お茶あれこれ224 2017.0809~0818
1. 中川重治Ⅳ
山桜の好きだった母が、「花とは見えないでしょうが、いい名前の花よ、『吾亦紅』、吾もまた紅なりというの」と。もう60年も前の夏の終わりだった。あの頃は、久住高原のどこにでもあった。ただ、背丈は50センチくらいだったろう。いつ頃高原から消えたのだろうか、りんどうもヒゴタイも。その代わり、吾亦紅を園芸用に育てた知人が居る。人の背丈ほどもあり、色も茶色よりほんとに紅になった。蹲の傍の数本の吾亦紅が、色付いてきた。立秋を待っていたのだろうか。
寛永17年(1640)、南町奉行を経て大目付となった加賀爪民部忠澄、目付の野々山新兵衛兼綱が上使として長崎へ行った帰途、小倉へ立ち寄っている。理由はわからないが、中川志摩は6月20日から7月3日まで小倉に逗留したと記録されている。
古田家文書にはないが、これは長崎まで取り調べに行った、幕府の上使一行である。「島原の乱」の影響から国交断絶としたポルトガルからの異議と抗弁があり、マカオから長崎へ呼び寄せた上で取り調べをした帰り、小倉藩小笠原家で滞在。岡藩を呼び出したのは何の思惑があったのだろうか。特に何も記されていないし、処罰された訳でも無い。なぜ岡藩、そして中川志摩が出掛けねばならなかったのか。
更に同年8月10日、幕府の上使である能勢小十郎頼隆、三上半兵衛秀正が人吉藩相良家からの帰途、今市を通るからと志摩は接待に出かけている。今市は、肥後藩の参勤交代道路でもあった話はした。また、三佐の港を岡藩の飛び地として整備する前は、岡藩も参勤交代には今市を通り、萩原から船を出していた。この頃はまだ岡藩もお茶屋を持ち、休憩所として使っていた。ご馳走するために11日まで居たとある。
この時の人吉藩は、前年から相良家内での争いが広がり、幕府まで申し立てがあった。上使は江戸から人吉まで出かけてきたのだろうが、当時は今の我々が思うよりごく気軽に船や徒歩で、しかも頻繁に移動している感じがある。それにしても、岡藩と中川志摩が出張る必要はどこにあったのか。今市は、接待が目的なのだろうが、小倉は日数からいっても距離からいっても、単なる上使への接待とは思えない。
寛永18年芳心院(志摩の母小長)は、志摩を藤兵衛と名乗らせたいと久盛公へ願いを立てた。藤兵衛は、24歳で亡くなった秀政公の更に若い時の名である。播州三木で小長が生まれた時は、藩主秀政公は既に文禄の役で朝鮮に渡っている。顔も見ないまま異国で亡くなった父の、若い頃の名を吾が子に名乗らせたい、それは母の思いでもあるが、父を思う娘としての思いでもある。中川志摩は、28歳になっている。
藤兵衛は、志摩にとっては祖父の名であるが、中川家にとっては藩主の名でもある。姉弟として育ち、小長の2歳下になる久盛公は、藤兵衛の名に思いを込めた小長の気持ちを自分のことのように感じ入った事だろう。先々代藩主の名であるが、「別格の訳を以て御聞き済み下され」と許可されている。小長も夫重直も、幼い時から両親は居ない。親子の情愛を殊更強く思う小長、それを認めた久盛公。