おすすめの映画「JOKER FOLIE A DEUX」
皆さんには、等身大の自分と社会で求められる自分との間でギャップを感じることがあるでしょうか?
もしくは、ある対象へ必要以上の幻想を抱いたことがあるでしょうか?
本日から公開されている「JOKER FOLIE A DEUX」の中で、僕は上記の問題について考えさせられました。
ネタバレしないように書くと、この映画はある表現で映画が始まります。それに対して、驚く方もいると思います。でも、何故この表現をわざわざ使ったのか。僕らの頭に強烈にこの冒頭シーンは残ります。映画が終わった時、あの冒頭シーンを思い出す方も多いのではないでしょうか?
【ここからはネタバレ全開で書きます】
まず、観終わって感じたことは、「アーサーのアイデンティティは影であるジョーカーによって殺されたんだな。そして、誰もアーサーを見てくれてなかったんだな」ということです。
ゴッサムシティで広がったジョーカー旋風。
それは、この映画のタイトルのように狂気が共有されてしまったんだと思います。
みんなが求めるジョーカーが肥大してしまい、オープニングのアニメのように彼を窮地に追いやります。
アーサーはジョーカーを引き受け続ければきっと、彼を愛する人はリーを始め、沢山いたでしょう?
でも、アーサーはどうでしょう?
母でさえ、果たして彼を本当に愛していたのでしょうか?
幻想の中でしかなかった愛。
リーがいちいちジョーカーのメイクを彼にさせることも最後までみるととても悲しい気分になります。
矢印が向くのはアーサーに対してではなく、ジョーカーに対して。
ただ、アーサーが幻想を抱くように、他の人もジョーカーに幻想をいだきます。それが最後に彼の命を奪ってしまうことになるとは。
ジョーカーから降りること、等身大のアーサーで生きられていたら、彼は上手く行っていたのでしょうか?
残念ながらあの映画の世界にあるどうしょうもない行き止まり感は、返られそうにない気もしています。
映画を観ながら思ったのが、映画の外のことです。
2019年のジョーカー公開から、世界ではインプレッションビジネスとして共感からフォロワーを増やし、時にはフォロワーたちを使って差別や暴力を加速させる人間が増えてきました。日本国内でも心が弱い人たちがそういう人間にひっかかって、差別やヘイトを拡散していました。そんなことをしても、その人たちの世界は変わらないのに、過大な幻想を抱いてしまうのでしょう。この映画に出てきたジョーカーの信仰者たちのように。
もし、アーサーを誰かが愛していれば?
音楽を救っていれば?
観終えたあと、どうすればよかったのか?
ずっと考えて、1駅分歩いてしまいました。
おそらく、この映画は「JOKER」1作目が好きな方からしたら、不愉快な作品かも知れません。でも、ふと、「現実に戻れよ。お前はJOKERじゃないよ。もし、なったらこうなるよ」という答え合わせを見せられているようでした。
非常に賛否がわかれそうな1作ですが、ふと等身大の自分を愛してくれる人たちの顔を数えながら、今夜は眠りたいと思います。