頭痛と選択の経済学
今、私は頭が痛い。いや、正確には鼻だろうか。私は副鼻腔炎持ちなので、天気の変化や軽い疲れさえも、すぐに鼻の奥に鈍い痛みを引き起こす。そして、それを放置すると、痛みはじわじわと広がり、こめかみから頭全体を覆う。こうなると、もう単なる鼻の痛みとは呼べない。広義の頭痛だ。
この痛みは、ある種の「強制的な中断」を生活にもたらす。仕事中のひらめきが途切れたり、家事が滞ったりすることも珍しくない。私の時間とエネルギーは、一気に「痛みをどうにかすること」へと引き寄せられる。経済学で言うところの「希少性の原則」がここに顔を覗かせる。私たちが持つ限られた資源(時間・体力・集中力)は、何かを選べば必ず他を諦める形で配分されるのだ。
例えば、頭痛が酷いとき、私はしばしば休むか薬を飲むかの選択を迫られる。どちらも頭痛を軽減する手段だが、その背後には必ず失うものがある。休むことで失われる仕事の時間や薬にかかる費用。それらは、経済学で「機会費用」と呼ばれる概念そのものだ。この「失われるもの」を意識するたびに、自分が選んだ行動の価値を見直すことになる。
さらに面白いのは、頭痛が治まった後の感覚だ。最初の痛みから解放された瞬間は、心から「生き返った!」と感じる。しかし、その安堵感は時間が経つにつれ薄れていく。痛みが完全に消えた後は、またいつもの日常へと戻り、特別な感動も次第に消えていく。この現象は、経済学でいう「限界効用逓減の法則」とよく似ている。つまり、最初の一杯目の水が最も美味しいように、痛みが消えた瞬間の安堵感が最も大きいのだ。
ここまでを一歩引いて眺めると、この頭痛という日常の小さな出来事も、私たちの選択や影響力を測る良い指標となることに気づく。慢性的な頭痛を抱える人が多い社会では、生産性の低下や医療費の増大といった問題が起きるだろう。これらは個人の問題を超え、社会全体の経済に波及する。
こうして考えると、私の鼻や頭の痛みは単なる不快感ではなく、人生の中で避けて通れない「選択の縮図」なのかもしれない。次回この痛みに向き合うときは、ただの苦しみとしてではなく、「日常の中の経済学的な冒険」として捉えてみようと思う。それが、痛みと共に生きる新たなヒントになるかもしれない。