『チェコ・あぶさん』
「モルダウの流れのように、ユーゴスラヴィアも悠大な歴史を持つべきなのだ。
―ヨシップ・ブロズ・ティトー
八重洲地下街で買ってきたチェコ・アブサン。
化学調合だと一目でわかるような、如何にも怪しいエメラルドグリーンの薬草酒。
ドクダミの葉を磨り潰し、そこにアスファルトのひび割れの間から染み出してきた汚水を加えると、こんな代物ができるに違いない。実際味も似たようなものだ。
僕はその時のノリでこれを購入したことを、幾度となく後悔し、
ショットで口に含んでは、窓を勢い良く開け、その怪しく濁った緑色を、噴射することを繰り返していた。やれやれ、自堕落な生活にも程がある。
まだ半分以上、その瓶には緑が残っていた。僕は早いところ、空にしてしまい、形は美しいのだから、花瓶にでもしてしまいたかった。
チェコ・アブサン…マイアの月におまえと出会った
チェコ・アブサン…気づけばもうフェブルウスの月
チェコ・アブサン…アプロディーテの月までには、貴様を彼方に追放したい
妖魔によって緑に蠱惑され続け、身を滅ぼしていくこと。アブサニストの宿命である。
しかし、僕は最後の気力を振り絞って、段ボールにこの薬草酒を梱包した。
宛先には「チェコユダヤ人研究者 富士塚 徹」と書いておいた。
富士塚徹は研究室のソファーに座りながらテレビでニュースを見ていた。
今しがた、級友から届いた薬草酒を片手に、しかめっ面で口に運びながら。
じきに彼も旅立っていく。緑の妖魔に手を引かれながら。
彼はそれでもいい、と思った。トリップ先がチェコならば、思う存分チェコユダヤ人の研究ができるはずだから。
同じ頃、チェコ・ユダヤ人の旧ゲットー区域ではアブサンの密造が盛んに行われていた。
工場の片隅では、こんな会話が繰り広げられていた。
「こいつぁ、えらい復讐劇になりますぜ。我々の妖魔がユーゴを解体せしめようっていうんですからな。今夜は前夜祭ですぜ。」
富士塚徹は、意識が朦朧とし、脳内が微睡の海と化す中、テレビの画面に流れたテロップの意味を懸命に咀嚼していた。
ーユーゴの終身大統領 ティトー がスロベニアの病院で死去。
一つの大きな時代が終わった。
今、僕の部屋の窓際には、花瓶代わりにボトルが置いてある。
そこに光が降り注ぎ、乱反射して、水がきらきら輝いている。
悪魔祓いは成し遂げられた。僕は毎朝この花瓶に水を汲み、チェコ・ユダヤ人を思い、祈ることにした。彼らの暗澹たる緑色の血が、少しでも清められますように、と。
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