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日本語が聞こえないとほっとする。ひとりぼっちになりに海外へ。

私が海外の空港に降り立ったとき、
1番の感情は「ほっとする」
だ。
気持ちというより、もっと身体的な感覚にも近い。
それは、ありのまま、に近いのかもしれない。
いや、日本にいる時は常に偽っていると言いたいわけではない。
でも外にでると肩の力が抜けるのは事実なのだ。

以前の記事で、空港に着いたら強い女スイッチを入れるとも書いたが、この2つは私の中で矛盾しない。

はじめに言っておくと、私は外国語がたいして話せるわけではない。
海外、特に途上国では、多少話せれば「話せるよ!」と自信満々に言うので(もちろん本当にぺらぺらな人もいる)、その基準でいえば英語はそれなりに話せる。
日本基準では、全然話せるといえるレベルではない。
なので滞在中は、もちろん日本にいるよりも格段に不便だ。

それでも、ほっとする。
自分のその感情を紐解いてみるに、普段日本で生活している時にはよほど精神的に外圧を感じて生きているらしい。
明文化されているものはいい。
法律や会社の規定も含め、そういうものだと受け入れるだけだ。
ただ、暗黙の了解でこういう振る舞いをすべきだ、みたいなものは難しい。
基準もはっきりしないし人にもよるくせに非国民みたいな目で見られることだってある。
社会にでて、それまで以上に息苦しさを感じる場面がでてきた。

旅行をしている時は、私はただの旅行者だ。
ただ流れ去っていくだけの人。
だからこそ、誰からも注意を払われない心地よさがある。
どの肩書きもなくなり、
娘でもなく、友達でもなく、恋人でもなく、会社員でもなく、そこのコミュニティの構成員でもなく、ただの私。

周りから日本語が消え、外国語たちしか耳に入ってこないと、それはもはやただのホワイトノイズになる。
ある意味バーチャル空間で1人になっているイメージに近いかもしれない。
それが心底心安らぐのだ。
もちろん異文化の刺激を受けたいときには、閉じていた自分を開いて感受性を爆発させればいい。

見知らぬ街で自分が孤独だと気づくことは、世界で最も大きな喜びの一つである。
quite alone in a strange town is one of the pleasantest sensations in the world.

フレヤ・スターク(イギリスの冒険家)

これは私がとても共感できる名言。
この孤独が心地よいから、私は海外旅行が好きなのだ。
国内旅行とはまるっきり求めているものが違う。
私は私を取り戻しに、見つめるために、1人になるために海外に行っている。

でも考えてみたら、だから英語が上達しないのかも。
今まであまり本気になって語学力をあげようとしてこなかった。
アドラーは、現実というのは自分が望んでいる通りになるという
英語や他の言語が日本語レベルで聞き取れるようになってしまったら、私の楽園は地球上から消えてなくなってしまう。
きっと潜在意識さんが気づいてくれたおかげでストッパーになっていたんだろう。
潜在意識さん、ありがとう!


今日は毎日投稿35日目でした。

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