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誤訳の旅/村上春樹訳ジョン・チーヴァーその他

とりあえず村上春樹訳のジョン・チーヴァーはこれで終わり。といっても『巨大なラジオ/泳ぐ人』(新潮社 2018)を読んだだけだが。読みながら気になって確認した箇所を二点、どちらもわりとどうでもいいといえばどうでもいい。

「愛の幾何学」

「愛の幾何学」The Geometry of Love。初出は1966年『サタデー・イブニング・ポスト』掲載。(引用部分の太字強調は引用者、以下同じ)

幾何学はいわば形而上学代わりの役をつとめ、認知された苦痛を認知する上で立派に役立ってくれた。その主要な利点は、いったん「線的領域」に運び込んでしまえば、マティルダの不機嫌や欲求不満に、熱意と思いやりをもって対処できるというところにあった。

「愛の幾何学」
ジョン・チーヴァー著/村上春樹訳『巨大なラジオ/泳ぐ人』新潮社、2018年、p. 251.

Geometry served him beautifully for the metaphysics of understood pain. The principal advantage was that he could regard, once he had put them into linear terms, Mathilda's moods and discontents with ardor and compassion.

 John Cheever, The Stories of John Cheever, Knopf, 1979, p. 597.

この短編は数学とか幾何学のタームがいろいろ使われているのが面白み(?)のひとつではある。linear terms は方程式における線形項もしくは一次項のこと。多少意訳するなら「方程式に取り込んでしまえば」とか「変数として取り込んでしまえば」みたいな感じでしょうか。

  • 一次項 linear term

  • 二次項 quadratic term

  • 三次項 cubic term

  • 四次項 quartic term   etc.

これ自体はそんなに重大な話でもないが、読者の理解を慮った結果であっても特定の意味のある語を小説的造語として処理しちゃうのは微妙。しかも「『線的領域』」ではなんのことか分からないし。あえて曖昧に読み下すなら「直線的に表現してしまえば」とか「数学に落し込んでしまえば」くらいでもいい気はする。

ついでにいうと「認知された苦痛を認知する上で」は for the metaphysics of understood pain か……。まあいいや。

誤訳の味わい度
イースターエッグ度:★☆☆☆☆
深刻度:★★☆☆☆
味わい:★☆☆☆☆
コメント:微妙。

「なぜ私は短編小説を書くのか?」

『巨大なラジオ/泳ぐ人』の最後に収録されてる「なぜ私は短編小説を書くのか?」。初出は1978年『ニューズウィーク』誌のエッセイ "Why I Write Short Stories"。

我が敬愛する同業者たちの書いた短編小説の中に——また私自身の書いた少数のものの中に——旧来の審美性を混乱させるようなものを私は見出す。たとえば夏の貸別荘やら、一夜の情事やら、なくなったキー・リングやらを。我々は遊牧民族ではないけれど、我々の偉大なる国家の精神には、それを匂わせるという以上のものがある。そして短編小説とは、文学における遊牧民のようなものなのだ

「なぜ私は短編小説を書くのか?」
ジョン・チーヴァー著/村上春樹訳『巨大なラジオ/泳ぐ人』新潮社、2018年、p. 359.

In the short stories of my esteemed colleagues—and in a few of my own—I find those rented summer houses, those one-night love affairs and those lost key rings that confound traditional esthetics. We are not a nomadic people, but there is more than a hint of this in the spirit of our great country—and the short story is the literature of the nomad.

John Cheever, Collected Stories and Other Writings, Library of America, 2009, p. 997.

これは意訳の範疇かも。でも話の流れとしてはここは「アメリカ人は遊牧民ではないが、アメリカという国の魂には間違いなく遊牧民的なものが刻まれており、そして短編小説は遊牧民の文学である」、つまり短編小説は我々アメリカ国民の精神の文学といえるものだということですね。だから引用部分のあとにはアメリカ史の断片としての自分の小説世界が放浪者とか孤独をよく知る人に届くことを夢想する、というようなことが書いてある。

村上訳だと「アメリカ国民の遊牧民性」と「文学における短編小説の遊牧民性」が並行関係に読めるけど、原文はどちらかといえば帰属の関係であって原文の方がより強い主張ではないか。

蛇足

訳者も書いているが『巨大なラジオ/泳ぐ人』収録のジョン・チーヴァー作品の中ではやはり「ぼくの弟」Goodbye, My Brother が出色な気がした。関係あるかは分からないが、たぶん本人は弟なんだろうなと思ってバイオグラフィ見たらやはりそうらしい。

あと「治癒」The Cure は家の内外の視線のあれこれ的な話でちょっとカーヴァーの The Idea (村上訳だと「人の考えつくこと」)を思い出す。ウィリアム・アイリッシュの「裏窓」は1942年で、「治癒」は1952年、The Idea は1976年。こういう話についてはいろいろ書かれていそう。そういえばカーヴァーといえば村上訳のカーヴァーもけっこう誤訳はある。

※ 画像出典:
https://lithub.com/mad-men-is-leaving-netflix-time-to-read-john-cheever/

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