わたしのかくれ里をさがして〜3歳の息子をおんぶして平家の隠れ遺跡を巡った話〜後編
前編(隠れ里で朝活)コチラ 中編(重文真鍋家)コチラ
後編では、百聞は一見にしかずということで、切山の名所や平家遺跡を実際に歩いて体験してきました。
今回もめちゃくちゃ楽しみながら紹介していこうと思いますので、最後までお付き合い頂けますと幸いです。
前回の続き。にこにこ市にて、切山の名所や遺跡を平家落人のご子孫の一人、参鍋さんに後日、案内して頂ける事になりました。
ちなみに、自分たちでもまわれますか?と聞いたら
「まわれないよ!!多分、帰ってこれなくなるで!」
と、ちょっと怖いことを笑顔でおっしゃられていました。ええ?またまた〜と軽い気持ちで聞き流していたのですが、後にこの言葉の意味を身をもって知ることになります。
ここで切山平家伝説のおさらい
平家遺跡にいくまえに、ざっくり、おさらいです。
チーム平氏は、全国を制覇したのち、絶対的な京都王者となりました。しかし、エースキャプテンの平清盛がいなくなってしまってから、どんどんとその勢いがなくなってきます。そんな時、期待のルーキー源頼朝を率いるチーム源氏が東日本を制覇!!西と東の戦い、チーム平氏VSチーム源氏は、チーム平氏が負けてしまい、京都王者からも座を奪われます。
時の天皇、安徳天皇まで奪われたらチーム平氏に再興の道はありません!!幼い安徳天皇を連れてより安全な場所に移そうと考えたチーム平氏は、平清房(清盛の八男)率いる5人の選抜メンバーで切山を目指します。
そして半年間、切山にて安徳天皇をお守りした後、壇ノ浦に送り届け(切山の選抜チーム五士は、チーム源氏に寝返った徳島の田内と戦うも負けちゃう→切山落人へ)そこでチーム平氏VSチーム源氏の最後の戦い(後、平氏滅亡)をするにいたります。今風にまとめると、東京リベンジャーズみたいな感じです(違うわ)
今回の平家遺跡の中心人物となる安徳天皇とは、どのような方だったのかざっくりと描いてみました。
いざ、切山!平家遺跡へ。
さて、参鍋さんと平家遺跡巡りの約束をした当日です。
この日は、1歳と3歳の息子2人は、ばぁばに預けて行く予定でした。朝ご飯を食べている時に、かぁかは、お山に行ってくるねというと、珍しく3歳の息子が
「おやま、ぼくもいく。」
と言ってきました。え?行くん?いっぱい歩くよ?と伝えるも、行くと頑なに言い切ります。
う〜〜ん、乙女心と秋の空以上に変わりやすいのが3歳児の機嫌、楽しく遊んでるなぁと思った2秒後には、怒髪天になっているので、今回もなんとも言えません。
まぁ、超がつくほどのばぁばっ子だし、切山についたら、どうせ来ないだろうと思い、出発しました。
切山の待ち合わせ場所に着くと、参鍋さんの姿がありました。
「朝早くにすいません。ところで3歳の息子が一緒に行きたいと言ってるんですが連れて行っても大丈夫ですか?」
と、聞くと
「おおー、いいけど、結構歩くよ!大丈夫かな?」
参鍋さんが息子に優しく聞いてくれました。歩けるー?と聞くと、いけるー!と笑顔で答える息子。
ここにきて、ばぁばではなく切山を選んだことに、内心びっくりしましたが、可愛い子には旅をさせろとも言うし、本人も行きたがってるから、少しは歩くだろうと考え、じゃあ連れて行きます。と決心して息子と2人で車を降りました。
少し心配そうなばぁばを他所に、笑顔の親子+参鍋さんで、バイバーイと手を振りながら、ばぁば車をお見送りします。
しかし、その直後、
「ばぁば〜〜〜どこおおおおおおお〜〜〜!!!」
と、まさかの息子が泣き叫びだしました。私も参鍋さんも、ぇぇええーーー????いまぁ!?って全く同じリアクションをしていたと思います。
もちろん、泣き叫ぶ息子に気がつかないばぁばは、後部座席で爆睡している1歳児を連れて颯爽と下界に降りていきました。
「おおお〜〜〜ん!!ばぁば〜〜〜!!」
と泣く息子、バァバドコイッタ妖怪に成り果てます。もう始まりから嫌な予感しかしませんが、参鍋さんの車の色が銀色だからカッコいいとかよくわからない説得をしたら、なんとか車に乗り込んでくれました。
車内から見える景色がおもしろいのか徐々にご機嫌になった息子、参鍋さんも私も一安心です。息子のお喋りに付き合ってくれる参鍋さん、本当に優しい方です。
そして、まず一番最初に向かったのは、参鍋さんオススメの切山がよく見渡せるスポットでした。
切山ベストスポット
まず、空と山が近くて感動します。天気も良く山脈が美しくて、気持ちがいいです。ここからスタートが切れるのだとワクワクしました。息子もこの景色を見て、ばぁばのことは、すっかり忘れてくれたようで、気分上々になってきました。
続いて向かった場所は、
切山の代表的な名所、生き木地蔵様
生き地蔵様のところへは車を降りて少し歩きます。
さぁ、歩くよ〜と参鍋さんの合図で車から降りると息子が満面の笑みでこちらを見て、言いました。
「かぁか、だっこちて」
歩かんのかーーい!というツッコミが響き渡ります。ここから歩かんのかい地獄の始まりです。また、バァバドコイッタ妖怪になられても面倒なので抱っこして歩きました。
カゴの木の中にお地蔵様が彫られています。元々あったお地蔵様は、江戸時代のものだったそうで、木が弱り朽ち果てかけていたところを切山平家遺跡保存会の方々が観音寺在住の仏像彫刻師、荻田文昭氏にお願いして昭和54年11月に復元したそうです。
息子が「木のお家にはいってるね〜!」とニコニコ。3歳児には木のお家の中にお地蔵さんが座ってるように見えるんだなぁと、あまりの純粋さに参鍋さんと2人でほっこりしました。
ほっこりしたのも束の間、帰りも抱っこちてです。ぜぇぜぇしながら息子を抱っこして歩いてたら、参鍋さんが
「ここはまだ序の口だけど、お母ちゃん大丈夫かー?」
と優しく心配してくださいました。
「大丈夫ですーー!!」
と言いつつ、でも、ここって序の口なんですね、、
息子が歩いてくれる場所なんてあるのだろうか、、
楽しみなはずなのに、ちょっと気が遠くなったのを覚えています。
しかし、ちっちぇことを気にしてても楽しめません!気を取り直して、安徳天皇の仮御陵へ向かいました。少し小高い丘を登ると、目前に、別世界が広がります。
四国中央市も見渡せる安徳天皇仮御陵(お墓)
平家一門が壇ノ浦で滅んでしまったという知らせを聞いた切山の平家落人たちは悲しみ、安徳天皇のお衣とお念仏をここに埋めて仮の御陵(お墓)にしたと言われている場所だそうです。
この御陵は山口(壇ノ浦)の方を向いて立っているそうです。平家落人たちは、しばしばここに集まっては、安徳天皇を偲んでいたそうでした。
続いて、平清房をはじめ五士たちが、安徳天皇をお連れして一番最初に目指した場所、土釜神社へやってきました。
ここから始まる平家伝説、土釜神社(どかまじんじゃ)
ここには、古来から社が建てられていたらしく、平清房か平清国の御子孫がまつられているとも言われているそうです。
傷や腫れ物にご利益がある神様だそうです。今は原っぱのようになっていますが、芝居小屋があったり、出店があったり、参拝者も多く賑やかだったそうです。
少し歩いて土釜薬師へ。無論ここまでもずっと抱っこorおんぶです。参鍋さんのあるけぇよぉ〜?も無視してしがみつく息子は、もはやおもりでしかありません。
耳にご利益のある土釜薬師(どかまやくし)
安徳天皇の警護の要になったところと言われています。
耳の形に似た河原石を拾い、石に穴を開けて奉納し、病気治癒を祈願したと言われています。薬師さんの周りには、こだまのような石がたくさん積み重なっていました。
この木なんの木、気になる木
「あと、これが、すげぇ木なんだよ〜!! 」
最近、切山で話題になっている土釜神社の前の大木を教えてくれました。この木なんの木どころではない見た目です。
なにがすごいって枝振りがすごい。写真では伝え難いのですが下に向いていたと思えば、90度に上に曲がる枝、タコみたいにぐにゃぐにゃで、ものすっごい力強い生命力を感じました。
今一番切山でナウい名所の大木を見た後は、まだまだ奥深く進んでいきます。本当に参鍋さんの案内がなければ、たどり着くどころの話ではなかったなとこの時、痛感しました。切山は、細い道がいくつもあるみたいです。
「ここらへんは全部田んぼだったんやけどなぁ〜」
かつての里山の面影は、石垣があるのみ。参鍋さんに言われてから気がつきました。自然の力ってすごいなと思いながら、安徳天皇が切山で滞在していた場所へ向かいます。
安徳宮がある下谷八幡宮(上の宮)
なんと、下谷八幡宮では、歩きだした息子。お宮の近くは、川も流れています。子供心をくすぐるのでしょうか、めちゃくちゃ気に入ってました。
ここで、すごい燈篭も教えて頂きました。
今から210年ほど前の江戸時代、文化9年の燈篭です。杉田玄白や滝沢馬琴なんかが活躍していた時代から今に残っているなんて、たまらなく感動しました。
そして、近くには、こんな変わった石碑も
元々は石橋の部分だったらしく、侍の足跡がついているという言い伝えがあったそうです。ただの言い伝えだと思っていたら、工事の際に足跡がついた橋が姿を表したらしく、言い伝えは本当だったのだと、みんなびっくりしたそうです。
「さぁ、今日の2番目の難関だけど、歩けるかな?」
と参鍋さんが息子に言います。もちろんこの優しい忠告も虚しく、だっこちてマンに早変わりです。
だっこちてのまま山道を登って行きます。右手には、安徳天皇が遊んだと言われる綺麗な川が広がります。おんぶされながら、息子も今から川遊びする?と言い出しました。やはり、子供心をくすぐる場所なんだろうなぁと実感、安徳天皇がここで川遊びしたくなるのも頷けました。
しかし、本日の2番目の難関の道、確かに今までの道とは、比になりません。山道をひたすらじわりじわりと、進んでいきます。しんどさのあまり、だんだん我が子が子泣き爺に思えてきました。
昔、テレビ番組で石原良純さんがここに訪れたらしく、一緒に来ていた歴史学者の先生は途中でちょっとダウンしたそうです。
そんな場所を、子泣き爺を背負ってえっちらおっちら登っているのだから、足腰は限界を迎えてガクガクです。私の中の筋肉がパワーーーーと叫びながら、なんとか登上することができました。
足腰は死にましたが、ついた瞬間、この石碑の美しさに圧倒されました。ハァハァ言いながらもシャッターをきりたくなる衝動に駆られます。ほんっっとうに神秘的なんです。山深い場所なのに、なぜかここだけセーブポイントみたいに木漏れ日に照らされキラキラ輝いています。
安徳天皇が半年間過ごした行在所(あんざいしょ)
ここで安徳天皇が半年間、過ごしたと言われています。辺り一面にウラジロが咲き乱れていて、このウラジロも植えられたものですか?と聞くと、これは、自然に生えているものだと教えて頂きました。この美しく群生するウラジロたちも自然の産物だなんて、不思議です。
石碑は、小高い古墳のような丘に立っており、神々しさも感じられました。
安徳天皇の行在所を満喫した我々は、下山します。もちろん、安定のだこちての状態なのですが、その時ふと思ったのです。
安徳天皇もこんな場所は、歩くわけないよな?ということは、当時の侍女は、こういう気持ちだったのかもしれない。
そんな私の思いを感じとったのか、参鍋さんが、
「安徳天皇もこうやっておんぶされてきてたのかもなぁ。当時の侍女さんは大変だぁ!はっはっは〜」
現在進行形で大変な侍女はここにおるのですが、これ以上ない疑似体験ができました。足腰は死んだけど、当時の侍女の気持ちが知れるなんて体験は、滅多にできません。生まれ変わりかもしれないと思う程、思いを馳せることができました。子泣き爺に感謝です。
続いて、最後のスポットに向かいます。
五士を助けてくれた熊野権現(くまのごんげん)
熊野権現といえば、和歌山の熊野大社のイメージが強かったのですが、全国各地にあるそうです。安徳天皇を連れた五士が切山に辿り着く途中に、遭難しそうになったとき、伊藤清左衛門さん(修験者でもあり道案内役)が、背負っていた熊野権現に祈念したお陰で、無事に土釜に辿り着けたということから、ここに社を建てたそうです。
さて、本日最後の難関、下谷八幡宮(下の宮)です(さほど難所ではないのですが人を担いで歩くのには難所)ここの下谷八幡宮は(下の宮)と言われます。(上の宮)は、安徳宮があった場所です。
石段が神秘的な下谷八幡宮(下の宮)
安徳天皇が三種の神器の草薙剣を置いたのではないかと言われる伝承があります。刀石渋くてかっこよかったです。
続いて少々、長い石段が続きます。もうこの頃には、参鍋さんも、歩けのあの字もでません。なぜなら、彼が歩くわけがないからです。ここでも、侍女は、えっちらおっちら背負って登ります。もう手慣れたもんです。
みんなで、手を合わせてから降ります。足腰ガクガクはさておき、本当に楽しく愉快に巡ることができました。
最後に、参鍋さんイチオシの愛宕山へ行っていただきました。息子は、車内でずっっと喋り散らしていたので、おしゃべりに疲れて、爆睡です。
すべてをここで味わえる愛宕山からの絶景
言葉がでてきません。疲れがぶっ飛ぶほどの絶景です。空、海、山すべてを手に入れたような気持ちになりました。ちなみに、山に登ったのは、私の足ではなく、参鍋さんと銀色の車くんです。全力で頑張ってくれたので、私は足腰をやられずに済みました。
平家の祈りの物語を巡って、今後の切山を考える
「いや〜それにしても、すごく楽しかったです。2時間なんてあっという間でしたね。あと、参道やお社も本当に綺麗な状態でした。」
私が悦に入っていると、参鍋さんが切山の今の現状を語ってくださいました。
「本当は他にも案内したかったけど、時間切れだねぇ。でも、切山には、小さな神様がもっとたくさんいるんだ。この五輪の石の神様みたいな神様がいたるところにたくさんあるんだよ。」
中には、もう言われもわからないほど古い神様もいるそうです。でも、どんな神様にも、地域住民のみんなで回って竹の御神酒に甘酒を入れて定期的にお掃除をされているそうです。
先祖から受け継いできた神様を大切にする、その思いを絶やすことなく切山の人々が継承してきている姿に心打たれました。
「いやぁ、ほんとに、素敵ですね!!切山!ご先祖様を思う気持ちをここまで繋いできているなんて!!」
「うん。でもね、
この先が、全然わからないんだよな。
20年後、切山は、一体どうなってるのかなぁ。」
何気なくおっしゃられた参鍋さんのこの言葉は、私の心にずっしりとした重さを残しました。さっきまでなんにも考えずに、神秘的で美しい切山の歴史を堪能していたからこそ、よりリアルにその重みを感じます。できれば、直視したくなかった現実を目の前に叩きつけられたような気持ちになりました。
参鍋さんは、自分たちがいなくなった後、若い人がほとんどいない切山がどうなっていくのかということを大変危惧されていました。
なんとか後世に繋いで残していけるようにと、地域住民で協力して切山にこにこ市を開いたり、山の散策を計画したり、愛宕山に展望台を建てたいという素敵なプランを考えて発信されたりしています。とにかく、今の自分たちにできることはなんでもしているそうです。
とおっしゃられていました。でも、私には、この切山の課題は、切山に住んでないからといっても、他人事とだとは思えませんでした。『ここに住んでいる』それは、四国中央市に住んでいる私たちにも当然、当てはまることではないのだろうかと考えます。
自然がたくさんでのびのびしていて、子育てにぴったりだと思うのですが、現在、切山には学校がないので、移住する、住む、ということに対する若い人のハードルの高さも痛いほど理解できます。
でも、20年後、息子と切山に来たとき、母ちゃんなぁ!ここであんたをずっとおんぶして、足腰死んだんだわ!!って笑いあいたくて仕方がないのです。ここには残しておかなければいけない、四国中央市の宝物がたくさん詰まっている。
伝承や伝説というのは、眉唾物じゃないか、と言う人もいます。だけど、人間が繋いできたものが歴史なのだから、たくさんの解釈や説、伝承や伝説があってあたりまえなのです。
大切なのは、これが嘘か?真か?ではなく、この場所に込められた人々の祈りの物語があるということ。
切山の平家伝説も、齢6歳にして、平家衰退と共に海に沈んで死んでしまう悲しい運命の安徳天皇を嘆き、少しでもそのお気持ちに寄り添えたらと思う平家落人たちの気持ちが祈りにつながったのではないかと思います。そして、その祈りは、地域住民の方々の気持ちがあるからこそ、今ここに存在しています。
人々の祈りが歴史を創る。
目に見えない人の営みが徐々に淘汰されていく現代において、切山の人々のように、そこに込められた人々の祈りの思いを感じとり、後世に残し伝えていくことが今の私たちの世代にも課せられた使命なのではないかと強く感じました。
大きなことを口走ってしまいましたが、私もなにが正解なのか、正直わかりません。一朝一夕にはいかない難しい課題だと感じています。
それでも、愛宕山で天空のマルシェとか一緒にしたら楽しそうですね!とか、道が狭いなら地元の方と行くツアーにして、ガイドしながらまわっても良さそうですねぇなど、参鍋さんとめちゃくちゃ楽しい前向きな話しもたくさんできました。これからなにができるのか、、それを考える難しさだけでなく、生み出す楽しさも味わえたらなと思っています。
拙い文章になってしまい、私の力量では、切山のすべては、お伝えできなかった部分も多いと思います。
それでも、この祈りの物語が、誰かの目に留まっていただけたなら、その縁を大変嬉しく思います、ありがとうございました。ちなみに、足腰は約1週間ぐらい筋肉痛でした(運動不足)
わたしのかくれ里をさがして
真鍋家の当主である真鍋潤さん、真鍋博さん
切山の案内をして頂いた参鍋修一さん
切山の地域住民の方々
平家遺跡保存会の方々
協力をしてくださった村上さんご夫婦
まだまだ、感謝したい方々はいますが
取材にご協力頂き本当にありがとうございました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?