生活者という言葉
生活者目線で、生活者の気持ちで
こういう言葉が繰り返されるように
なったのはいつからだろうか
なんか何も参加していない
参加できることもない生きる者
そんなニュアンスが強めに映る
生活のために働き収入を得て
暮らしを続けるのが目的の人
であるかのようなニュアンス
自虐的に考えるとそういうふうに
考えられなくもない話ですね
生活者、私たちは生活者なのか
まだ物心のつかない子供を除いて
ほとんどの日本人は生活者で
生活や自分の人生だけを気にする
難しいことは他の誰かに任せる
そういう姿勢で文句はつけても
変える権利もなく、意識も低い
気づけばショウバイの渦に
互いに巻き込み、巻き込まれ
ショウバイだからと許す繰り返し
なんか可笑しな世の中になった
他人事のように思うのは自分たちで
参加意識から距離を置いているから
そりゃ立派な生活者が出来上がる
無理もない話なんだろう
潜在的に社会に積極的に参加する
意識を持たせないように育てられた
そんな気もしないでもない結果だ
生活者、改めて私たちは想像すると
自分の仕事、ショウバイの範囲内で
迷惑かけないように日々過ごす
そう、過ごすだけになっていく
その中で美味しいものを食べる
気持ちよく何かを楽しむ、遊ぶ
そう、ただのお客さんになっていく
こうなっている現状に疑いなく
生活するための目線を優先する
日本の将来の事は考えないほうが
良いのだと言い聞かせ日々暮らす
このちょっとイビツな個人主義
将来や未来のために自分が
自分でない者のために犠牲を払う
これを今を生きる責任とは思わず
自分を煩わしくさせる事と感じる
おそらくは社会のために個人が
何かを担う責任感みたいなものを
教育の過程で意識させられていない
思い出せばそうではないだろうか?
SDGsにしたって何も知らないまま
覚えたやり方を変えるのが面倒だと
意識は後ろ向きになって始めている
初めて知る子供のほうが自分たちが
すべき責任感が強いのではないか?
ヘタに大人になってからだと
それまでに形成した自我が邪魔をする
損得を自分優先に考えるようになる
社会の問題は自分たちの関わる
べき問題ではないから誰かに任せる
自分は自分の生活防衛のために
すべき事を第一選択としてきた
それが生きる道だと大人になれば
誰もが実感するからであろう
間違いなく皆、現実と理想に悩み
中高年らと同じ道を現実として選ぶ
でも何処かで誰かが自分も
主たる参加者で関わる責任がある
そうやって世論を動かさない限りは
誰も真剣に関わる気持ちを自らで
持つことはないのだろうなと
特に日本は自ら動く事をためらう
でもあえてこの同調性の高さを
利用するのであれば、リーダーが
選ばれた人が参加しようと促し
参加できるしくみをつくり呼び込む
そうすれば日本人は安心して
未来や子孫のために道筋を皆で
一斉に描いていこうとする気持ちに
スイッチが入るのではないか?
授業中は黙っている事が当たり前
当てられたら仕方なく答える
でも自分からは手を挙げて
意見を積極的には言わないで
育った世代が世の中の中心にいる
嗚呼、私たちがダメなんだ
やっぱりな、そうだと思ってた
でもやらないよ、やっても自分に
なんの得にもならないからね
あの時から変わらない姿勢や態度
そのまま大人になっていった私たち
まだ淀んだ教室の中にいるのだろう