【小説】鷟羅美留 - 山笠美紀乃【ローファンタジー】
- 序 -
サクラビト。
人の形をした、人ならざるもの。
- 本篇 -
私は「優秀」だった。
私は「完璧」だった。
私は「最良」だった。
だった、筈だろう?
なぜ、私の髪は灰色に煙った?
なぜ、私の肌は薄汚く濁った?
なぜ、私の服は擦り切れ臭っている?
知っている。だがどうでも良いことだ。今はもう。
総て、凡て、どうでも良いことなのだ。
もう、私には。
美麗な音がする。
シャラリ、シャラリという、軽く薄い金属同士が触れあって出す、美しい音がする。
目を開けた。随分と美しい光景があった。
桜の花弁が風に踊るその中を、美しいものたちが歩いていた。
サクラビトだ。
比喩でも何でもなく、雪白い肌を白昼に光らせ、淡い桜色の髪を風に流し、桜の花弁で仕立てられた装束をひらめかせながら、悠々と私の前を歩いている。
桜舞う公園のベンチで、目覚めた私は彼らをただただ眺めていた。
時節は春。サクラビトの季節だった。
サクラビト。
人の形をした、人ならざるもの。
神とも霊とも言われている彼らは、桜が咲くときに姿を現し、その下を複数体で練り歩く。彼らが来ると二分咲きの桜でも満開に変わるため、桜を咲かせるためにやってくるのだと言う者もいる。
ただ、彼らに関する情報の殆どが、ただの憶測や逸話だ。
少なくとも千五百年前から、彼らの記述は様々な史料に見られている。しかし、分かっていることはあまりに少ない。彼らに触れることや調べることが、昔から禁忌として伝わっているからだ。
見た目は人間だが、金色の目には瞳孔が見えない。付いている口も、口角を上げることはあっても、何かを食べることや言葉を紡ぐことはしない。身体は淡く光り、時折ふわりと浮かび上がる。
また、桜が咲いている時期に現れることは分かっているが、その他の期間一体何処にいるのか、どうやって生活をしているのかは誰も知らない。
そもそも、何故現れるのかも分かっていないのだ。
そのためか、昔から日本を守ってきた神だとか、桜の魂が具現化した存在だとか、その美しさに狂った芸術家がいたとか、本当は私たちをおびき寄せて食ってしまうのだとか、死人の魂を運ぶ存在だとか、ありもしないような憶測が飛び交っている。
シャラリ、シャラリ、ゆっくりと歩く彼らが、私の目の前を通り過ぎ、向こうの方へと歩き去って行く。ぼんやりとした彼らの淡い光を見送っていると、唐突に、逆方向から声がした。
「ああ。あんた、危なかったな」
「……」
それが自分に対する声かけだと気が付くのに、暫く時間が掛かった。
ゆっくりと首を動かして振り返れば、焦ったような顔をした老人がそこにいる。
「確かにここには桜が咲いているけど……今までは道が一つズレてたのになあ。通り道が変わったのかねえ。ま、神様の意志はオレたちにはどうしようもねえから仕方ねえけど。それにしてもあんた、連れ去られなくて良かったなあ」
頼んでもいないのに話しかけてくる老人は、サクラビトの逸話の一つを信じているようだった。
曰く、美しすぎる彼らに触れた者は、その魂を何処かに連れ去られてしまうのだと。平安の世から言い伝えられている、よくある昔話だ。
「……そちらの心配ですか」
「……ええ?」
何を言っているか分からない、とでも言うように老人が呆ける。私の口は、自然と頭の中にある条文を読み上げていた。
「『サクラビトニ触レルベカラズ。』彼らは国の指定隔離神仏ですよ。下手に干渉したら問答無用で牢屋行きです」
私はとくにそう言った逸話を信じていない。そんなものよりも、法に触れ罰せられるという事実のほうが重要だろうに。
「まあ、うん。確かになあ……」
話しかけてきた老人は、面食らったようにしばらく黙っていたが、ふと私の体に視線を向けると、またしゃべり出した。
「それにしてもあんた、酷い格好だね」
「……家をなくしたもので」
離れていかないのか。そう思いながらも、最低限の受け答えを済ませる。
「ああ。イエナシの人だったか。生活保護は受けてないのかい?」
「……」
お節介なおじいさんだ。私が何をしていようと、あなたには無関係だろうに。
理解できない。理解できない。この老人も私の忌み嫌う劣等者だろう。わざわざ会話をする気にもならない。さっさと終わらせて、静かなところに移動しよう。
「お気遣い有り難う御座います。行ってみます」
「おお。そうか。その……いや、上手くいくと良いな」
「……」
最後は会釈をして、駅の方向に歩き出す。
公園から見えなくなったところで、方向を変える。
さて、計画を立てよう。
綿密である必要はないが、場所や時間は選ばねばなるまい。
時間は夜が良い。人に見つかることはないだろうから。
場所はどうしようか。誰も来ないような、それでいてやりやすい場所が良い。
ああ、そうだ。あそこがいい。
折角なら、満開の桜の下にしよう。
夜十時。住宅街は静まり、人々は家の中に籠もる。誰もいない桜の木の上に昇り、私は街の方から流れてくる風を感じている。
私も、昔のこの時間は常に机に向かっていた。
常に優秀であるために、常に最良であるために、常に上を目指して努力をしていた。
だが今は、向かうことのできる机すらない。
そういえば、そこで参考書を開いたとき、こんな言葉があったか。
桜の下には死体が埋まっている。
何故桜が美しいのか、それに対する一種のこじつけで、言い出したのはどこかの頭のおかしい文豪だったはずだ。
ただ、今となっては少しばかり面白い。
私の視界に広がる桜も、月明かりの中、不可思議なほど美しく咲き誇っている。
私は今、その桜の太枝に座っていた。眼下四、五メートルには校庭、視線を上げれば、数年前に廃校となった小学校が見える。頭上には見事満開になっている桜が静かに咲き、月明かりとともに踊っている。特等席とはこのことだろう。
さて、いつまでも眺めているわけにはいかない。
太枝を足に挟みながら先に向かって進み、ソレを枝にぐるぐると巻き付ける。この程度の短さが良いだろうと長短を調整し、固く結ぶ。
再現してやろうと思った。折角それが出来るのだから、やってやればいい。
枝の方へと体を進めて、手許に残った、震える輪を眺める。
どうせ、止める人なんていやしないのだから。
首に掛ける。
息を一つ、吸う。ゆっくりと吐き出す。
そして、私は落ちた。
「価値のない人間に生きている資格はない」。
これは、私の人生にこびりついている言葉の一つだ。
人は優秀であるために努力しなければならず、常に最良を目指さなければならない。
目の前に広がる結果は常に過去の努力の産物で、運が悪かった、誰かが邪魔をしてきた、などといった言い訳は、須く妄言でしかない。
全ては自分の努力の結果だ。失敗は努力不足、それ以外のなにものでもない。
故に、私は随分と長い間、上記の言い訳をし努力を怠る人間共を嫌悪してきた。
死ねば良いのだ、そのような人間は。
己の価値を己で形成できない人間など、死ねば良いのだ。
言い訳をするな、他人の所為にするな、環境を託つな。
全ての原因は他でもない貴方だろう。
価値のない人間など、価値を失った人間など、価値を作れない人間など、消えてなくなってしまえば良い。
だから、私は己で己を、吊らなければならないのだ。
粗縄が、首に巻き付くように圧力を掛けていく。
落ちていく中、私はそれを、目を硬くつぶりながら、酷くゆっくりと、感じていた。
○
❍
◦
・
なんで。
人が簡単に死ぬことは知っている。窒息、臓器や神経の損傷、特に頸椎損傷や動脈圧迫で、簡単に死ぬものだろう、人は。
なのに、なぜ。
何故、私は死んでいないのだ。
呆然と頭上の桜を見上げている。身体的なものと精神的なものの両面の衝撃で、何が起きたのかを理解することができない。
体全体から、鼓動のたびに様々な種類の痛みが発生している。うめきながら見れば、縄を掛けたはずの太枝がなかった。
粗い呼吸と全身に痛みを感じる。首元に感じる粗縄と衝撃の余韻、背中に感じる打撲感、頭を打ったとき特有の酩酊感、人生中感じたことのないほどの心臓の脈爆、濡れているらしい妙に重い左腕、右足に感じる強烈な痛み。
体を起こそうとして、左腕に強い痛みが走る。首を回せば、至近距離に、木。いや、枝だ。頭上にあったはずの太枝が、左腕にもろに落ちている。腕の下から赤い液体が広がっている。濡れている気がしたのは、血が流れていたからだ。尖っていた部分が刺さったのだ。
左腕に触れようと身体をひねろうとして、無意識に右足を動かそうとした。激痛と違和感が襲った。
嫌な予感がして、右足を確認する。
右足は、膝の関節から、おかしな方向にねじ曲がってた。
「あ……」
汗が額から地面に落ちる、呼吸が乱れている、脈爆が先ほどよりも大きくなった気がした。
止血の必要性、歩行不能、救急車を、そんな思考が流れる。
……何故?
「何を考えているんだ」。そう理性が口を出した。
死ぬつもりだったくせに何を言っている。
そうであるのに、気が付けば必死に枝を腕からどかそうとしている。痛みが強まる、傷がえぐれる。手が震え上手く力が入らない。
やめろ、意味がない。
なんで、でも、だって。
歯を食いしばって呼吸を整える。グルグル回る言い訳の言葉を全部飲み込んで、全て払い捨てて、必死に暴れる生存本能を殴りつける。
死にたいんだろ、死にたくない、消えたいんだろ、痛い、もう意味なんてないくせに、シにたくない、しにたくないしにたくないしにたくないしにたくない。
「五月蠅い! うるさいうるさいうるさい! 死にたくないなんて死んでも言うな無能がッ。お前に価値なんてもうないだろうが! 無価値で見捨てられた劣等生がッ!! さっさと死ね! 生きようと、するなッ!!!!」
自分の叫声が無人の校庭に響いている。叫び散らしたあと、気管に唾液が入ってむせかえった、咳き込むたび、体中の痛みが増幅される。
死ねば良いと思っていたくせに、最良じゃない他の人間に、優秀になろうともしない劣等生どもに心の中では「死ねば良い」と毒を吐いていたくせに。自分だけその対象から外れようと藻掻くな。抗うな。あの日思った通りにそのまま死ねッ。
だがこのままでは死ぬことができない。いや、このままじっとしていれば餓死する。いや、昼になって人が来たら救急車を呼ばれる。見捨ててくれるとは限らない。はやく、はやく、はやく、はやく……死ななければ。
夜の闇がどんどんと明るくなっていく。朝が来る。はやく、はやく。
……いや、違う。
先ほど私は何時と言った? 今は、夜の十時の、その付近の筈で……。
シャラリ、シャラリ。
音が、聞こえた。
思わず目線をそちらに向ければ、痛みを忘れるほどの美しい景色が見える。息を呑む。
サクラビトだ。
一体の、淡く光るサクラビトが、この夜桜に向かって、ゆっくり、ゆっくりと歩いて来る。
逸話を、思い出した。
美し過ぎる彼らに触れたものは、その魂をどこかへ連れ去られてしまうのだと。
ならば。
連れ去ってくれるのならば。
縋る手を伸ばした。
頼む、私を。
私を、殺してくれ。
サクラビトがこちらに近付く。夜桜を追うように上を向いていた視線が、不思議そうに下に向けられた。
その時私の指先が、花弁でできた装束に触れた。
掴んで手を引く。
サクラビトは、驚いたように私を見ている。瞳孔のない金色の目が、こちらを見下ろしてくる。
「……ドウシタ?」
サクラビトが言った。
その声は、高く透き通っていて、それでいて人間味のない、美しい声だった。
触れただけでは死ねないのか、サクラビトは言葉を解すのか、いや、そんな発見はどうでもいい。
「……」
「カナシイノ?」
「……ろしてくれ」
「ツカレタノ?」
「ころしてくれ」
「ゲンキ、ダシテ?」
「聞こえていないのか。死なないといけないんだ。私を……僕を……ッ」
サクラビトの手が伸びる。消してくれるのかと一抹の期待が胸を駆ける中、その白い手のひらは、私の頭に乗った。
「ダイジョウブ。ダイジョウブ」
その手が左右に動く。唖然として、一瞬声が出なくなる。
「キミハ、マダハヤイ」
「……は、なにし、て」
漸く出てきた言葉を遮るように、鈴のような声が頭に響いた。
「死ナナクテモ、イインダヨ」
「生キテイテ、イインダヨ」
温かい光に包まれるような心地がした。いや、実際、サクラビトの光量が上がったのだ。
痛みが消え、生涯感じたことのないような、穏やかな凪いだ心が胸の中にあった。
❍
○
◦
母の声がする。昔聞いた、優しくも凶器のように鋭い言葉が聞こえた。
「優秀でありなさい。あんな劣等生と同じになってはダメよ」
「常に上を目指しなさい。完璧を当たり前にしなさい」
「価値がないと生きてはいけないの。自分の価値を最良に保ちなさい」
「あんな人たちが何故堂々と生きていられるのかしらね。あなたはあんな風になってはダメよ」
私は「優秀」だった。
私は「完璧」だった。
私は「最良」だった。
僕はそうあり続けなければならなかった!
『優秀でないあなたにもう価値はないわ』
『完璧でないあなたはもう生きていてはいけないのよ』
『最良でないあなたなんかに生きる資格はないわ』
『さっさと死になさい。死になさい。死になさい。死になさい』
これは、あの後にいわれた言葉だったっけ。
でも、あの時におかあさんはもういなかったはずで。じゃあ、これは。
どうでもいい。どうせこう言われる。
あのひとが生きているときだったか死んだあとだったかなんて、関係ないじゃないか。
シニナサイ、シニナサイ、シニナサイ、シニナサイ、シニナサイ。
声が文字になって、僕の周りをとりかこむ。何も見えないくらく淀んだ場所で、赤黒い文字が僕をおいつめるかのように回転する。
シニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナサイシニナ
苦しい。苦しい。
死ななければ、消えなければ。
息を止めようとして、手のひらの中に、淡い、桜色の光を見た。
「死ナナクテ、イインダヨ」
「生キテイテ、イインダヨ」
光が強くなる。空気が晴れて、赤い文字たちが消えていった。
◦
○
❍
「……んた! あんた! おい、大丈夫か?! こんなところで……」
ぼんやりと目を開ける。声がする。うるさい。
ぼやけた視界をクリアにしていけば、私の身体を揺する老人の姿があった。
「……ひるの、ろうじん」
「嗚呼そうだ! 公園で話しただろう。なんでこんなところに居るんだ。役所に行ったんじゃなかったのか?」
「……なんで、ここに」
「学校の方で何か光っていたから……っていうかどうしてこんなところで寝ていたんだ? 枝が落ちてるみたいだけど、当たったりしなかったか? 怪我は……ないみたいだが」
うるさい。単純に音が大きい。寝起きなのだ、静かにして欲しい。
「うるさい……」
「ああぁ済まない。まずは救急車だったな。えっと、いちいち……」
「……一一九番」
「そうだった! 頭を打っているみたいだから、あんまり動くなよ」
「……」
老人はスマートフォンをたどたどしく操作し、その後誰かとしゃべり出した。言ったとおりに救急車を呼んでいるのだろう。
……お節介なおじいさんだ。
そう思いながら周りを見回すと、あのサクラビトはもう何処にもいなかった。
ふと左腕を見ると、太枝は腕の上にはなく、少し離れたところに転がっている。傷はまるで最初からなかったかのように治っていた。続いて右足を見れば、膝関節は通常の位置に戻っている。体中の痛みももうない。
……助けられたのか。私は。
改めて視線を上に向ける。
夜桜が風に踊る、その向こう側になにかが見えた。
淡く光る桜色の霊鳥が、遠い夜空に飛び去っていった。
- 評言 -
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?