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選別者不在 その3「ネットラジオ等」

音楽が発信されていく場として、レーベル、ラジオ、雑誌系メディア、音楽配信サービス、コンテスト、ライブハウスがありますが、結局のところ、日本にはどこにも純粋な選別者がいるようには思えません。
広告料や出演料を払う人が選ばれるとか、関わるなら仲間として活動しなければならない、というような見返りが求められる場合がほとんどだからです。
しかも多くの場合、高い知名度が与えられる機会は、メディア勢力の仲間として吸収される仕組みになっています。

ですから結局のところ、場が色々あるようで実際は、現代音楽に特化した真面目な音楽好きが集まるところなど、どこにもないのです。
ライブハウスが潰れる理由も、日本人による音楽文化が脆弱であるからであり、ライブハウスは存在していても、音楽文化は存在していないからです。

ネットラジオ


たとえ最近の主流洋楽がつまらなくても、欧米には依然として日本より充実した音楽文化がある理由は、選別者が数多く存在しているからです。
厳密に、質の高い選別者が多いかどうかは別としても、自分の好みに正直であり、音楽に探究心があるという選別者として基本的な条件を満たす音楽好きが欧米には多くいます。

それがわかる一つの指標として、ネットラジオ局の存在があります。
欧米の音楽文化が豊かな様子は、ラジオ局が多くあることからも伝わってきます。

生憎、ネットラジオとて押し売りをする宣伝者の介入がある場合があるため、必ずしも純粋な選別のみがされているとは限らないのですが、それでも、日本の音楽文化の状況と比べると、海外のネットラジオ局には音楽好きがいると感じさせます。
あるラジオ局には、原文は英語ですが、「あなたのような愛好家のために手作業で選びました」と書かれているところがあります。つまり、大雑把なジャンル分けやA.Iでテキトウに楽曲を選曲するのではなくて、人間が1曲づつ選別しているということです。
これは質のあるラジオ局では普通のことですが、要するに選別者がいるとはそういうことです。
実際にそういうラジオ局では、曲目が頻繁に入れ替わっていますし、チャンネル分けにもこだわりがあるので、選別者が存在する場として私は信用しています。

ネットラジオ不在

ネットラジオを通じて、ドイツやロシアのような欧州圏だけではなく、トルコなどのイスラム・中東圏などの素晴らしい音楽も伝わってきます。
一方で日本の状況はどうでしょうか。
どうやら、日本発で日本人による日本人向けの日本の音楽を集めた世界標準で簡単に聴けるネットラジオ局というものが、一つも無いようなのです。
日本の音楽を流すラジオ局はあるのですが、それらはおそらく外国人が外国から運営しているものです。
しかも残念なことに、ジャンル分けに「ボカロ」のような音楽ジャンルとは呼び難いものがあるなど、音楽好きを魅了するものというより「日本に興味がある人向け」であったりします。
その他にも、日本古典音楽が紹介されていても、明らかに正統な伝統的でないものが紹介されていたりします。
しかし、これら外国人が運営してくれているラジオ局というのは、現代日本人のやる気や日本の音楽文化の状況がほとんどそのまま表れているだけなので、彼らのせいではありません。

楽曲主体・キャラクター主体

洋楽が豊かで、ラジオ内外にDJという存在が出現できた理由は、欧米人が音楽を楽曲主体で捉えてきたからです。あくまで楽曲中心であるから、音楽文化が豊かになったわけです。
ところが日本の風潮は楽曲主体ではなく、アイドル文化に見られるように、作り手のキャラクター主体で音楽を捉えられていることが多いため、純粋な音楽文化が乏しいのです。
そしてこれは、最近の主流洋楽がつまらなくなっている理由でもあります。

音楽活動を始めた人に向けて、どのように活動したら良いかを紹介する人がいます。
その中でよく言われていることは「ファンを作れ」ということです。具体的には、常に情報発信して人に追わせたり、ファンクラブを作るべきだ、というような内容です。

しかしこれは、最近流行りのいわゆる「推し活」を促すもので、要するに「誰が」という人物を追わせるものであり、「何が」という作品自体に目を向ける提案ではないのです。
つまり、自分をキャラクターとして売れという提案ですが、例えばこれがバンドだとすると、無理がある話だと思っています。大体、作曲者や演奏者に面白いキャラクターを期待することはできません。
彼らは自分の仕事をしていれば良いのであり、キャラクターでどうこうする必要はないのです。
実際に演奏者のキャラクターが面白いバンドを一つも知りませんし、そもそもそんなことに期待したことがありません。
私は音楽好きですから、楽曲が重要であり、作者の本名やどんな顔だとか知らない場合が多くあります。ましてや作り手や演者の私生活など興味がありません。

もしキャラクターで売るというなら、キャラクターが面白い人を集めてバンドをやれば良いのでしょうが、その場合は楽曲の質に期待できるとは思えません。
それに近いことをやろうとしたのがアイドルグループでしょうが、残念ながら私には良さがわかりません。どのグループも似たような人の集まりで、キャラクターとしての魅力が感じられないからです。

日本のアイドル文化は「音楽系な文化」かもしれませんが、純粋な音楽文化とは言い難いです。
アイドル文化というのは、多くの洋楽のように基本、楽曲だけで成り立つ音楽文化ではなく、接客業・サービス業のような、人が中心のエンタメだからです。
にもかかわらず、日本社会ではあたかも正統な音楽文化であるかのように音楽を扱う場面での存在感が大きいため、純粋な音楽文化の存在がはっきりしてこないのです。

しかも、アイドルグループ以外の作り手も、「誰が」というブランド名を先行させるようなアイドル的な売り方だったりするため、真面目な音楽文化が見えてこないのです。 

DJ

録音というものができるようになり、多くの人がコンピューターを使って曲を作ることができるようになった現代は、楽曲音源という「音の作品」を扱うことができるようになり、演奏を伴わない作品が多数出現するようになりました。
「DJ」という存在は、そういった音の作品を扱うことができる、現代だからこそ生まれた存在であると共に、洋楽が成功している証でもあります。

DJは、必ずしも演奏を必要としない楽曲を含めた「音の作品」を探し、選び、曲目を作って演出をし、他の人に紹介する選別者であり企画者です。
そして、彼らDJがいるからこそ成立すると言ってもいいジャンルもあります。
それは主にダンス・ミュージックですが、ほとんどの場合、「誰が作ったか」という作り手単位ではなく、単曲でDJに選ばれることにより生きる音楽です。
つまり、DJの存在は、そうした音の作品を作る作り手にとって無くてはならない存在なのです。

洋楽の成功は、音の作品として成功しているからとも言う事ができ、それはDJが職業として成立していることによって証明されています。
クラブ、パーティー系のDJにしても、ラジオDJにしても、洋楽が音の作品として成功しているから存在しています。

日本でもDJが存在できる理由も、「洋楽」が音の作品として成功しているからです。
逆に、日本人による楽曲「邦楽」だけではおそらく成り立ちません。
これは、日本人の音楽好きが一番よくわかっていることです。
例えば、日本のファストフード店では洋楽をBGMとして流す一方、定期的にメディア勢力の邦楽宣伝コーナーを挟んだりします。
これはどういうことかと言うと、洋楽に関しては進んで係の音楽好きが選曲をする一方、邦楽は無理やり宣伝して大衆を洗脳をしないと売れないと思っているということです。
つまり、純粋に選曲ができない邦楽にはDJなど存在しないのです。

優れたDJは、自分で曲を発掘し、自らが世界観を演出できる人です。
金を貰って曲を流すDJなど宣伝者でしかありません。また「流行りの曲」しかかけれない人も多大な宣伝に便乗しているだけの宣伝者です。

現代日本の音楽文化の無さは、この「DJが存在できない」「DJが存在しない」ことにも表れています。つまり、「選別者」不在なのです。

種類分け

ここで明確にしておきたいのですが、ここでいう「洋楽」とか「欧米人の現代音楽」はさほど広い意味ではありません。クラシックやジャズのように古典的で、譜面上のことにこだわっている音楽のことではなく、ロック、メタル、ヒップホップ、ドラムンベース、ダブステップ、ハウス、テクノのような主に「音の作品」として開拓されてきた現代の音楽のことです。

その上で、欧米の現代音楽は種類が豊富です。
これは、欧米人の音の作品に対する強い探究心に起因していて、彼らの「新しいモノを発明したがる気持ち」とも共通しています。
ジャンル、特にサブジャンルの多さは、ほとんどの日本人には理解することができないほどで、私ですら区別が多すぎると思うほどです。
ですが、この新しいことに興味を持ち、挑戦しようとする文化こそが、私が音楽に興味を持った理由です。

彼らは自分の好みや興味に正直であり、「こだわり」が強いです。
種類の多さは人々のこだわりの多さでもあり、「職人のこだわり」のように、こだわりがあるから文化が豊かになります。
人の数だけ好みがあり、それに合うように様々な試みがされるということは贅沢なことです。反対に、選択肢が無いということは貧しいことです。

ラジオやフェスやレーベルがジャンルごとに分けられる理由も、彼らのこだわりの強さから来ています。
しかも決まりきったジャンルに固執せず、例えば、ラジオ局によっては必要に応じて独自の分け方をして新しくチャンネルを設ける場合もあります。

一方で、多くの日本人にはこの視点が欠如していて、概念分けがなかったり「こだわり」が無い傾向にあります。
実際に、日本の音楽フェスはジャンルごちゃ混ぜです。
観客も欧米人のような音楽好きとして、探究心やこだわりを持っているわけではなく、「テレビで流行っているものならいい」と思っているような人がほとんどです。

もちろん、あまりに細かなジャンル分けは弊害にもなり、それが昨今の洋楽が行き詰まっている一つの理由にもなっているように思えますが、日本の状況というのは、欧米人の音楽文化に比べると、種類・概念の区別がなさすぎるのです。
種類を分ける必要はないと言うなら、スーパーでは全ての「食品」を山積みにしておけばいいわけですし、「和食」「洋食」などの食文化の理解や概念の区別も必要なく、食事は全て闇鍋でいいわけです。

欧米の作り手が追求していることは、音の作品に対する探究心であるとともに、美の追求でもあります。
作品を作るということは形を作り、整えるということです。残飯は形を成しませんが、元々の野菜などには形があり、自然が生み出した美があります。人が住む空間もごちゃごちゃとした様子より、整頓されている方が美しいと感じます。

つまり、こだわりにより様々な形態を開拓すると共に種類を分けることは、彼らの美的感覚によるものであり、作り手、選別者共に気にしていることなのです。

美学をはっきりさせず、テーマや概念を区別せず、ごちゃ混ぜにしてしまうことは、現代日本に蔓延っている特徴で、景観がごちゃごちゃしているということにも表れています。

純度

音の作品や美に対する探究心に加えて、作品の「純度」が洋楽が成功した理由です。
欧米人は「本物であること」を評価基準として気にします。彼らは、コピーバンドに近い独自性に乏しい者を評価せず、個性がある人や独自の視点を持つ人を評価します。

「洋楽」が成功した言っても、多くは「英語歌曲」であり、歌曲の成功が洋楽を豊かにしています。

当然のことながら、普段、英語を話す英米人アーティストは、英語で歌詞を書きます。それが彼らの本来の姿だからです。
楽曲の中の世界観や文脈に合わせて、フランス語やスペイン語の単語をわざと入れることは稀にあっても、関係の遠い中国語やロシア語を訳もなく入れることは普通ありません。
洋楽の世界では、スウェーデン人などが英語で歌うことがありますが、それがある程度許容されるのは彼らが英語をわざわざ勉強しなくても自然と英語を話せるからです。日本人のように地理的にも文化的にも遠い人が苦労して英語を使うこととは訳が違います。

スペイン語はアメリカでも使われますが、世界的に成功したのは「英語の歌」です。この成功は、英米人が「音の作品」であるとともに「言葉の作品」として英語が持つ構造や文化的な特徴の中で良いものを作ろうとしてきた結果です。
もちろん、英語歌曲が成功した理由はグローバリズム勢力の金と力による宣伝の側面も大きく、必ずしも良質とは言えない場合もありますが、英語に憧れ続ける日本人の歌曲文化の開拓のされ具合と比較すると、よっぽど純度があり充実していると感じます。

日本人の間では、英語という外国の言語を題名など部分的にでも曲に取り入れることが当たり前となっていますが、「何の言語を使うか」ということは英米人にとっては問題ですらありません。
日本人が「英語能力があるかどうか」という作品作りとは関係のない問題を持つことから始まる一方、英米人はごく自然に英語を使い、ごく自然に純度のある作品を作ります。

そして、純度があることが質を持たせ、様々なことを可能にさせます。質があるから評価され、選ばれ、世界規模でも親しまれます。

根本的な問題

名作は評価できるものであり、まともに評価することができない現代日本の歌曲には名作がありません。
基本的な純度が欠如している限り、日本人の中に名作が生まれることは無く、伝統が伴う質の高い文化が生まれることは無いです。
少なくとも、英米人の音楽文化ほど純度のあるものにはなりません。

この「日本語にこだわる」という基本的な純度が欠けていることが、日本の音楽文化が乏しい根本的な原因です。

本来、DJにしろ、作り手の集まりにしろ、音楽の種類の括り方は、「音の作品」として特定の美学や価値観というこだわりに基づくものです。
ところが日本では、肝心な音の作品に対するこだわりに到達出来ず、作り手や音楽好きがうまくまとまれていません。
実際に、インディーズレーベルや音楽サークルなど、とりあえず「集まり」があるかもしれませんが、洋楽同等の質がある集まりというものはありません。

この理由は、日本語という基本的な「共通の軸」であり「こだわり」が欠如しているためであり、故に評価が出来ず、選ぶことも出来ず、尊敬も伝統も無いのです。結局のところ、日本人が尊んでいるのは、英語だからです。

そのため、地域にしろネットにしろ、集まりがあったとしても、外国文化愛好家かテレビが好きなJPOP好きの集まりのどちらかしかありません。
世界標準の探究心と質を求める「日本人の音楽文化」を作りたい人の集まりはどこにも無いのです。

作り手が本来持ちたいのは、音の作品へのこだわりや質です。
そして「こだわり」は自分の個性から来ます。
ところが、英語に憧れつづけるというのは、日本人として生まれてきた自分の個性を否定するようなものです。

文化は精神活動であり、日本の音楽文化の状況は、様々な面において、欧米と同等ではなく歪んでいます。
多くの日本人の作り手が自分自身を否定している状態ですから、歪むに決まっています。
顔を隠して活動する昨今の風潮を見て、歪んでいないと言えるでしょうか。

ですから、この「基本的な純度を無視する」という心持ちは、単なる言葉の問題にとどまらず、根本的に創作や活動の質に影響を及ぼしていることでもあるのです。

本心

洋楽文化が豊かな理由は、音楽好きの本心によって形づくられているからです。
洋楽界には評論をする雑誌系メディアなどが多数あり、職業評論家だけではなく一般の個人でも作品の良し悪しや好き嫌いを語れる場があります。

良くも悪くも面と向かって物をはっきりと言うことができるのは欧米人、特に私が知る限りではアメリカ人の特徴です。
作り手にしろ聴き手にしろ、自分の好みや感じることに正直でいることができるから、本物の文化を作ることができます。

ところが、日本には雑誌系のメディアがあったとしても、本物の評論がありません。あるのは宣伝だけです。それも多くの場合は組織的な宣伝です。
組織としてではなく個人で運営をされているインディーズ系のメディアもありますが、「みんなを取り上げる」というようなスタンスで、本心も種類のこだわりもなかったりします。
人の本心による熱意や本心から生まれる「こだわり」があるから文化が面白くなるのであり、本物の文化になります。
こだわりも本心もない場は音楽好きを惹きつけません。そのために、地域にしろネットしろ「誰でも参加可」「なんでもOK」の場所は、聴き手が不在で、宣伝がしたい作り手のみが集まる状況があるだけになっているのです。

日本人には英米人のような強烈な主張や、毎回細かな点数をつけて評論をするというようなことは向いていないかもしれません。
私自身、メディア勢力に反発する民意を知るためということ以外、人の評論に興味がありませんし、いちいち評論をしたいと思いません。

ですが少なくとも、本物の文化を形作るために必要なものは「本心」であり、そこに嘘や金と力によるヤラセは不要です。
わざわざ悪口を言う必要はないのですが、興味がないものをわざわざ取り上げる必要もないのです。

DJは自分の選曲のセンスで勝負します。そして、センスのあるDJは信用されます。金をもらって宣伝ばかりするDJには選曲センスはありません。
「選別者」とはそういうことであり、信用される選別者がいるから文化は盛り上がります。
ですから、わざわざ細かな評論をしなくても、本心で曲を選ぶDJのような存在がいれば、あるいは集まりがあれば良いのかもしれません。

場が存在するのみ

選別するしない以前に、作り手が活動でき、音楽好きが選別ができる場が乏しいです。
メディア勢力の演出が大きい一方で、音楽好きが集まれる場所が、地域にもネットにもありません。
厳密には存在していても、地域にライブハウスがあっても文化が生まれる場として機能していないように、ネットにも楽曲を発表できる場があっても、人が集まり、文化が循環する状況や仕組みがないのです。

facebookやtwitterという質素なソーシャルメディアが人気になる前の時代はmyspaceという音楽中心のソーシャルメディアが人気でした。無名有名問わず作り手が自作楽曲を上げて活動できる場で、聴き手が曲をプレイリストに追加したりページをデザインするなど機能があり、生きた文化がありました。単なる交流の場ではなく、人々が直接、選別者となり曲を選ぶという仕組みは循環を生み出しました。

作り手が楽曲を上げることができる大手サイトは、日本では現在2つありますが、いずれも機能していません。機能していない大きな理由は、音楽が作り手と聴き手の間で循環するような仕組みがないなど、アクティブさがないことにあると思われます。
それ以前に、普通に作り手を探すことが難しい仕組みになっています。これだけA.Iが発展していると言われている時代なら検索機能ぐらいつけれるはずですが、探しにくいようになっているのです。2つのうちの1つはメディア勢力が企画したもので、草の根の発展を望んでいない様子がひしひしと伝わってきます。
この状況は海外においてもほとんど同じであり、世界規模で使われているbandcampですら、探しにくいようになっています。

最近は会員制のストリーミングサービスがあるから良いと思われるかもしれませんが、これもメディア勢力の介入が強く、音楽好きでもなんでもないメディア勢力の宣伝があるばかりです。
実際に、日本人に聴かれている人気曲はテレビで流行っている曲と同じで、何の意味もありません。無名が活動を展開できる場にはなっていないのです。
そのため、様々な国で危険だと言われている中国製のアプリに頼るなどの的はずれな活動をしなければいけないと思っている作り手が数多くいる状況が、日本だけでなく世界的にあるのです。

草の根の停滞

コロナ騒動が始まってからだったと思いますが、世界のネットラジオ局をまとめるサイトで、それまで聴いていた多くの非英語圏の局(音楽系)が聴けなくなりました。
どういう基準かはわかりませんが、登録されていた局が大幅に減り、代わりにそのサイトが公式に企画するハリウッドセレブの番組の宣伝が目立つようになりました。

要するにメディア勢力・権力者の意図と言っていいのでしょうが、こういう情報の遮断といい、言論弾圧といい、「三密、集まるな」といい、人々の意思の疎通や交流や文化の循環がされることを望んでいないことが、惜しみなく伝わってきます。

あるアメリカの科学者が、最近は発明が乏しいと言っていました。
情報が遮断され権力がすべてをコントロールする昨今の状況が草の根からの発展を妨害している、というような指摘をする際にそう言っていましたが、私も音楽方面だけを見ても同じことを思いました。

発明や発展が乏しいと感じる理由は、一人の音楽好きとしてそう感じているから、というだけではなく、最近の欧米の若者の様子を見ても、主流メディアが発信しているトレンドより2000年代の曲を聴いている人が多いという印象を受けるからです。
これは、いつの時代も一昔前のものが好きな若者がいる、というものではなく、ここ最近のトレンドの中に名曲と言えるものが存在せず、聴くものがないからです。
発展が感じられるジャンルは存在しますが、それはごく一部であり、しかも主流には無く、洋楽全体としては停滞しています。

選別段階 

最近は、ソフトを買ったり、人を雇ったりすれば、楽曲作品を完成させることが容易になりました。加えて、販売・流通・宣伝も、実際の拡散力はともかく、とりあえず誰でも出来るようになりました。
ですが、それを可能にさせるのは要するにカネであり、カネがあれば誰でもできるということです。

私が理解している限りでは、かつては、カネがなくても能力がある人を、選別者でもある資金を持つレーベルが雇い、作品を完成させるというのが主流でした。
ところが最近は、その中間の段階がなく、いきなり完成作品を持ち、活動する人が多い状況があります。
制作の段階に他者の選別がなく、カネがあれば、楽曲完成、販売・宣伝ができるということは、粗悪なものでも流通可能になるということです。
特に日本では、完成後も、欧米よりも様々な段階で選別がありません。そのため、多くの作り手が作品を発表できるようになっても、文化が存在しないのです。

また、形態により自分で完成させやすくなったとは言え、楽器の演奏や録音やミックスは本来は専門家が役割分担してやることであり、なんだかんだ言っても上質な作品を完成させるには、人の助けや資金が必要です。
そう考えると、鑑識眼や選別の判断がある、本当の意味で信用できる存在であれば、権威の存在も悪くないように思えます。

しかし、選別者や支援者は、強大な資金力と影響力などを全て同時に持つメディア勢力だけである必要はなく、他の人々であってもいいはずです。
つまり、人々による選別や支援を可能にさせる、音楽に特化した場や機会があってもいいはずです。

自発的な活動

どんなにメディア勢力の影響力が強くても、欧米では依然として、人々による音楽文化があります。
この理由は、自発的に音楽文化を作ろうとする気持ちが強い人が多いからです。 

ネットラジオやレーベルを作ったり、イベントを開催したり、音楽交流サイトを作ったり、大げさであっても新ジャンルを作ろうとしたりと、美学を持って音の作品を探求する音楽仲間が集まっている様子が伝わってきます。
もちろん、彼らも完璧ではなく、彼らも権力者による妨害に苦しんでいるのですが、それでも、日本人が彼らから学べることはあります。

英語という表面的なことを学ぶことが人気になっている昨今の日本ですが、本当に学ぶべきことは、彼らの自発的に文化を作ろうとする姿勢にあるのではないでしょうか。

もっとも、私の望みは、それにとどまらず、日本人の方から彼らに文化作りを提案できるようになってもらうことですが。 

投稿:マサアキ


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