にある。立ち姿のこんなに美しい建築は、そうは無い。数段上がった床に、高欄もない裸の濡れ縁を周囲に回してある。何といっても、屋根姿が美しい。ご存じない方は、平泉中尊寺を思い浮かべればいいだろう。金色堂は、なまじ金箔の化粧をしているだけに、覆い屋で保護された。その為、深い森の中の荘厳な佇まいを失わせることになった。富貴寺は違う。国宝というのに、雨風に打たれるまま、吹雪にはただ立ちすくみ、何ということもなく普段の中にあり続けた。

今回、阿弥陀堂の中へ入ることができた。3尺足らずの阿弥陀如来坐像は、榧の寄木造りである。素木(しらき)のようにあるが、かつては漆箔で化粧されていたのだろう。史料によれば、東に薬師浄土、南に釈迦浄土、西に阿弥陀浄土、北に弥勒浄土、堂内三千仏が描かれている、という。胡粉の白や丹の色が見られるくらいで、ほとんど剥落して判別し難い。もう、復元の最後の機会ではないだろうか。本堂の阿弥陀三尊像とともに、藤原時代末期という。

藤原時代は、894年の遣唐使廃止以来、藤原氏中心の国風文化が興隆した時代である。借り物ではなく優雅で繊細な文化を生み出した。唐風からの脱皮を基に、寝殿造り、女流文学、彫像の変化、和歌の隆盛、など貴族や社寺による荘園や公領の支配が進んだ時代である。平家を含む鎌倉以前の藤原末期になると、浄土教や神仏習合が芽生え、彫像は一木造りから寄木造りへと技術も進化し、宇治平等院鳳凰堂に代表される浄土教美術は盛んになっていった。貴族たちは、来世の極楽浄土における阿弥陀仏の救済に託して、阿弥陀堂を建立していくのである。

江岑夏書から。「利休は、海棠の花を入れて、花は白い方がいいと仰いました。昼の茶会には白い花を入れるのがよいと。花は2種でも1種でもいい」
以前の史料では、夜の花は白、と言っていたようにあるのだが。さて、どう解釈するか、決め事に捉われず、美意識を養え、ということになるのかなあ。

「真塗の手桶の水指は、取り手を横にして置き、蓋は左の脇に水指に寄せかけて置く。釣瓶の水指は取り手を縦にし、蓋をもう一方の蓋の上に重ねて置く。蓋の開け方に扱いがある。開けるところは水屋の位置による」
真塗りの手桶は、黒漆の品格が圧倒的に厳かである。釣瓶も白木の清々しさは言うまでもない。いずれも水指に使うところに、茶の湯の清潔さを表している。

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