私は禁書目録の実況をする人
最近、Twitterでの私は「『とある魔術の禁書目録』を実況する人」として認知されているように思う。
TogetterのUIに記された人のシルエットがユニークアクセスを意味するのなら、このまとめに18,000人以上がアクセスしているということになる。パラオの総人口と同じくらいだ。
仮にPVであったとしても、ページ数が現在27ページだから、再読も含めてざっと600人程度は読んでくれている計算になるのではないか。これだって大した人数だ、並の宴会場では収まりきらない。
嬉しく思うと同時に、考察に期待されているのではないかというプレッシャーも高まる。私はメンタルが弱いから、正直に言って期待されるのはあまり得意ではない。
予防線というわけではないが、今日は実況ではなく、実況している私について語らせてほしい。特に、どうやって何の知識を得たのかについて。
オカルトが少しわかる人
前提として、私はそこまでオカルトに詳しくはない。より正確に言えば、個別の術体系について論じられるほどの知識はない。
私は中学生のころに柳田國男や南方熊楠にハマり、それと個人的な興味が重なって大学では広義の宗教学に近い研究をしていた。楽しくはあったが、就活では「何の役に立つの?」と聞かれ続けて心をすり減らしている。
そういうわけで、宗教学で論じられるところのマギア(呪術、魔術、奇術など)についてそれが社会の中でどのような役割を担っているか、どのようなロジックが働いて信じるに値するとされているかが少しわかる。
とあるに登場するオカルトはその大半が史実に存在するマギアを元ネタとしている。だから、私はその元ネタをおぼろげな記憶から引っ張り出して、「たぶんこういうことだよね」と推察しているわけだ。
しかし、個別のマギアについて私はあまり語れない。
そもそも、オカルトとはオカルティズム、隠秘学の技術や儀礼だ。隠秘学であるとはつまり、そのマギアのほとんどが一般に公開されていないか、当事者による解説がなされていないということだ。
だから、私はオカルトの中でも特に近代の魔術結社による隠秘学的儀礼については疎い。それは秘匿されたマギアだからだ。
もちろん、興味が向いたときに軽く調べたりはしている。アレイスター・クロウリーの足跡であったり、黄金夜明の盛衰であったり。しかし、それはなにかしっかりと学んだからというわけではない。
むしろ私がある程度自信をもって語ることができるのは、時代を問わず人が信じる聖性や禁忌、宗教が持つ密教的・神秘主義的性質とそこに生じる聖性との合一のような、宗教学が主題として扱うテーマについてだ。
いや、それらすらも実を言うと自信はない。
私の研究は確かに宗教学だった。しかし、体系的に宗教学を学んだことはない。学部学科で言えば私の専攻は宗教学ではなかったからだ。宗教学と隣接する専攻だったおかげで宗教学の研究が認められただけだ。
どちらにせよ今は学府を離れ在野で(と言えば聞こえがいいだろうか)学問を続けている身だから、私が語ることを裏付ける身分はどこにもない。学位記にすらない。
ただ、幸いにして手元の資料はそれなりに豊富で、ポピュラーな元ネタならば「いつかどこかで読んだあれだ」と見当がつくし、そうでなくともわからないなりに調べれば出てくる環境ではある。
専門家と比較すると当然見劣りするが、それでもそれなりの資料を集めた。それなりというのは質も量も両方だ。
先述のとおり私は宗教学のプロパーではない。ただ、自分の興味と重なる範囲で必読と言われているような古典は読んできたし、新しい研究にもできるだけアプローチするようにしている。
また、『ダ・ヴィンチ・コード』の主人公であるロバート・ラングドン教授がきっかけで私は象徴にも興味を持ち、図像とその意味について熱心に学んでいた時期があった。
こちらは私の研究とはほとんど関係がない趣味の領域だが、喜ばしいことにとあるの実況ではこの勉強が役に立って、キャラクターの身なりや持ち物からそれほど的外れではない考察ができることがある。
そういった日々の学術的営みのおかげで、私は少しだけ宗教学がわかるし、それはつまり少しだけオカルトがわかるということになる。
カトリック史が少しわかる人
それとは別に、私は少しだけカトリックというか、西方教会に思い入れがある。思い入れと言うのも変かもしれない。私自身は信徒ではないのだから。
私がとあるを読むうえで少しだけローマ正教贔屓なのは、カトリックが好きだからだ。正確には、西方教会がヨーロッパで果たした役割に敬意を表しているからだ。
私は信仰集団としてではなく、社会組織としての西方教会に強い関心がある。地域の福祉を担い、国家以上に国家でありながら強制力を有さなかった教会という組織は非常に興味深い。
もちろん、負の側面もある。高度に制度化された官僚システムのせいで教会内では聖職禄の売買が横行したし、贖宥状や十字軍など負の側面についてはプロテスタントが指摘する諸々を見るまでもなくわかっている。
それでも、ユダヤ教の分派に過ぎなかったキリスト教がこれだけの規模と力を得ることができたのには相応の理由があり、そしてその理由には少なからず「社会組織としての強さ」が関わっている。
社会組織としての西方教会の組織史。このテーマが果たして宗教史学に含まれるのか、それとも社会史に含まれるのかは定かではない。
先行研究も少なく、日本語で読める資料も限られている中、私は少しずつこの分野を開拓している。最近の趣味はこれだ。人に紹介できる趣味ではないだろう。
現代日本では宗教が社会で何かしらの役割を果たすこと自体が忌避されている。したがって、宗教団体であるところの西方教会が社会で役割を果たしていたことについて語る人は少ないし、知っている人も少ない。
それどころか、日本の作品で宗教がしっかりとした組織を持っていることは少ない。大抵の場合は現場とトップがいるだけで、縦のつながりも横のつながりも希薄だ。
しかし、実際のところ、社会組織としての宗教団体はかなり効率的に構造化されていて、組織としてとても面白い。
私はいつか社会組織としての宗教団体を丁寧に扱った作品が書きたいと常々思っている。それはあまり出版社ウケしないものになるだろうし、ひょっとすると同人になるかなあと思案しているところだ。
とあるの実況をするうえで宗教知識が役に立ったのはまったくの偶然と言っていい。まさかここまで秘密の趣味が刺さる作品が日本のエンタメ小説にあるとは思わなかった。
禁書目録の実況をする人
初見実況を始めてもうすぐ3ヶ月が経とうとしている。もう3ヶ月。気が遠くなる。私は何をやっていたんだろう。
いろいろな学びがあった。エンタメ小説の懐の広さを知った。先達としての鎌池和馬の偉大さを知り、少し嫉妬もした。私には20年後も愛されるような作品を書くことができるだろうかと悩みもした。
ひとつ言えるのは、『とある魔術の禁書目録』というシリーズが色褪せない面白さを持っているということだ。
それなりに目は肥えている。いろいろな作品を読んできたという自負がある。しかし、今の私は20年前のライトノベルに夢中になっている。これは驚くべきことだ。
さらに驚くべきこととして、オカルトや宗教の話が関係ない部分でも私は本作を夢中になって読んでいる。上条当麻の戦いに一喜一憂し、一方通行が誰かのために戦うことを知った姿に喝采を上げる。そんな普通の読者だ。
そう、私は普通の読者だ。何も「この作品を完全に解剖してあらゆる元ネタを読み解いてやるぜ、ぐへへ」などとは微塵も考えていない。他の読者と同じように楽しんでいる。
私が他の読者と違うのは、少しだけオカルトと宗教について知識があるということだけ。楽しむ気持ちが先にあり、考察やら何やらは偶然湧いて出ただけなのだ。
オチはこんなところだろうか。昨日13巻を読み終え、このペースでいけば夏の間には旧約を全巻読み終えることになるだろう。新約に入るのは秋。
旧約を読み終えたら参考文献つきの考察記事を書こうかと思っている。ブログでやるかnoteでやるかは検討中。WordPressがページ分けと脚注の併用に対応してないんだ。
実は現在転職活動中(フリーランスからの転職だから厳密には就職活動なのかもしれない)で、メンタルも時間も余裕がない。できれば温かい声援を送ってください。
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