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君はカメレオンを知らない(No.26)


友人「おびゆきってカメレオンみたいだよね」


おびゆき「なんだよそれーー」


友人「だって色んな人と仲良くできるじゃん」


おびゆき「そういうことね!」





この時の友人はおそらく本心で褒め言葉として言ってくれたのだろうと数年経った今では思っている。


ただ、どうにも当時の僕は人によってころころ態度や言動を変える変色人間の例えとして受け取っていたことを鮮明に覚えてて。


まさにイメージ通りで、環境によってカメレオンって体色を変えるじゃないですか。(当時はひねくれていたのだと改めて実感)




実際、僕は


・本当はこの人は違うこと思ってるんじゃないか?
・こんなこと言って機嫌悪くしたらどうしよう?
・好かれたいから出来るだけ相手の意見に共感しよう
・相手が楽しんでくれるなら、イジられキャラも多少不都合なことも本当に無理な範囲は除いて受け入れよう



などなど相手の顔色を伺うことは多々あり、事実ではあったのでそういう経験則を踏まえてそのようにネガティブに捉えていた。


そんなわけでカメレオンという言葉は僕の中で媚びを売ることの代名詞のように感じていてあまり良い気がしなかったのだろう。





数年経った今、カメレオンについてふと考えてみたけどどうだろうか?



今は違う捉え方を僕はしているんだよね。




まず一つとして、物事を良い悪いの二分類で見なくなったことが大きい。


分からないこと=不安という世界線でしか当時は生きていなかったので、当然世界をわかりやすく捉える方法として、善悪みたいな二つの分類で物事を判断した方が分類しやすいし、なによりわかりやすかった。


カメレオンにおいても、良い悪いの判断でその中間のグレーで分類はしなかった。


捉え方はシンプルな分、中間が存在しないので考えが一辺倒になりやすいし、思い込みも当然強くなる。


その過程を辿る中でカメレオンについてのネガティブな要素を数珠のように繋げて、悪いものだと認識していたのだというのが僕の分析。


今はといえば人は社会的な生き物で、身を置く場所ごとに何かの役割や意味付けが行われているんだから、むしろカメレオンの特性を持ち合わせているんじゃない?と考えている。


カメレオンだって色は変わっても、存在そのものが変わる訳ではない。

人だって、役割が変わったとしてもあなた自身が変わる訳ではないから。



そこから、役割が無数にあるんなら価値観としても二分類として仕分けすること自体が不可能ではないか?
と思い始めてからグレーゾーンの存在を認識できるようになったのかなー。




二つ目は、お陰様でを意識できるようになったこと。


そもそもカメレオンは周りに合わせて色を変化される生き物。


だとしたら、周りが何もないカメレオンだけが目立つ場所だったらどうなのか?


当然周りに染まることなく、カメレオンだけが目立つと思うんだよね。


周りに色があるから、カメレオンも色を変えて身を守ったり、餌を確保できたりするんじゃないかなって。


だとしたら、周りに活かして(生かされてじゃない所がポイント)もらってるなと。




さっきの続きにはなるけど、社会での沢山の役割があるからこそ少しずつ自分の存在意義というか、自分とはを定義していけると思う。


周りに何もなければ比較対象もないし、何よりその辺から勝手に意味や存在が湧き出てくるってこともないからね。



周りのお陰で自分が存在できる



心に留めておきたいと思った。



マルティン・ブーバーという対話の哲学者も


関係は相互的である。わたしは、わたしと向い合っている〈なんじ〉に影響し、また、〈なんじ〉もわたしに影響を及ぼす、、、

「我と汝」p30より


凄い人が言ってるから正しいとは限らないけど、参加までに!




改めて。


僕はカメレオンを少しも知らなかったのかもしれない。

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