誤訳の旅/ジョン・チーヴァー『ああ、夢破れし街よ』:「刮目すべき資産」という訳は可能か
ふたたび村上春樹訳のジョン・チーヴァー。今回は『巨大なラジオ/泳ぐ人』の二作目に収録の「ああ、夢破れし街よ」O City of Broken Dreams から。原著は1948年『ニューヨーカー』掲載。(引用部分の太字強調は引用者)
主人公夫婦と娘が一家三人でNYに向かう電車の中のシーンです。五歳の女の子が古びた毛皮のコートを「刮目すべき資産」のようにさすっている………「刮目すべき資産」とはいったい何か?
この原文を見て「まあ誤訳だろうね」と思った人はこの記事のつづきを読む必要はありません。あとは蛇足です。
「刮目すべき資産」に該当する原文の語句は remarkable properties です。この部分は as if they had の they が何を指すかを考えれば分かりやすいと思います。直前の she stroked them の them も同じですが、素直に読めば the skins of the coat ですね。ということは、この properties は「資産」ではなく「特性」とか「効能」の意味ととるのが自然です。
いちおう property を辞書で確認しておきます:
つまり太線部の大意は「まるでそのコートの毛皮には自分を安心させてくれる素晴しい効用があるかのように(手でさすっていた)」と解釈するのが自然、なはずです。村上訳を一部借りると「まるでそのコートの毛皮には『大丈夫だよ、何も心配することはないからね』と言い聞かせてくれる素晴しい効用があるかのように。」という感じでしょうか。
村上訳について考えてみると、女の子は「それ」つまりコート or 毛皮が「資産」であるかのように手でさすっていた、という解釈ですので整合的に読解すれば they はコートを資産として所有する立場にある主体ということになります。ということは they はこの一家のことでしょうか。これは不必要にアクロバチックな解釈のような気がします。究極的には語釈が変でも原文に沿った文章として成立してればいい気もするのですが、「刮目すべき資産」はその点でどうでしょうかね。
ちなみにこの女の子のコートのモチーフは小説の終わり近くにもう一回出てきます。今度はNYからシカゴへ向かう車中です:
つまりそのコートにはやはりそんなふうに女の子(ミルドレッド・ローズ)を安心させる効力 properties がある……ということだと思うんですけどね。
ついでにいうと、個人的な感覚として stroke は「ごしごしとこすり」よりはもう少しソフトなのでは、という気もします。擦り切れた毛皮とはいえ、居眠りしている女の子が自分を安心させようと stroke してるわけですから。
※ 画像出典:
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manhattan_fra_Central_Park_-_DEX_FB_0061.jpg