
教育とスポーツのハザマ。
高校野球でのペッパーミルのパフォ。
どうやら相手のエラーで出塁しての
ものだったらしいが。
このエラーがヒット性の当たりでの
ものだったのか、完全なミスのエラーか。
それによって違うとは思うんですよね。
実際の映像観たら、微妙です笑
打球は強めだが、ほぼ正面で
選手自身の緊張もあっただろうし
ヒット性だがトンネルはなぁ笑
ただ、選手(あえて生徒とは言わない)は
出塁したら、やろうという意識が強かった
であろうことは、想像に難くないこと。
出塁できたということはそれだけ
チームにとっても、個人にとっても
どこかで出塁したらやりたいと。
その気持ちはもともとWBCを観ていて
意識が高まっていても不思議でないなと
想像できることで。
ある意味で触発された「自然な行動」で。
誰がみてもエラーであるならば
その行為は失礼なのだと思う。
もしそれでも出塁した、よっしゃと
やろうとしたのならば、出塁した
選手の側はちょっと軽率だったかと。
でも高校生だからね、そこまで
気持ちを制御できないでしょ。
打球がヒット性であって
飛びついて届かずとか触ったが
弾いてしまったとかね。
うまく打った、相手も懸命に守備したが
結果的にエラーになってしまった
というのならば、ちょっと話が違う。
やっても別に失礼に当たらないと思う。
ただ高野連の言い分を記事でみると
イメージでいうと、校則と同じにおい。
たびたび問題になる校則問題と同じ。
まだあの組織は古い体質が抜けない。
やはり高野連は教育の延長にある。
いまの時代にはまったくそぐわないのに
ルールやら決め事、姿勢すべて
教育の延長上にある問題で見てしまう。
まだそんなこと言ってんのかと。
そう思われても、教育の一環を
自分のフレームから外そうと
しないからでしょう。
これが旧態依然の学校体育的思考
その手のタイプの組織丸出しの世界。
たぶん中にいる連中もホンネでは
欠点を突かれて「アッ」って思った。
でも立場上や自分たちで勝手に
決めるのには、責任がチラつく。
だから規則やルールを拠り所にして
逃げてしまう、決断できないまま。
これは感情と常識と教育と礼儀とね。
ごちゃまぜになってしまうから。
政治家含め、日本人あるあるですね。
ハツラツと清く正しく一生懸命
正々堂々、ジャッジに文句つけない。
その場では振る舞うことを求める。
ずっと教育の延長、そうやってきた。
昔から野球部の生徒、基本ヤンチャ
多いよ笑、たぶんあらゆる世代がそう。
でも野球やるときだけは、ちゃんと
振る舞っていた。普段は悪いやつでもね。
それくらい昔の生徒、選手は
体育の延長にいさせられてた。
教育の一環として節度を学ぶ。
多少は機能していたとも思う。
だが、いまは学校体育、教育の延長
という状況から脱却しつつある。
よりスポーツをする意識の強さや
その楽しさを素直に表現する気持ちが
上回ってきている時代になった。
メディア含めてこんなに地方大会から
取り上げるなんてあり得なかった。
部活というよりスポーツ的スタイルに。
つまり体育教育の一環、延長上から
楽しむスポーツに現場レベルでは
変わってきているんですよね。
でも上に行けば行くほど判断は古い。
そこで跳ね返そうとしてきた。
今回もまたその作用が生じている。
そもそも、まんまマネするのは
サブいとしか感じないので
基本、ワタクスは否定しますよ笑
でも所詮というか、高校生ですし。
マネしたくなるのもわかる。
素直な表現でスポーツを楽しむ。
だがそのハザマで校則と同じで
なんで?という気持ちが上回る。
楽しむほうはハシゴ外される思い。
雰囲気台無しにしてもルール重視。
変わっていくことに億劫な面。
古い上の組織に行けば行くほど
決められなくなっていってしまう。
これも日本人の国民性、社会性。
弱点であって、言い訳してきた。
決断せず仕方ないと逃げてきた。
そういう問題の一端、一例でしかない。
スポーツを通しての人間的な成長。
スポーツを教育上の一環として
フィルターをつける現ルール。
このハザマで揺れる問題ですね。
水を差す、冷水を浴びせても
ルールだからと考え直しもしない。
校則と同じです、ホントに。
その背景の日本人的な国民性も。
誰かが変えてほしい、でも自分では。
そうやって誰も声を上げても
行動に至らない、決められない。
コロナも何もかもすべてはココ。
これも次の世代に先送りだろうか。
私たちもトンネルの中にいる。
その向こうは明るいのに。
私たちはエラーではないのか。