お茶あれこれ300 2018.0405~0419

1. 中川廣倫
白の山吹が咲き始めた。黒い実をつける一重の山吹である。この葉と大手毬の葉が、もっとも緑の色が鮮やかで美しい。それは花の白を一際引き立たせる。昔から五月には白い花が咲くと言ってきたが、玄関の横には「イカリソウ」も咲き、満天星も小さな白いベルのような花を、文字通り鈴なりに付けている。先日の一人静もそうだが、この月も白い花が多いのかもしれない。いずれも緑をバックにした白い花は、邪念も無く美しい。大手毬は、まだ花の色は若草色のまま塊だけは日々大きくなっていく。手毬の姿もいいが、苔に散る一つ一つの花も美しい。

以前にも書いたが、中川藤四郎廣倫の新たな史料が出てきたので、少し紹介する。

古田織部の孫である重直は、豊後古田家としては二代になる。その嫡男藤兵衛重治は本家筋をつなぎ、次男である重宗も中川の姓をいただき、分家の筋を引き継いでいく。ご城代や家老の家柄でもある。150年ほど後に、この分家から本家へ養子にいったのが古田廣計であり、その兄廣倫は分家の当主である。どちらも途中、老職を務めた間は姓を中川と称した。老職を隠居した後、廣倫は岡城内の覚左衛門屋敷を出て、植木お野宅で暮らした。お野宅は、元々藩主の休憩所であり、狩りや茶の湯、視察の折に使っている。植木お野宅は、寛文4年(1664)に古田本家藤兵衛重治が、三代久清公から拝領したものだが、この廣倫の時代は古田分家の屋敷になっている。享和2年(1802)に廣倫が残した「野宅 御入之覚」という史料がある。10月22日というから暮れるのも早いだろうし、少し肌寒い頃かもしれない。十代藩主久貴公が立ち寄られた。もちろん事前に御沙汰があってのこと。野宅は小高い丘を登り、稲荷神社を過ぎ、池や庭園の奥にある。途中で馬を降り、座敷に入られたのは八つ半というから午後3時頃、中川廣倫お目見えの上、大庄屋大津も併せて、稲の作柄をご覧になった。それから猟をされたのだが、獲物は無かったようだ。野宅に戻り、菓子を召しあがり、遠山の稲荷神社と池の弁天社に篝火を焚く中、庭のお供をし、お謡いと御酒の相手を廣倫親子がしている。四ツ半(夜11時)頃にお立ちになったとある。4年前に大和郡山松平家から養子に来られた久貴公は、この時まだ16歳の若き藩主である。

同じ廣倫が残した、この史料も面白い。寛政11年(1799)3月の「村々産物之覚・郡奉行廻村之節調書物之内抜書」は、この年の岡藩領内の各組(地域)ごとの産物を書いた史料になる。岡藩領内69組の内、39組のみの記載になるが、久住山麓の温泉、鶴崎三佐の船数や塩家、清流沿いの川ノリや川茸、三宅の瓦師、植木の焼物師、広範囲の生薬作物、農作物、農機具、紙漉き、加工品(縄・炭・蓑・下駄・粉・杖)などの収穫高と金額がある。さらに、当時の農村の状況や窮民対策なども記載されている。作間(農閑期)に草履やむしろ(藁で編んだござ)、かまぎ(むしろを二つ折りし両脇を編み縫った袋、農作物の収納)を作る。 (次に続ける)

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