お茶あれこれ247 2017.1025~1109
1. 吊り釜
吉祥草は、いきなり花が咲く。下草みたいなもので、細い20センチばかりの葉が生い茂っている。そこに10センチ足らずの蕾の穂が隠れて立つ。ちょっと眼にかからない。柴漬けを濃くした色の穂に、数ミリの棘々の蕾がみっしりと付く。で、解るのは叢の中に、それが小さな白い花を咲かせた時。下から順々に蕾が開いていく。そこで始めて、ああ吉祥草が咲いた、おめでたいことやなあ、となる。毎年、咲くまで全く気が付かないで、ごめんなさい、という感じである。そのすぐ後ろに夕暮れ時は見失いそうな儚げな色の花が、そろそろ終わりそうにある。薄い藤色、或いはブルーか、蛍袋を小さめにしたような花がうつむく。木下闇に、溶け込んでしまいそうな花は、姫沙参。ひめしゃじんと読むが、そのギザギザの釣鐘状の花は乾燥した岩場などに咲く高山植物の一種。姫沙参は日本固有種だが、似た花の釣鐘ニンジンは中国から朝鮮、日本と分布は広い。「山でうまいはオケラにトトキ、嫁にやるのもおしござる」と古くから唄われてきた「トトキ」は、釣鐘ニンジンの古名。若芽を和え物にしてもてんぷらにしても絶品という。根はニンジンというくらい、乾燥して咳止めなど生薬になる。どちらの花も、あまり気が付かないかもしれない。
加藤廣著「利休の闇」を文庫で読んだ。信長など安土桃山時代が得意な作家なのだろうか、他の作品はまだ読んではいない。事実とフィクションの境はわからないが、茶会記などもあって面白い。幾つか興味深いところがあるが、後で紹介したい。
「吊り釜」については、透木釜と同じく3月から4月にかけて暖かくなり始めた頃の風情を楽しみ、炉から風炉へ移る間の趣深い形、くらいの浅い知識でしかない。つまり、流派によって異なるが、いずれも春先に使われると認識してきた。そのことがいつごろから、そうなってきたのか、ということを教えていただけるとありがたい。
これは、別の史料によるが、天正10年(1582)山崎妙喜庵で秀吉と宗及が点前をし、客に宗久、宗易、宗二。一部の道具に虚堂の墨蹟、木枯肩衝、尼子天目、あられ釜、紹鴎の細鎖、とあるから、あられ釜を鎖で吊った形と思われるが、11月7日となっている。また同じ資料で、天正11年上記の主客に重宗甫、万代屋宗安を加えた茶席、井戸天目、打曇り大海茶入、乙御前の釜、自在、とある。乙御前の釜を自在鉤で吊ったのだろうが、正月5日となっている。信長が生きている時に、秀吉は乙御前の釜を拝領して茶の湯を許されていた程度だから、他の茶道具は全て信長所有のものであっただろう。織部の資料で、吊り釜は広間では鎖、小間では自在とある。さて、「利休の闇」に引用された吊り釜の日時を記す。天正6年10月「オトゴゼノ釜ツリテ」、天正10年1月「あられかま釣りて」、天正16年11月「猿釜、ツリテ」、以上に加えて前述の2点もある。他に五徳を使った茶席が、物語の展開に連れて数度記されている。利休や織部の時代は、戦場も含めて吊り釜が通常の形であったのか、今の春先の趣と言われる形はどこから来たのか、己の知識不足を痛感している。