お茶あれこれ253 2017.1122~1203
1. 江岑夏書Ⅱ
桜は、葉が3枚残って寒風に震えている。椿や山茶花の花が咲いているくらいで、しばらく寂しい露地の景色になる。久住に近い友人が、もう初雪は降ったと言ったが、この辺りで年内に雪を見ることは近年ない。幾つか赤い実を付けた木々は、雪を背景にした方が映えるのだろうが。日向ミズキに花芽が付いているので、12月には一度使おうと思っている。まだ全く姿を見せないが、蕾が出てくれば蝋梅も年内間に合うかもしれない。あとは、椿をやりくりするしかないか。白菊が冬枯れて紫がかってくるのも、これはこれで風情がある。清新な息吹を込めた蕾が茶花の本来であろうが、茶席の雰囲気や時期によっていろんな美しさもあるのではないか。
苔や下草は、モミジが散り積もって敷松葉ならぬ、枯れた色の敷紅葉に覆われている。落ち葉をどうしたものか、と思いながら、もう二週間ほどになる。
江岑夏書に書かれてある内容を、少し抜き書きする。余り長い段落はないので、様々な話を重ねながら、拙い思いを乗せていきたい。
「大徳寺の門前に利休が屋敷を求め、先ず少庵が堺から上洛し、初めて茶の湯に青竹の蓋置を使った。これが京衆の噂となり、評判となった後に、利休が上洛する。四畳半を造って「不審庵」の額を打ち、初めて露地に畳石を敷いた」延段である。
利休が以前に嵯峨西芳寺を見て、露地に使おうと思ったと言われている。延段と言えば、先ず思い浮かぶのは燕庵の内露地だろう。織部の造形美と茶室の考えが、明瞭に感じられる露地の延段である。大坂の陣の折、家康の思惑も豊臣の行末も、そして自分の近い先行きまでも予測したのだろう、燕庵を妹婿である薮内剣仲に譲ってしまった。燕庵、三畳台目に相伴席が付いて、茶道口には竹の方立、点前座は皮付き赤松の中柱に雲雀棚、段違いの色紙窓、墨蹟窓に花入れ釘、10か所もある大小の窓、織部の意匠が如何に近代的デザインに富んでいたかが存分に味わえる茶室である。
薮内家に移築した燕庵は、二百数十年後火災にあう。長州が仕掛けた、禁門の変である。蛤御門の変ともいわれる。元治元年(1864)7月19日愚かにも長州藩が捨て台詞のように放った火は、21日朝まで燃え続け御所周辺から市街地の半分、二万軒の家屋敷は灰燼に帰した。燕庵も、この時に焼失した。薮内流では、相伝を受けた者にのみ燕庵を忠実に写す許しが出る。全焼した後、最も古い写しを移築したことで、今も私たちは往時の燕庵を見ることができる。織部の独自性と芸術性は、燕庵と茶会記で研究できるだろう。今時の箱書きや能書きで茶会をする人にとっては、感じることも無理かもしれない。
「武野紹鴎の茶杓は、節がないか、あっても節は手前側に寄っている。また、櫂先は緩やかに曲がっている丸矯めである。節を真ん中にする中節は利休好みで始まり、また利休の櫂先は直線的に曲げた折り矯めにしている」この櫂先がさらに武家風に鋭くなってくるのが、織部の特徴でもある。武家風でも遠州になると、きれいに上品になってくる。その昔は、茶人たちは茶杓を削っていたから、個性が見えて面白い。