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選別者不在 その1「ライブハウス」

結論から言えば、日本の音楽文化がつまらない理由は、選別者がいないことにあります。

選別者とは、良い楽曲や能力のある作り手や(一般的な意味での)歌い手、あるいは弾き手を選ぶことができる人のことです。
多くの人は、まだ聴いたことのない良い曲を探そうと思っても、どう探していいかわかりません。また、探すための労力をかけたいと思っていません。
ですから、音楽好きの中でも特に音楽好きで、なおかつ質の良し悪しや種類を選別でき、人々に伝える人が役割として必要になってくるわけです。

作る人がいて聴く人がいるわけですが、その間に選別者がいないと適切に届きにくいです。
考えてみれば普通のことで、何も音楽に限った話ではありません。作る人と受け取る人の橋渡しとなる人や場所がないと多くの場面で不便です。

例えば「食べ物」が欲しいと思った時は、スーパーに買い物に行きます。わざわざ生産者のところに直接買いに行っても良いでしょうが、それができる人は限られますし、仮に行ったとしても実際に生産者が直接売る役割までできるのは客が少ない時に限られるでしょう。そもそも、客は全ての生産者がどこにいるのか知りません。

また、スーパーで安心して買い物ができるのは、粗悪品を置くわけがないという信頼の気持ちを一応持っているからです。
そもそも何でもいいから「食べ物」が欲しいのではなく、どんな野菜、どんな魚、どんな調味料、とか具体的な食材や食品を選んで買っているわけです。それができる理由は、スーパーで種類ごとに分けられているからです。

つまり、食品の良し悪しや種類の選別があるからスーパーは成り立っているのです。
もっと言えば、作り手と受け手の間には選別者だけではなく、管理する人やレジの人などの仲介者がいるから、自分が望むものを見つけ買うことができるのです。

音楽はどうでしょう。良し悪しや種類が適切に選別にされているでしょうか。

ライブハウス・ライブバー

両者は厳密には違うかもしれませんが、音楽活動をしようとする者にとっては発表の場として必ず思いつく場所です。
そして本来、地域の作り手と聴き手が集まることができる音楽好きのための場です。
しかし残念ながら、現実はそのようには機能していません。

まず、ライブハウスというのは多くの場合、チケットノルマがあり、出演者が自力でチケットを必要枚数売りさばくことで出演できます。できない場合は自腹で払って出演します。
つまり、質による選別ではなく、出演料を払えば誰でもライブの出演者になれるということです。

私はチケットノルマは達成できないですが、少額の出演料で参加できる機会を頂いたので、他に2つのバンドが出演する催しに参加してみました。
想像の範囲内でしたが、充実感の無い催しでした。
なぜかというと、そこにいた観客というのは、他の出演者と出演者に半強制的に誘われたと思われる知り合いのみで、音楽好きが訪れている様子には全く見えなかったからです。1つのバンドはあからさまに客が家族、知り合いであることを紹介していました。つまり、自己満足のためにライブを開いているだけです。
それから、オープンマイクというものにも行ってみましたが、ここも想像通りでした。観客はほぼ全てが出演者で、他はその知り合い数人のみで、催しには何の選別もありません。プロ・アマ、音楽の種類、なんの区別もありません。強いて言えばJPOPのカバーをしている人が多めでしたが、全体としては「音楽好き」という漠然とした共通項があるのみです。「食べ物が好き」ぐらい漠然としているため、実際には好みの違う人が同じ場所にいただけです。
実質、客がいないため、宣伝活動としての効果はありませんでした。

音楽好きの聴き手がいない場所など出演者にとって意味がありません。
これは、前者のライブハウスに出演したすぐ後のことですが、すぐ近くの人通りの多いところで、自分の曲をスピーカーを使って歌い、客を集めている人がいました。出演したライブハウスより、よっぽどこちらの方が積極的に聴いている人が集まっているようでした。
確かに、こちらの方が理にかなっています。路上ライブの方が観客に聴いてもらえるのですから、宣伝の場として機能しないライブハウスなど用がなくて当然かもしれません。
ただし、個人的には路上ライブは快く思っていません。通行人として静かにしてほしいと思っているからです。それは街宣カーに対しても思っていることです。

良し悪しの選別が無く、純粋な音楽好きがいない催しはつまらないです。
仮に、多くのチケットを売ることができた出演者がいたとしても、それはおおよそ、観客の純粋な音楽好きとしての好みから始まっているのではなく、「知り合いだから参加してあげる」とか「誘われたから」という「嘘」から始まっているからです。
実際に一人の音楽好きとして、様々なライブハウスのスケジュールを見ても、興味を引く催しはありません。そこには質の選別がなく、企画として音楽の種類の選別が乏しいからです。
そもそも、スケジュールには出演バンド名が複数書かれているのみで、どんな種類の音楽の催しだとかわからない場合が多々あります。それほど魅力を宣伝できない催しということですから、音楽好きとして興味を持てるわけがありません。

チケットノルマ

私には金やチケットを売りつけることができる人脈がありませんから、チケットノルマを達成することができません。そもそもノルマ制が正しいと思いません。
まず、ほとんど場合は自分で払えるわけがありません。
次に、勧誘をしなければいけないというのが正しいと思いません。
芸術家や職人というのは、自分の芸や技を極めることが仕事であり役割です。そうであるがゆえに、得意・不得意があります。例えば私は「経済」とか「経営」とかそういうカネに関することに詳しくなれません。
また、こうして文章を書くという理屈っぽい作業には、まあまあ時間がかかっています。
それは個性なのですから仕方ありません。
商人として生まれてきたわけではないので、個性や役割が違うのです。逆に商人は芸術に特化することはできません。どこにも何でもできる完璧な人はおらず、個性があるがゆえ、役割があるのです。
ですから、チケットを売れと言われても、商人として営業や接客したり、知らない人に声をかけて勧誘するような能力を持っていないので、簡単に売ることができないのです。逆に、それができる口達者な人はもはや芸術家・職人系ではないように思えます。
余談かもしれませんが、日本では「ヴィジュアル系」という名前からして音楽ジャンルであることを諦めたジャンルがサブカルチャーとして成功した一つの理由は、彼らが接客業が得意なホストのような人たちであったから、のように思えます。

そもそも、聴き手が勧誘や広告・宣伝で作り手を知らなければならないという仕組みがおかしいと思っています。私の好きな曲やアーティストというのは、ほとんどネットラジオなどで自分で見つけたものです。
音楽に限らず、勧誘や押し売りで興味を持ったものはありません。むしろ、勧誘や押し売りをされると良い印象を持たなくなります。
どんなに勧誘をされても結局は聴き手自身が良し悪しを決めるべきですから、それなら最初から、並んでいる商品を選ぶように選べばいいわけです。
また、勧誘をされたからといって聴かないといけないというのは、判断力に嘘を感じますし、その仕組み自体が新興宗教じみた商法に思えます。嘘があると質のあるものが残りません。

ノルマ制の弊害は音楽界のみならず、演劇界、バレエ界でも指摘されています。
いずれも共通して言われていることは、演者は売ることができない、ノルマだと「質」が残らないという私と同じ主張です。

他の業界については細かいことが言えませんが、少なくとも、音楽文化を育てようと思ったら、出演料をいくら払う、など「数字」で決めるのではなく、楽曲や作り手の「質」で選別する仕組みを作らなければ、これからの日本は面白い音楽文化がなくなります。というより、すでにありません。

職業・役割

音楽家が社会の中の役割として必要であることは、音楽好きの皆さんなら実感しているはずです。
そうであるなら、職業として音楽家あるいは音楽系の芸人を名乗る人がいて良いわけであり、そのためには職業として活動する人と趣味人とを分けて良いはずです。
日本は先進国で、しかも1億人以上もいるのですから、「音楽家」と言ったときにクラシックやジャズを弾く演奏家だけではなくていいはずです。
日本より人口の少ないイギリスやドイツは新しい音楽文化に質があります。例えばドイツはダンスミュージックに強く、テクノは立派な文化として存在しています。
ところが、日本の現代音楽家として認めらているのは、せいぜいメジャーデビューするとか、メディアで「有名」になった人ぐらいではないでしょうか。

知識不足かもしれませんが、いわゆる無名の日本人の中で、ライブ経験が多いからといって、それのみで音楽家として成功している人を知りません。
一方で、アメリカという日本よりよっぽど音楽文化があり、ライブ出演システムが健全に機能している土地では、ライブで生計を立てている人はいます。有名にはなっていないですが、それでも職業として成功していると言えるはずです。

ところが、日本のライブハウスなどの本来、地域の音楽好きが集まる場所は、職業を作ろうとか、音楽文化を作ろうという気持ちが全く無いのです。
これまで説明してきたように、質などの選別は無く、優劣は決めず「みんなで楽しく」がモットーなのです。

あるところでは「地域オススメアーティストが登場」と宣伝しながら、ソロ歌手の出演は禁止にして生演奏付きの出演に限定していました。しかし、そもそも、日本の音楽文化は全体的に枯渇しているのですから、オススメできるようなアーティストなどそういないはずです。にもかかわらず、このような制限をかけています。
その一方で、誰でも出れる催しばかり開いて、「音楽好き」という本当の客ではなく、出演料を払う出演者や音を出したい趣味人を客をしているのです。これでは、楽器持ち込み可能で大きい音が出せるカラオケルームと大差がありません。しかし、これが多くのライブハウスに共通する現状です。
地域の才能を掬い上げたり、発掘をする場として機能していないのです。

未来

これを脱するには、ライブハウスのような場を音楽好きが立ち寄りたくなる場所にしなくてはいけません。そのためには、主催側が出演者あるいは楽曲の良し悪しや種類を、ノルマという数字ではなく、自らの感性で選別して、魅力ある催しを作らなければなりません。
適切な音楽好きが集まる場所になれば、出演する側も無料でも良いから出たいと思うでしょう。発表や宣伝の場がないから路上ライブしている人がいるのです。
選ばれて出演できることが価値になれば、競争心が生まれ、自ずと作り手が作る作品の質も上がるはずです。なにより、選ばれる人は職業として音楽活動ができるようになります。
また、選別者の感性も聴き手に判断される必要があります。それはセレクトショップのような店、あるいは飲食店のように自分のセンス・感性を売るということです。自分の美学を持ち、それで勝負するのです。
経営者自身が選別できなければ、選別者は別に居ても良いです。場合によっては客による投票を取り入れても良いかもしれません。
現実的に今すぐノルマ制を完全に無くすことが難しければ、部分的に試行していくのも良いと思います。

ただし、ライブハウスの選別の質を信用して音楽好きが集まるようになるまでには時間がかかるかもしれません。
なぜなら日本には、自分なりの美学を持ち、作品を作るという作り手が少ないため、選別できるだけの質のある人や作品がなく、日本にいる「本当の音楽好き」が日本人を信用する状況にはなっていないからです。

投稿:マサアキ


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