脱・本場。


どうもカタカナが多すぎる本や文章を読んでると、

なんだか読む気が失せてしまう(笑)

昨日手にとった本がもう得意げにカタカナまみれで。


カタカナってのはいわゆるIT、ビジネス用語。

むりくり使ってんじゃねーの?ってくらいに

散りばめた文章はミケンニシワものです。


言葉って、イメージしてもらうとすれば

日本語←←(ろ過装置)→→外来語系

という感じがあると思うんです。


少し時間をかけてある程度、複数の世代に

共通理解としてゆっくりと、ろ過していかないと

すっと理解に馴染まないような感覚がある。


しかも最近は日本語がままならないまま、

外来語で理解しようとしてる人が増えている。

無意識にそういう環境におかれているんですよ。

スピードを速めていくから、ろ過しきれない。


言葉は、外国の文化や風景を切り取っているから、

外国の土地、空気、人柄、風土みたいなものも

受け入れたうえでの理解になるんですよね。


日本語の背景にある、日本の文化圏での考え方を

意識したことはあるんだろうか。

本場アメリカでは、みたいな発想を

そのまま日本に持ち込もうとしてはいないだろうか。


言葉にはその国の文化や考え方が宿ると推測している。

つながりきらない言葉の意味を、違う文化圏でつなごうとすると

不具合が生じてしまうのではないだろうか。


日本語ってその漢字や言葉の成り立ちみたいなものから

意味合いをイメージできるでしょ?

その日本語と文化が違う背景の言葉をつなげると、

ちょっとイビツな感じになると思いません?


つまり、アイデンティティーが重ならない。←こういうこと。

でもアイデンティティー?って、なんだかフワっとしてくる。

日本語に対応しづらい意味をもった言葉が混じってくると、

やっぱり少しずつ「意味の分からないズレ」が生じ始める。


だから文脈で読んでいって、なんとなく理解できるものもある。

でもみんながみんな、わかることではないでしょう?

和製英語っぽいものでも、知識ひけらかし系のワードは

知ってる人だけついてこれればみたいな、鼻につく感じになる(笑)


ウラを返せば、「わかる人だけついてこれる競走」になる。

マニアックな領域に足を踏み入れていって大衆を置き去りにする。

たとえ、注釈を入れたとしても読むリズムが出ないし、

聞きながら注釈を気にしながら、理解をしていくのは難しい。


こういう人らは結構、上の階級?(笑)の人に多いんですけど

国も自治体も企業も、ほとんどすべてがこういう

横文字やカタカナを使いこなしてる感を出してくるけど

その意味を分かる人だけついてきてって雰囲気になるんです。


意外とみんな国や行政もできていないんですよ。ホント。

当たり前だと思って、配慮にかけるインテリ疾走感を出す(笑)


どんどんわからない単語で進められると興味失うでしょ?

頭のいい人らはどうしても、この「言葉を使ってる感」に酔う。

その言葉、ワードが意味するところを知らないと前に進まない。

ってことは「興味を失う」ってことなんです。


国や自治体が一生懸命やってるのに・・・っていうのは

伝える相手が理解できるような範囲でやってるのなら、

言い訳としてはアリなんです。


法律の文言も全部そうでしょ?

理解してもらおうと降りてこないのが、

政治にも社会にも参加意識が薄い国民性を生んでいる。


わからないから国民は国に任せっきりになるし、

任せっきりにして負担が増えて国はうまくいかない。

やってくれるのが当たり前になって、自主性を失う。

当事者感覚を忘れたまま、文句だけつけてしまう。


どうしたらいいっていうけど、簡単なことでしょう。

わかる言葉で伝えあう。

それをまずはやってみないと。

何も変わっていかないのではないでしょうか。











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