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送り手と受け手。


平成の途中ぐらいからだろうか。

いまの時代は送り手が受け手に対して

共感レベルを合わせにいくように

変化してきたような気がする。


完全な感覚的な感想ですが、

送り手と受け手の主導権の変化、

これをテーマに考える。


昭和から平成前半あたりはまだ、

送り手が「ちょっと上から」

新しいものを提供して、

お前らついて来いよ、的な。

そういう流れがあった。


送り手→受け手、という

やや一方通行での

受け手のレベルを引き上げる

構図があったように感じる。


最初はわからなかったけど、

最初はちょっとイヤだったけど。


私たちが理解しきれていなかっただけで

評価が180度変わることはたくさんある。


現在は「受け手が選ぶ、受け手がエライ」

って構図に変わってきている。


どんな業界でもそうですが、

受け手になんでも合わせすぎると

ダメになっていきます。


買ってくれないと困るというのもある。

ただ、だからこそバランスを考えるべきで。

「真逆の武器」もちゃんと持っておきたい。


送り手が全部、願いを叶えてあげると

最初はいいが、長続きせず今度は

受け手の要求がエスカレートする。


そしてどんどん、受け手に合わせにいって

人間的にどんどん堕落していくような。


合わせすぎてもつまらなくなるし、

受け手は飽きて、最後までは

付き合ってくれないんですよね。


実はここがポイントで、

送り手は最後まで付き合ってくれる

と思ってしまいがち。


相手は最後、飽きたらすぐ捨てる。

安いほうへ、フラ~ってなびいていく。

得なほうへ、列をなして密になる。


だから苦肉の策で、送り手は

受け手の機嫌を損ねないように

低身低頭、配慮に配慮を重ねる。


こんなに大事に育てても、

裏切るのは一瞬である。

なんでも買い与えすぎた、

子育ての失敗のように。


受け手が要求するものを右往左往しながら、

飽きられないようにサービスし続ける。


サービスに齟齬がないように、

細心の注意と最新の注意を払いながら。


イメージとしてテレビ番組がわかりやすい。

芸能人がカリスマ性で引っ張る図式が

昭和や平成の途中まではあった。


俺らがやるから面白い。ついて来いよ的な。

時代背景もあるけど、受け手がさまざまな

情報や手法を含めて「知らない」という

前提が通用したから。


言葉は悪いがそういう見せ方、

ダマし方が通用していた時代だった。


カリスマ性を形作りやすかった時代。

もちろん才能がある人たちではあるが、

そういう展開がハマりやすかった時代。


そして時を経て、ザックリ言うと

ネット社会が到来するにつれて、

研究され始める、研究されてしまう。


届かなかった声が、軽はずみなものも含め、

届いてしまう、可視化されてしまい、

すごく複雑に思惑が絡み合うようになった。


一部の特権だった情報が

一般化してしまうと

大衆はそのカリスマのカラクリを

知ってしまうわけです。


これが、大きい。

その内容によっては

ダマされていたと憤慨したり、

なんだ大したことないなと

評価を下げたりする。


しかし、後付けで研究された情報は

可視化されることでステータスが

若干下がってしまうというか、

ショボくなってしまうという

バイアス、偏見が出始めてくる。


手品、マジックのタネアカシを

知る前と知った後みたいな。


タネアカシはどんな業界でも

あまりしすぎないほうがいい。

たぶん双方がシアワセなままでいられる。


ダマすダマさないの視点に

論点を持っていくんじゃなくて。


いまの時代は注目を集められるから

今のうちにやってしまえ!と

知りたい欲につけこんで、

タネアカシを容易にしてしまう。

実に哀しいことだなと思う。


タネアカシのツールにあふれているいまは、

ツールを操る人の質が問われている。


あらゆることがバレてしまう。

人の知りたい欲につけこみ、バラす。


自分たちが良ければ、と

根こそぎ刈り取ってしまう。

山菜とれるだけとって、

根絶やしにするみたいに。


結果的に新しいものを提供しづらい

雰囲気をつくってしまう。


つまり、過去を研究されつくしてしまい、

過去の何かと比較しがちになっていき、

社会全体が評論家になってしまう。


さらに情報量産社会になり、

大衆が明らかに情報を「受け身」で

接する機会にあふれてしまった。


情報を発信できるけど、それ以上に

情報を受け続ける日常ができてきた。

すると情報を吟味せずに、受け止める。


受け止めて考えるイトマがあれば

まだわかるのだが、間髪を入れずに

また情報を受け止めてしまう日常。


その情報のエンドレス化に

私たちは思考停止してしまっていないか?


そして評論家となった大衆のスタンスに

送り手が無意識に合わせてしまう。

それが当たり前で疑いもしなくなる。


とにかく〇✕をつけたがる。

瞬時に評価を下したがる。


感情を可視化できるツールで

たった一度の印象で、

容易に覆らない決定を

無責任に下し、ネット上に発表する。

それをマスコミが拾う、広げる。


近年は明らかにネット上の声を意識して

利用しつつ、その声に応える。

少し、おもねる感じでサービスしてまっせ

と見せかけての、シメシメ感がある。


「半沢直樹」はその典型にも

思えなくもないくらいだが(笑)


もちろん、そういう仕掛ける側の意図も

わかってしまうようになってしまった。


エンターテイメントは特に難しくなる。

ウソが売りみたいな側面もあるから。

ウソや裏切りを楽しめないような、

ちょっとクソマジメ感がジャマしてしまう。


エンターテイメントを楽しむというのは、

送り手が与えて、受け手が楽しむだけ?

ではないでしょう。

たぶん違う感じがする。


双方が歩みを合わせあうような関係性を

あえて壊さないようにしないと、

成立しないのではないだろうか。


コレはおそらく受け手の耐性の問題、

あるいは受け手がその「ノリに乗らない」


自分の知らないところでの話題に、

ソッポを向いて盛り上がれない。

この感情がジャマしていないか?


背景には自分をあまり否定されずに

育ってきたこともあるかもしれない。


自分を中心に置く環境を当たり前に

享受してきたからなのかもしれない。


なんでも誉められ、励まされて

痛い目をみないように親や世間が

回避させてきた影響もあると思う。


知らないことが、とにかく不安で仕方ない。

すぐに不安を埋めたがる、解消したがる。

すぐ調べて、すぐ安心したい。


おそらくネット社会は便利にはなっても

イビツさを徹底的に排除していく流れを

絶え間なく作り出し、究極の完全体に

なろうと追求していくんだろう。


その成れの果てを憂いてしまう。

そう感じる人も多いはずだ。


私たちは人間的なダメな部分を許容して

仕上げすぎずに、持続可能な人間を

目指さないといけないのではないだろうか。


また同じ争いを繰り返してしまい、

やられたらやり返すようになる。

倍返しなんぞ、人間にとっては

なんの意味もないのだから。






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