お茶あれこれ229 2017.0817~0906

1. 近戸谷
いつごろからか毎年、姥百合が門の傍に勝手に咲く。小振りで細く、おちょぼ口のところがいい。ユリは、気高く凛とした風情はあるが、ちょっと高慢な感じがする。姥百合には、それがない。花が咲く頃には葉は枯れて既に無いところから、歯の無い姥と名付けられたという。そうとも言えないのは、花が咲く頃になっても葉が枯れないことも結構あるらしい。他のユリと違って、花びらを全開にしないで、おちょぼ口のような咲き方から、姥百合と名付けられたと思っていた。真っ白で出しゃばらず、竹笹に隠れ気味なところも気に入っている。

「岡藩四十八谷物語」という、書物がある。10年ほどかけて順次発刊された「愛宕の里」というシリーズ20巻の一つになる。小倉さんという年配の方が筆による自筆原稿をコピー製本されたもののようだ。この谷物語が約400頁あるのだが、20巻がどれほどのものになるのかは知らない。近戸谷から一部引用する。
中川氏以前の大手門であった下原御門は最も古く、中川氏になっても参勤交代の折にここを出て、十川を渡り普光寺から犬飼を通った事や、西の大手門が加藤清正の助言で今の位置になった事は、かつて話した。後に西の丸を建設する時に、重職たちの屋敷があった北奥になる近戸御門は、寛文4年(1664)に完成した。城下町の方から行けば、はずれにある由学館(現竹田高校や旧竹田小学校の辺りになる)から谷合いを奥へ進むと、近戸谷になる。一説には、桐谷禅師が修業中に付き合いの深かった近松門左衛門を呼び寄せ、禅師の草庵に住まわせたところから、一字を取って近戸とした、との話があるが定かではない。いつごろからの昔語りなのかわからないが、時代が合わないので、わずかの縁を膨らませただけではないだろうか。張り出した岩に挟まれるように登っていく近戸御門への道は、片側に石垣が聳え立ち、狭く急峻な七曲りとなっている。今は、御門櫓両側の石組だけが残る。つい最近まで、その先には風に爽やかな葉連れの音が広がる竹林があった。そこを通り過ぎると、古田織部の子孫である覚左衛門の屋敷跡や中川家から家老になった中川民部の屋敷跡が礎石や床組みで残っている。高徳の桐谷禅師の近戸谷には、前年許されて京都から帰って来た織部の孫中川左馬允重直が毎日のように参禅していた。二代藩主久盛公は、重直から桐谷禅師の話を聞き、近戸谷を下り禅師の草庵を訪ね感銘を受け、以後通うようになった。禅師の庵は狭く、書籍などで座るのにも苦労する有様であったという。寺を建てるとの久盛公の話に、禅師は頭が雨露で濡れなければ即ち足ると固辞したが、公は碧雲寺の東に桐谷禅師の為に高流寺を建立する。やがて寺は古田家の菩提寺ともなり、古田一族、宮津屋、加島屋の墓碑が裏山の中腹に広がっている。文政3年(1820)火災で失われていた山門を、豪商加島冨上が再建する。普通の寺が幾つも建つほどの門と当時騒がれた山門は、「お詫びの門」と呼ばれる逸話も残した。中川家の菩提寺は、初代秀成以降碧雲寺であるが、久盛公の墓碑は御覆屋と共に、高流寺にある。

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