Re: My Last Words
-はじめに-
この作品は、2022年12月17日から2023年9月16日にかけて作成、本アカウントにて投稿された、炉紀谷游による短編七篇をまとめたものです。
一つひとつの作品は、非常に難解です。心象風景の説明では全てを明かすことなく、読者にとってぼんやりとした世界が広がるのみです。
しかしながら、これらすべてをつなげた時、なにか別のものが見えるのではないかと考え、この度全篇をまとめて公開することとなりました。
小難しく迂遠な言い回しのなかに、なにか一つでも意義あることばが見つかれば幸いです。
なお、作品や形態は、一つにまとめるにあたり支障がない限りで当時のものをそのままにしてあります。
遠く。君。ずっと遠く。 - 炉紀谷 游
あらすじ
夕日の差し込む放送室、誰も立ち入ることのない安らぎの空間で、僕と後輩の彼女はある難しい話を始める。曰く、一八の僕にとって今年は歴史に残る一年だった。しかし僕は今の自分が気に食わない。静かに紡がれるのは懺悔の告白。ある者は答え、またある者は沈黙を貫いた。ぼんやり灯るランプのもとで明かされる、ある割り切れない真実の物語とは。まとわりつく罪の意識が、徐々に浮かび上がっていく一八最後の告白小説をここに。
本文
冬のある日に、僕と彼女は一度会うことにしていた。部活を引退した僕は、一つ彼女に言い残すことがあったのだ。
――夕日が差し込んだ放送室は、清潔に保たれていて掃除が行き届いていることがよくわかった。
ふと息を吸うと木製の壁から香りが広がる。一八の僕は椅子に座って足を組んだ。
年季の入った会議用の机の上にはランプがある。
白熱球のそれをつけてみると、熱を帯びた光とともに、ホコリが舞っているのがわかった。
僕の目は信用できなかった。
「難しい話をしてもいいかな」
そう言うと、まもなく帰ろうとしている後輩が、こちらの方に視線を送る。
「困りましたね、長くなりますか?」
年下のその女子は決まってそう言うが、これは僕らの合図であり、つまり構わない、というサインなのだ。
「僕――しばらくしたら終わるんだと思ってさ」
「ええ。おめでとうございます」
「めでたいかな」
「卒業というのは普通、めでたいことです」
中学生のときは演劇部に所属していた彼女を見ると、その顔は確かに笑っていた。
「進学するんだよ、僕」
「合格するとは思いませんでした」
「失礼だな、君は」
「合格しようなんて思ってなさそうでしたよ」
「失礼だけど、そのとおりだ」
「分かってるんですよ」
分厚い扉に閉ざされたこの部屋は、誰も立ち入ることのない安らぎの空間だった。
「良いところだな」
「はい?」
「ここで活動ができて、本当に良かったと思うんだ」
「はい」
外に出ればたちまち凍えてしまうような冬の日でも、放送室に限ってはまるで春の暖かさすら感じられる穏やかな空間だった。
「そうだと思っていても、悔いもある」
「その話は今しなきゃいけないことですか、先輩」
「難しい話を、してもいいかな」
彼女は黙ってのど飴をくれた。今日ばかりは、最初で最後の難しい話だと彼女に示した。
「僕は、あそこに飾ってある賞状が気に食わないんだ」
指さしたのは棚の上にある放送大会の一枚の賞状で、彼女はそれを見つめていた。
「今まで言わなかったけど、僕は、今の自分が気に食わないんだ」
机の上で静かに手を組んで、鮮やかに咲く赤を眺める。
数ヶ月前から置いてある花瓶には花が咲いていた。誰が変えているかは知らないが、枯れているところを僕は見ていない。
「部長はお上手でした。どうであっても賞状ものなんです」
「でも、僕が最優秀を取るなんて誰も考えてなかった」
「別に誰だっていいんじゃ――」彼女は言い淀んだ。自分の言葉が合っていないと思ったらしい。
「とにかく、みんなよかったんです。賞状を気にする方だったんですか?」
「気にするようになってしまった。あのときからだよ」
「私になにを言わせるおつもりですか?」
「いや、僕の話に耳を傾けてもらうだけでいいんだ」
自動販売機で買った温かいカフェオレは、少し冷めてきていた。彼女も僕も同じものを買っていた。
「僕はね、はじめて彼の声を聞いたとき、負けを認めたんだ。彼には実力があり可能性があり、この部活を輝かせる未来そのものだった。後輩にこんな存在がいるのかと驚いたよ」
「部長に勝ち負けという考え方があったんですか?」
「それは――いや、ハッキリとはしていなかったよ」
ぼんやりと浮かんだのは、よそ者が僕のテリトリーを侵略するイメージ。そこからくる、ちょっとした、大人げない、反抗心のような感情に名前をつけることは難しい。
「僕は馬鹿だから。人を格上と認めるのには時間がかかるんだよ」
「それは、きっと色んな人がそうだと思いますよ」
「そうだといいけど」
カフェオレを口に運ぶ。甘かった。
「僕はそのとき部長だった。皆の成長のために支援することが役目だと知っていた」
「放送部は今年で大きく変わったと思いますよ、部長のおかげで」
「だから、能力での敗北を乗り越えて、彼を仲間と認められた。自分のエゴを捨てて彼の支援者であることができた」
僕は続ける。
「彼は成し遂げた。いや、それだけじゃない。放送部全体が最も盛り上がった年になった。我が放送部の歴史にも残る非常に優れた一年だったんじゃないか」
「あの何もなかった放送室に――こうして、賞状が飾られているなんて、信じられませんね」
「ああ。でも、どうして、それをもらうのが彼ではなく僕なんだ」
彼女を見つめる。
「私に聞かないでください」
「なら、誰に聞けばいいんだ」
「誰にも聞かないでください」
「練習していた姿は――ことばを選ばず言うなら――美しかった。彼はキレイだった」
演説のように勢いがあり、詩人のように繊細な彼の声を求めて、皆、毎週の昼放送を楽しみにしていたのを思い出した。
「僕も嬉しかったんだ。彼のような部員がうちに来て、うちを引っ張ってくれると期待できたから」
後輩は微笑んでいるのか悲しんでいるのか、あるいは何らかの感情を浮かべていた。
「自尊心を捨ててなお、僕は彼を期待して彼を信じていた」
人はみな、自分が一番好きなんだろう。
ちらりと見たランプはまだぼんやりと空間を照らしている。胸が窮屈になる。
「さて――あの窓から、彼は何の景色を見ていたんだろうな」
「わかりません」
「君なら何を想像する?」
「ここから見える空はきれいですから、空を見るんじゃないんでしょうかね」
放送部に取り付けられた窓からはグラウンドと青空が見える。澄み切った空は美しい。だが、寒々しい冬の日の外を思うと、まるで心まで凍りつくような感覚を覚えた。
「でも、見上げたままでは足元が見えない」
「見なかったんじゃないんですか。下を見れば怖いだけですから」
「ああ」
手紙一枚なかった彼の最期は、僕へのダイレクト・メッセージだった。
「才能あるものが、その才能を信頼できずにいなくなることが、何よりも悲痛だ」
「そういうものでしょう」
「疑いたいんだ。否定したいんだ。人間というものを」
「難しい話ですね」
「声に自信がないから退部したい、なんてメッセージを、僕はどう受け取ればよかったんだ」
「答えられません」
ここまで重苦しい沈黙を毎回切り裂くような会話を僕らは続けている。
「そういえば、誰にも言っていないことがあるんだよ」
「なんですか」
抑揚のある声で彼女が尋ねる。
「でも言いたくはない」
「どういう意味ですか」
「難しい話なんだ、とてもね」
「なんですか」
僕は清廉潔白でありたいとこの一八年思って生きてきた。しかし、その希望は叶えられそうになかった。
「君に言うべきなのだろうか」
「私は次期部長です」
「だからなんだ」
「元部長のことばを聞いて、来年もこの部活を私が引っ張るんですよ」
普段は異なる様子の僕らも、今だけは、先輩と後輩の関係だった。
「メッセージを受け取ってからすぐ、僕は彼に会って直接話し合ったんだ」
「あの人に会ったんですか?」
「ああ。僕と彼しか知らない。なにせ、メッセージが送られた時間から少ししか経っていない、真夜中だったから」
「何をお話になったんですか」
「言いたくないね」
「困りましたね」
「言わなければならないんだろうか」
「先輩が難しい話をしたのは、ご自身の進路を変えたときと、好きな――人に告白するときでした」
「大事なことばかり君に話して、まるで自分の意志がないみたいだ」
「私は、部長のなされた選択を聞いてうなずいていただけですよ」
ランプは明滅していた。僕はランプに照らされている。
「怒鳴ったんだ」
「え?」
「期待していたのに裏切るつもりか、とね」
沈黙の中に続きを聞かせろという思いを感じ取った。
「ダメだった。彼が、その内面では、自分の将来を案じてひどく精神的に弱かったことを知っておくべきだったんだ。それなのに、僕は彼を孤立させるようなことを言ってしまった。最後の、最後にだ」
「彼の事情は、誰も知る由のないことでしたよ」
「だけど、自分がやってきたことを我慢だと思っていた自分が、愚かでしょうがないんだ。我慢してきた思いの丈を彼に言っても、僕の胸の内が晴れることはないんだよ」
それは、彼女に言っても同じことだと自覚していた。
「先輩にも、先輩のお考えがありますから」
「だからって、どうして僕は、今まで自分をよく見せようとしてきたということを忘れてしまったんだろう」
一八年だ。一八年の我慢の末、僕は人に自殺させる結果を導いてしまった。何も考えられなかった。彼のことばを真摯に受け止めて、可能性を模索すべきだった。なぜだ。なぜ自分の能力と相手の能力を比べて、機会があれば陥れてやろうという感情を、僕は持ち、僕は捨てきれなかったのだろう。
「もう過ぎたんですよ」
「なんだって」
「先輩のされたことが、この国の罪でない限り、誰も咎めることはありません」
「そうだろうか」
「そうだと思ってください」
「僕は孤立している気分なんだ」
「どこからですか」
「全部だ。全部。人生も、この高校も、放送部も、彼からも、そして君からも」
「違いますよ」
「何が違うんだ」
「もう終わっていいってことなんです」
「どういうことだい」
「先輩はこれから新しいところに行って、新しい人生を過ごせるんです。全部忘れていいんですよ。孤立もなにもないんです」
「忘れるなんてできるんだろうか」
「年を取れば取るほど、過ぎる時間はあっという間と言うじゃないですか。何かを覚えていられるのもほんの少しで、あとは人生の流れに飲まれていくんだって、親が言ってました」
「それは嫌だ」
「はい?」
「子供なんだよ、僕は。割り切るなんてことができない年頃なんだ」
「先輩。いない人を想っても、想う人の勝手でしかないんですよ」
もう自分がどこを見ているのかも分からなかった。
「難しい話だよ、それは」
「部長が持ちかけてきました」
「悔しいけど、そのとおりだ」
ことばにできないことを、一八の僕には扱えなかった。
「割り切るべきなんだろうな」
「ええ」
「どう考えても、割り切らなければやっていけないんだろうね」
「はい」
「難しいということばで、すでにどれほど難しいことを簡単にまとめたんだろう」
「履歴を読み返してください」
「そうするよ」
彼女にした長い話を蓄えているスマートフォンはポケットに突っ込んだままだ。
「話に付き合ってくれてありがとう」
「いえ。それと言っておきますけど、部長――いや、先輩は良い声をお持ちですよ」
窓が音を立てている。どうやら冬の風が暴れているようだった。時間が動き出し、放送室にも冬が訪れた。
「また話しましょうね。次は別のところで、明るい未来の話をしましょう」
「ああ」
「それじゃあ、お疲れ様です」
そういうと、彼女は放送室の重い扉を慣れた手付きで開けて、それから閉めた。
一瞬、リュックサックについていた僕とおそろいのストラップが揺れていた。
「雨上がりの葉桜に――」
暗記したひときわ思い入れのある台詞を読み上げる。
彼女の足音も、彼の良い声も、この空間にいる限りはもう聞こえなかった。
机の上でぼんやりと光る白熱球は、触れなくても分かるほどに熱を持っていて、生き生きとしていた。
僕はそれを消した。
すると熱は冷め、しばらくすると何もなかったようにランプがそこにあった。途端に自覚のある奇妙な震えが体を走った。
正直さを見つめる僕の目はもう使えないようだった。
謙虚さを聞く僕の耳はもう使えないようだった。
あるいは、使えなくてもいいのかもしれない。
「――夜明けのランプがなっている」
この声は誰にも聞こえなかった。
酔いお年を
「じゃあ、先輩、良いお年を」
「ああ、良いお年を」
そういって、俺はサークルの仲間たちに別れを告げた。俺の隣には、同じ方向に帰る一個下の後輩がいる。
「キミ、結構飲んでたけど大丈夫なのか?」
「え? ああ、オーケーですよ、先輩。こう見えても強いので」
笑顔の彼女は少し陽気に話してくる。
「ふん、その割にはずいぶんと機嫌良さそうじゃないか」
「ええ? そうですか? 気のせいですよお」
その声は明らかに上ずっていて、酔いが回っているようにしか思えなかった。
「気をつけてくれよ。キミんちなんて知らないんだから、送るとかできないぞ」
「先輩? 流れで私の家に乗り込もうとか考えてないですよねえ?」
普段の彼女は――特にサークルのなかではまとめ役といった立ち位置で――冷静なのだが、どうも酒が入ると態度が豹変するらしい。
「……静かにしてくれ」
火照ったカラダに夜風がちょうどよく当たり、全身の熱が循環するのがわかった。
電灯の下に映る自分たちの影が伸びてゆく。
外套二着が風にふわりと舞う。
ポケットに手を突っ込み、俺は黙々と歩く。横を見ると、彼女は少しだけ足取りがふらふらしていた。
「おい。やっぱり少し休んだほうがいいんじゃないのか? コンビニで水で も買うか?」
彼女が言う。
「いやあ、先輩に迷惑はかけられませんよお」
「――キミを見てるとますます不安になってくる。普段はそんな口ぶりじゃないだろう」
いつもは、会議で色々提案してくれる優秀なメンバーで、ときどき笑顔を振りまく明るい後輩といった印象だったが、どうも今の彼女は違った。
いや、今も彼女は笑っていた。だが、その笑顔にはどうにも自信がなく、無理しているようにみえた。それが、酒のせいなのかは俺にはわからなかった。
「あはは。気の所為ですよ」
「そうか?」
「そうです」
「ならいい。だが、水は買っておこう」
「……はーい」
外気と暖房が混ぜ合わさった生ぬるい空気が店内を包む。気だるそうな店員の顔を見ると切なくなる。
俺も一時期、深夜バイトに明け暮れ、自分には合わないことを悟った。
働いているとき、ふと突然孤独に飲まれて、沈むように辞めてしまったのだ。今でも、あれが何だったのか理由を説明することは、極めて困難だ。「四円のお返しになります。ありがとうございましたー」
「――ありがとうございます」
「どうもー」
ふと、この目がトロンとしている店員からみて、自分たちがどう思われているのか気になった。
いや、何も思っていないだろうというのは分かっていた。
だが、この深夜に妙に酔っ払った彼女と自分から、どのような関係性を想像できるのか、気になってしまったのだ。
これは、はっきり言って脳のエラーに近いことだった。考えるまでもない愚かなアイディアだった。
なんたって、このエラーが一度起きると、とりとめもないことだというのに、延々と考えてしまうのだった。
「出るぞ」
「はーい」
彼女の表情は、まだ笑顔のままだった。
「ほら、飲みな」
「ありがとうございますう」
ゆっくりペットボトルに手を伸ばすと、キャップを開けて器用にゴクゴクと飲み始めた。その所作だけ見ればなんともない、普通の後輩だった。「……はあ」
「スッキリしたか?」
「……前から大丈夫ですって」
「なら、どうして今日に限って――幾分か楽しそうにしていたんだい」
「それはですね」
彼女はかろうじて笑顔のままだった。
「ちょっと無理をしたんですよ」
「え? なんだい、酒、飲めなかったのか」
「ああいや。そういうコトじゃなくてですね」
彼女は続ける。
「仲良くなれないかと思って、無理をしました」
「仲良く? ああ、仲間たちとお近づきになりたかったってことか」
「いや、そうじゃなくて」
終始はぐらかすような彼女の言動は酒飲みのそれというより、隠し事かそれに近いものの感じを覚えた。
「センパイと仲良くなりたいと思ってたんです」
「俺か?」
「はい」
「十分見知った仲だろ」
「足りません」
「仲に足りる足りないもないだろう」
「足りないんです。そのですね、関係を深めたいって言ってるんです」
彼女の突然の告白に、俺は少し考えるのを止めてしまった。
「酔っ払ってるな」
「酔っちゃいません」
「普段のキミなら、そんな事は言わない」
「だからお酒を飲んでるんです」
「無理することはないだろう」
「いいえ。ただ、もっとお話できたらなと思って、いつもの私を超えたかったんです」
俺をみるその瞳は、いつもの冷静な彼女のそれだった。
「――なら、そのお話ししたいとやらは達成できたかな」
「そんなの、ぜーんぜん出来ませんでしたよ」
「そうだろうな」
彼女と俺は別々の席で飲んでいた。それは話す仲間が――当然と言えば当然だが――俺と彼女で分かれていたので、同卓で飲むメンバーが限られていたからだ。
「なあ」
「……なんですか」
「一つ聞いてもいいか」
「……好きにしてください」
ふてくされたのか、どんな感情なのかはわからなかったが、彼女はこちらを見ずにまた水を飲んでいた。
「関係を深めたいって何のことなんだ」
彼女はキャップを閉める。
「バカなんですか?」
「いや、一応聞こうと思って」
「分かるでしょう」
「酔っ払いの言葉は疑わしいんでな」
「はあ」
ここで言ったことは、聞いたことは、全部酒飲みの戯言(たわごと)なんだ。気にするな。俺の頭にそんな声が響いてきた。
「こういうことですよ」
俺の皮膚に別の熱が触れたとき、眠そうな店員と目が合った気がした。
「おい。キミ、酒の勢いでやることじゃないだろう」
俺の外套をつかんで彼女が言う。
「もう。どうして先輩は私の心配ばかりするんですか。なんかこう、言うコトとか、ないんですか」
「俺は、キミを大切にしたいんだ」
その言葉が彼女を本当に想っているものかは分からなかった。彼女の挑戦にのるべきだったのか、これはきっと、しばらく考えることになるのだろう。
「……歩きましょう。なんだか恥ずかしくなってきました」
「奇遇だな。俺もだ」
火照ったカラダに夜風が当たり、だんだん酔いも冷めてきた。
「来年は良い年になりますかね」
「そう信じるしかないだろう」
「――今日のことは忘れてください。私の態度も、言葉も、行動も」
「無理だな」
「ですよね」
「しょうがない。俺も飲んでるからな。約束事は守れない」
「――良い年になることを祈るばかりです」
「自分で行動しなきゃ何も起きないぞ」
「じゃあ頑張ります」
「頑張るといい」
「今年よりもしっかりして、お酒に頼らないようにします」
「好きにするといい」
「先輩は、私に応えてくれますか?」
「もちろんだ――酒飲みに誓って、言っておこう」
「酔っ払ってるんですか、先輩?」
「そうじゃなきゃ、こんな時間に歩くなんてことはしない」
腕時計は深夜一二時をとっくに過ぎていた。年の瀬に飲まれて町が独特の空気を醸し出していた。
今日は、どうもまともではない。その自覚はあった。
この会話も、どこまでが真実でどこまでがお酒を飲んだ人の虚偽なのか、境目は明らかではなかった。
しかし、私の中では一歩進んだような感覚が確かにあった。
「先輩、私の家はここなので」
「ああ、そうか」
「今度、遊びに来てくださいね」
「ふん、分かった」
「それじゃあ、良いお年を」
「ああ。良いお年を」
階上のノスタルヂア - 炉紀谷游
あらすじ
ベッドの上で手紙を眺めているハルトは、窓から差すゴッドレイを見て何かを思う。
何の変哲もない日常の一部のなかで、ハルトは何を思うのか。
ぼんやりとした表現の中にある確かなぬくもりと冷たさ――懐かしさをここに。
本文
ハルトくんへ
お元気ですか? 私は元気です。
今日もいつもの報告をしますね。
「おや、ナオから手紙じゃないか」
「勝手に見るなよ、トーハ」
ベッドに座る僕の後ろで、トーハは手紙を覗き込む。病気で弱っちい僕よりもずっと背が高いから、彼に隠し事なんてできないんだ。
このまえ、学校で体育祭がありました。
前書いたみたいに、私はクラス対抗リレーのアンカーだったのですっごく緊張しました!
「前の手紙には本当にそう書いてあったのか?」
トーハが聞いてくる。
「さあ。もう覚えてないよ」
ベッドから少し離れたところに小さな棚があるのだけど、そこに行かないと、前の手紙は読み返せない。
でも、クラスのみんなが応援してくれたので、ハルカちゃんが繋いでくれたバトンを最後まで引っ張ることが出来ました。
結局、1位にはなれなくて、3位だったけどみんな一生懸命になって頑張ったことだったのでとても満足しました。
「これ、どう反応すればいいんだよ?」
「きんきょー報告ってやつさ、ナオなりのね」
「ご苦労なこった」
トーハはこういう手紙に興味がない。なのに、どうして手紙が来ると読みたそうに近づいてくるんだろう。
もうすぐ期末試験が始まります。
お母さんから国語で90点をとったら、おこづかいをあげると言われたので、いつも以上に漢字を勉強してます。
でも、私は英語の方が好きなので一向に漢字ノートが埋まりません。
ただ提出物だけでも終わらせようと、1日1時間は頑張っています。
「ナオもずいぶんと偉くなったじゃないか」
「そりゃあ、もう中学1年生だからね。みんな大きくなるんだよ」
「ハルトはどうも年寄りみたいだけどな」
「大人びてるっていってくれないかな、トーハ」
それじゃあ、また明日。
【今日の花言葉】
カンナって花です!
赤くてきれいなので調べてみてください。
意味は「永遠に続きますように」です。
「新聞の端っこにありそうな締めのコトバだな」
「もういいだろ、トーハ。静かに読ませてくれよ」
「ああ、すまん」
トーハはその羽根を少し広げてベッドから離れる。
自分の部屋の壁にかかっている時計を見ると、時刻は4時36分を指していた。
「そろそろ来るんじゃないか?」
「そうかもしれないね」
ベルが鳴る。来客を知らせる音が1階、2階、家中に響く。
窓の直ぐ側にベッドがあるので、少し寄りかかれば、外が見える。
下を見れば、ちょうどそこが玄関ドアのあたりなのだ。
「誰だ、あいつら」
「え?」
「いや、誰だよ」
窓にへばりつくトーハを見て、僕も玄関を窓越しに見てみる。
そこには男の子が2人に、女の子が1人いた。
「うーん、誰だろうね」
「わからないのか?」
トーハが尋ねる。
「さっぱりわからない」
「お前の友だちじゃないのか?」
「あのくらいの背丈の子たちが、僕以外の知り合いだったら不思議だよね」
「ああ」
そのまま観察していると、玄関から出てきた母さんがその子達と話しているのが見える。
みんな、笑顔で話している。楽しそうだ。
そのままじっくり見ていると、母さんが女の子から何かを受け取った。小さくて、白くて、長方形のそれは、不思議なことに見覚えがあった。
「あれ、なんだ?」
「さあ、わからない」
すると、玄関にいた母さん、男の子、その子より少し背の高い男の子、そして制服姿で、白い髪留めをしたショートカットの女の子、みんなが一斉に僕の方を見てきた。
慌てて、僕は窓から目を離した。
どうして彼らは僕を見てきたんだろう。
「おい、あいつら、俺らのこと見えてんのか?」
「怖かったね」
「はあ? 俺は怖くなんかねえよ」
「……そう」
それから怖くなって僕はもう二度と窓の下を見ないと誓った。トーハの様子を見てみると、ずいぶんと萎縮しているようだった。
窓から差し込んでくるゴッドレイが僕の部屋を照らしている。
わずかに温かいその光が、ブランケットの白さをより際立たせている。
何でもなくその光を眺めていると、自分がその光に溶け込んでいった。「ハルト、気分はどうなんだ?」
「最悪だよ。ここ数年で一番悪いね」
「どうしてなんだ?」
「いや、わからない。でも、怖いということだけは、わかるんだ」
「俺にはよくわからない」
「ピンと張っていた糸がだんだんたるんでくると、不安になるだろう?」
「ハルトがそう思うなら、そうだろうな」
「それで、やがて切れるんだ、その糸は」
「たるむと切れるのか?」
「この世界のものとは違うんだ、その糸はね」
「お前は、それが怖いのか?」
「――そうだね、怖いよ。糸がたるんで消えていくのを見ると、自分だけが、無数の糸に包まれているような気がするんだ」
「どこから出てくるんだ、その糸は」
「色んなところからだよ、基本的には――」
自室の扉からノックが聞こえる。
「ハルト、ナオちゃんからお手紙よ」
「ああ、ありがとう」
「体調はどう?」
「うん、最高だね。過去イチで良いよ」
「本当? なら、気分転換にそろそろ外に出てみる?」
「カラダが追いつけばね。久しぶりに公園にでも行ってみたいよ」
「そう、良かった。なにか欲しいものはある?」
「うーん、そうだなあ」
あたりを見渡すと、トーハはいなくなっていた。あいつはいいよな。自由にどこにでも行けるんだから。
「いや、大丈夫。ありがとう、お母さん」
「何かあったら呼んでね」
ベッドの上に手紙を置いて、母さんは部屋から出ていった。扉が閉まる音と同時にトーハがベッドに腰掛けているのに気づいた。
「今日のお手紙か」
トーハが興味ありげに聞いてくる。
「読むかい?」
「俺だけじゃあ読めない。ハルトが読んでくれよ」
「まだ手を付けてない手紙がいくつかあるんだ、最新のを読んだら面白くないだろう」
「まあそれも確かにな」
「でも、最初だけは読んでみようか」
そう言って僕は洋形2号の封筒に入った手紙の始めの部分だけを読んでみる。
ハルトくんへ
体調はどうですか?
お母さんは元気って言うけど、本当なのか心配です。無理はしていませんか? 寂しくはありませんか? 親友の私だから分かるけど、ハルトは溜め込んじゃうから、苦しくなったら言ってください。 来週から習い事を始めるので、手紙のペースが落ちると思います。でも、ハルトが外のことを楽しんでもらえるように、これからも手紙は出し続けます。私も書いていて楽しいので。
いつか、お返事を書いてください。ハルトが今、何をしていて、何を思っていて、何を欲しがっているのか、私は知りたいです。
無理はしなくていいです。でも、ハルトの見ているものを私も見てみたいです(気が向いたらでいいです!)。
それじゃあ、今日もいつもの報告をしますね。
「どうだ?」
「まあ、面白そうだね」
「そうか」
トーハは窓を見ている。
「ちなみに、誰からの手紙なんだ?」
「さあ、わからない」
「知らない人間から手紙が来るなんてことがあるのか?」
「さあ、わからないよ」
「ならいい」
大きな両翼を抱えたトーハが、バサバサと音を立ててゴッドレイの差しこむ窓の外へと飛び立った。
ひらひらと、一枚の白い羽がブランケットに落ちる。
それは黒いシミとなって僕の世界でへばりついていた。
才能 - 炉紀谷 游
あらすじ
「この話は、私の友人であり、救世主ともいえるような存在、令堂君のありふれた日常を、多少脚色を加えつつもありのままに表現した文章の一部である。」から始まるのは、人間模様鮮やかな日常推理短篇。ある些細な出来事を起点に広がる大学生二人の羨望あふれる才能の物語をここに。
本編
この話は、私の友人であり、救世主ともいえるような存在、令堂君――君付けなど、本来はしないのだがここは導入であるから一時認めて頂きたい――のありふれた日常――私が観察する限りのものだが――を、多少脚色を加えつつもありのままに表現した文章の一部である。
彼、令堂というのは実に珍妙な男で、社交をないがしろにすることはないものの、そのパーソナリティ(訳注:個性)を隠そうと思えども隠しきれないような鮮烈な発言や行動が人を寄せ付け難くしている、まあ、私にしてみれば、彼について文章をしたためようと思わせるほどの興味深い人間なのである。
彼を説明するには多角的な表現が特に求められるが、少なくとも今思いつく内容としては――地方の大学生にして、どこから出ているのかわからないがとにかく想像を絶するような大金を、そう使う素振りを見せず、かと言っていつの間にか金欠になっているような、生活習慣が明らかではない男。
学業に優れている一方授業をサボりだすときもあり、そういうときは決まって「学びは最高だ。しかし現代人は学びを放棄することで得るものもあるんだよ」とか言って、数日姿をくらますような男。
彼が理知的に見える理由の6割を占めているであろう、黒縁眼鏡は誰がどう見てもお似合いで、いつ切っているかわからないけれど程よい長さの髪をした、好青年感を年中無休で演出している男。
それが、令堂という男なのであった。
しかし、私が彼を面白いと思う理由は、そんな概略的な要素に基づくものではないのである。例えば、その理知的な思考と尋常ならざる観察眼にあるといえよう。
ああ、そうだ。観察眼といえば――
「おやおや、大戸君(注:私のことだ)、朝から何事かな」
ある日のこと、ある事情から慌てて彼の家――何十年経っているのか知れぬほど、古臭いアパートの一室――に駆け込んだ私は、彼にそう声をかけられた。
彼は、平然とした表情で私を迎え入れ、一瞥するとすぐに彼の使っているスマートフォンを渡してきた。
「まったく。何用か断定できないが、推定はできた。これを使うといいよ」
この発言に至るまで私達は一切の会話という会話をしていない。しかし、私はそれをありがたく受け取り、多少の操作を施した上で、その電子機器を耳に近づける。
彼はそれを見て、「はア。僕に頼って生きているようでは、どうしようもない男だねえ。珈琲は甘くしておくよ」と、なんとも脈絡のないことばを投げかけてくる。
これは、読者にとっては実に奇妙な男二人の関係、つまり、会話がなくとも意志が疎通する、個人という概念の欠落した世界における寓話を見せられていると考える者も少なくないだろう。
しかし、私にとってしてみれば、あらゆる困難がここで解決するのであった。
「さア。さっさと飲んだらどうだい」
彼が珈琲を机に二つ置く。一つは自分のそば、もう一つは、当然、私のそばにだった。
私は床の上に座布団を敷いて座って彼にスマートフォンを返却した。
「いやいや、令堂には助けられたよ。だけれど、どうして何もかも分かったような態度を取って僕を救ってくれたんだい?」
「大戸君、僕をあまり馬鹿にはしないでくれ。これまでも、そしておおよそこれからも、この類の推量に基づいた君への援助は起こりうるんだ。それをいちいち説明していたら、喉が渇いて死んでしまうというものだよ」
「それもそうだけど、君のような男がどのような思考過程を経て、僕を助けるプランを思いついたのかは、いつ聞いても奇妙だし、何よりそれが面白いんじゃないか」
はア、とため息をつき、珈琲を啜る令堂は、黒縁のフレームが細い眼鏡を少し触っては、キリッとした目をはっきりとさせ、姿勢を正して私にこう説明してくれた。
「まず――君が僕の家に訪れたのは11時。その時真っ先に、君が昨日、自慢げに出版社との自著出版に関する面談があるんだと言ってきたのを思い出して、その予定時刻が11時であることを記憶の棚から引っ張り出した。その時点で、おおよそ、切迫した状況か、予定がなくなったかのどちらかだと判断がつくよね」
彼はよどみなく言い放ち、そして続けた。
「顔を見てみれば顔面蒼白、髪もボサボサ。まあこの時点で誰がどう見ても遅刻したんだろう、と考えるだろうね。しかし気になるのは、どうして僕の家に訪れたのか、なわけだ」
彼は私を若干侮蔑したような目つきで睨んで、手を組みながらこう言う。
「遅刻した人間はまず何をする? 予定を諦めるか、関係者に謝罪かなにかの連絡をするだろう。僕は君が現代人としては比較的まともだと評価しているから、後者を選択したと予想する。そこでだ。固定機を持っていないと前に言っていた君は気づくんだ、頼みの綱であったスマートフォンのバッテリーが切れていたことに」
「おいおい、そんなこと、どこでわかったんだい」
「玄関を開けたとき、スマートフォンを両手で握りしめていた男が、その端末に関係ない問題で困っていることは、稀じゃないかな」
そういうものかと納得して続きを促す。
「君はネットに取り憑かれている。日夜動画を見漁っていた君のスマートフォンの充電残量は減るばかりのなか、充電ケーブルがうまく刺さっていなかったか、その元となるアダプタの接触が悪かったか。
そしてこの手の話を、君は3日前にもしていて、今回で7回目だ。まったく、朝起きたら充電できていなかった、なんて話は世間で嫌というほど聞くよね。いい加減に注意をした方がいいだろう」
彼は人の話を覚え、世間の話を覚え、どのニュースアプリよりも手軽に最適な情報を提供する生き物であった。
「それに、自分でも気づいているかい? 君がそのスマートフォンを購入して初めて見せてくれたときより、本体が若干――分かりづらいだろうけど――膨らんでいる。危険だから修理に出すといいけど、充電が減るのも早いだろう? それで君は電話を使える状況になく、どうしようもないとか思っていたんじゃないだろうか」
私は珈琲を飲みながら、自室で散々焦りまくっていたのを思い返していた。
「でも君は変なところで頭が冴えている。ここらは田舎で公衆電話の設置率も高い。この前みたニュースなんかでは、撤去が進んでいる街もあるようだがね。ええと、君の家のすぐ、15mほどのところに1台あるのを覚えている」
彼はこうやって、私の一挙手一投足を推察で当ててくるのだ。
「それに――これも玄関口で見えたけれど――足元に10円玉が2枚落ちていた。そこから上に目線を向けると、ポケットから顔を出す二つ折り財布があった。ちゃんとしまえていなかったのだろうね。
さア、ここから推定するのは中々個別的な場合にしか出来ないが、公衆電話を使おうとしたと見て、おかしくないだろう」
私はその場では特に何も言わなかったし、努めて表情に出しはしなかったが、彼がピタリと行動を当ててくるもんだから、何度聞いても、気味が悪い、という本能的な恐怖さえ覚えてしまった。
「では、ここで疑問が一つ。果たして君は公衆電話を使えるのか?」
「いや、使えるに決まってるだろう! もしものときは公衆電話を頼りなさいって母さんに言われてるんだ」
「だが、その出版社の電話番号を覚えるように母君に教育されてきたのかな?」
私はハッとして、それから沈黙して珈琲を飲むしか出来なかった。
「まったく。これだから若者は――僕もだけど――ともかく、君は、ある程度は聡明だから、多少なりは番号を覚えていたかもしれないけど、どれもこれも正確ではなく、つながってほしい場所にはかからなかったわけだ」
彼は自信ありげに続ける。
「では、どうするか? 一度外に出て、戻るのも違うと思った君は急いで自宅から徒歩数分の、僕の棲家に上がりこんでは、絶望しきった表情で僕に助けを求めることになったわけだね」
ほら、と言って彼が見せてきたスマートフォンには、「高坂出版社」を検索した履歴が残っていた。――私が利用して、消し忘れたものであることは、言うまでもない。
「はあ。完敗だよ。素晴らしい推理だ。あの一瞬でそれを考えて、僕が必要としていたものを提示したんだ。探偵をしたほうがいいよ、今すぐにでもね」
「僕には夢があるからね。探偵は辞退しておくよ」
彼は、私にベタ褒めされたからか、珍しくニコニコとしていた。
「せっかく君が書いた話が世に出るかもしれないんだ、些細なミス――特に君が日常的にするもの――なんかでその機会が消え消えになってしまうのは、実にもったいない。愚か、というべきか、愚行といったほうがいいかな? まア、電話の内容は聞いてないけど、君のことだ。少しあとに向かうよう適当な理由で先方を誤魔化すぐらいは出来たんじゃないか?」
「ああ、それはもうお陰様で。令堂には救われたよ」
「僕に足りない話術を、君は持ち合わせているからね。まったく、奇妙なもんだ」
彼は手元にあった雑誌を手に取りペラペラと捲り始めた。桜の花の舞っているイラストが表紙にある、目を引くそれは一瞥したところ、文芸誌のようだった。記憶が確かならば、彼が文芸誌なんてものを読むのは初めて見たように思う。
「――とすれば、君はその珈琲を飲んでとっとと行くが良い。目を覚ますのにカフェインはいいし、砂糖は君の活力になるだろうから」
「あ、ああ。ありがとう」
「ハッ! 君が素直に、ありがとうという最もシンプルで感情的な語を用いて感謝するなんて、気味が悪いね。いつも僕のことを散々ゲテモノ扱いしているんだ、感謝の言葉など思いつかないと思っていたんだけれど」
「そう思っているのは否定しないけど、お前に感謝することだってあるぞ!」
そうして、繰り返されすぎて脳内の神経細胞が一切活性化されないような会話をしばらく繰り広げた後、私は令堂の家で軽い身支度をさせてもらい出発する用意ができた。
「君という男は実に憎たらしい。僕のほうが遥かに文字書きとしては相当な経験と知識を持っているはずなのに、君には文字を書く者としての才があるとみる」
「いやあ、どうも」玄関前で、私は靴を履き、彼は後ろから声をかけてくる。
「だがね、君。もしその本が出版された暁には、僕にもいくらか分け前をいただくよ」
「はあ?」驚いて、彼と目を合わせる。
「君とは人生を共にしてきた。ということは君の文字の根底には僕の影響もあるだろう、いや、あるに決まっている」
彼は意気揚々と喋り続ける。
「僕がいなければ君が書く文字に価値など生まれるだろうか? いや、有り得ない。なんたって君は、自然現象、社会動向に目を向けて観察する注意力もなければ興味だってない。人間との交流だって――その点は君が上回ることを認めざるをえないけど――その結果得られた大半の友人は浅はかな存在で、友人サブスクで得たものと同然だ」
彼が言う友人サブスクとは、正式名称を友人サブスクリプションといい、大体1年で縁が切れるような深みのない交流関係を指す。これは、彼が中身を考え、私が思いついた名前であり、当然公衆の面前でいとも容易く人を罵倒するような隠語の類である。
「それなのになぜ、君が道を切り開き、私はくすぶったままなのだろう?!」
正気なのかどうかも疑わしいほど、彼の感情があらゆる方向に進んでは疑問として私に突きつけられた。
「いやあ、僕に聞かれてもわからないけど――」
私はとっさの思いつきでこう放った。
「才能、だからだろう?」
以降彼の口から何ら文句は起こらず、「まあ、頑張るといいさ」という言葉が返ってきたのみだった。
それからしばらくして、私はといえば、なんとか出版社との話を進め、また色々な人間と話をすることで決まっていた。何か致命的なミスをしなければ、とりあえず私の本は世に出ると言っていいだろう。
さあ、安泰、安泰。そう思って私は自室で文芸誌を読み漁っていた。大体は通販サイトでぼんやりと見ていたものをまとめて買った、衝動買いの賜物だったが。
その中には『桜華創藝』おうかそうげいと名のつく同人雑誌があって、どこかで見たような覚えがあったが、そこでは特にそれ以上思い出せなかった。だが桜の花が舞っているイラストが表紙を飾っており、どうも目についたのだ。
手にとってぱらぱらと捲ってみると、有志が寄稿して作る雑誌のようで、短いながらも個性豊かな中身が広がっていた。
そこで私はある記事が目に留まった。
それから私が「原稿をどこかで紛失した」と騒ぎに彼の家に向かうのは数日後のことだった。
君の花火。 - 炉紀谷 游
あらすじ
中学二年生の直樹と美彩は、自分たちの心情の変化に追いつくことが出来ず、ぼんやりと互いに距離を感じていた。そこで夏の暑さと退屈な毎日に嫌気が差していた直樹に美彩はある提案を持ちかける。これは、二人の気ヅキの記録。夏の風が変化を運んでくる。
本編
錆びついたブランコと、色を失った滑り台が、まさにその公園の寂れた情景を描いている。
この町は、今も昔もずっと同じような現代から取り残されたような時間を歩んでいて、この公園だって風雨にさらされてだいぶ前からぼろぼろになっていた。
しかし、どれほど時間が経とうとも、その公園で過ごした時間というのは、親や特に子どもたちにとってはかけがえのない時間なのだった。
「そんなところでなにしてんの?」
小さな砂場にしゃがむ少年を見て、白いワンピースを着た華奢な少女が声をかける。
昔から彼と仲良くしていた彼女は、彼を見て、早足で近づいてきた。
しかし少年は反応せず、それで、気恥ずかしくなったのか、地平線に沈みゆく太陽を眺めるその少女――美彩は、すこしの間を開けてから不思議そうな顔でまた少年に声をかける。
「直樹?」
「ん? ああ美彩。……ごめん。ちょっと考え事してた」
「考え事?」
心の内を探るような目つきで、風にワンピースをなびかせる美彩は直樹の視線を追いかける。
「元気なさそうじゃん。お母さんに怒られたの?」
「いや。こう、たまには一人でいるのもいいかなって思ってさ」
それでも何時にも増して元気のない直樹の様子が気になって美彩がもう一度尋ねる。
「こんなボロい公園にいるより、涼しいお家にいたほうがマシじゃない?」
「外の空気を吸いながらなんだか色々考えてみるのも悪くないよ」
「変なの」美彩が笑いながらしゃがみこんだ彼を見つめる。
木々が日照りで弱っているように見えるなか、殺風景な様相の公園には、二人だけしかいなかった。
小学生の頃はまだみんなかけっこやボールを投げて遊んでいたのに。それもこれも、全てが昔の出来事になってしまった。
二人は幼馴染で、特に物心がつく前から一緒にいるような関係だったからか、大きくなってくるに連れて芽生えてくる二人の間にある「感情の壁」のようなものに、まだ慣れていないようだった。
「まあ、君が気にすることでもないよ」
熱にやられたように力のない声で直樹がつぶやく。
「なんか心配になってきたんだけど。直樹、本当に大丈夫?」
特に意味を見出すことの出来ない砂いじりをしていた直樹は、深い溜め息をついておもむろに立ち上がる。
「大丈夫だよ。ただ面白いことがないなあって思ってただけ」
「え?」
脈絡のない言葉に、美彩は目を丸くして彼の次の言葉を待つ。
「最近特に思うんだ。今までに見たこともないような景色を見るとか、想像もできないような出来事を経験してみたいなって」
真剣な表情で発されたその言葉に美彩は思わず困惑の表情を見せる。
「なんだか直樹らしくないなあ。本当にさ、嫌なことでもあったんでしょ」
「嫌なことか。嫌なことはないけど――」
「ないけど?」美彩が重ねて尋ねる。
「なんにも変わらない日々を、なんだか無駄に過ごしている気がするんだよ」
そう呟いて、直樹は美彩を置いて公園から出ようとする。
「ちょっと、どういうこと?」突然歩き始める直樹に困惑しながらも、美彩は彼の後をついていく。
公園を抜け、細い通りを二人が進む。ひぐらしの鳴き声がどことなく静けさと憂鬱さをにじませていた。
「まあ、僕にはまだよくわかんないんだけど」低いトーンで直樹が切り出す。
「なに?」
「お母さんが言ってたんだ。僕らぐらいの歳になったら今まで考えてたことも、ガラリと変わるんだって。それで出来なかったことも出来るようになるんだ」
美彩は彼の言葉に首を傾げて、それから自身の考えを述べてみた。
「例えば苦手なものが食べられるようになった、みたいな?」
「……まあ、それもあるかもしれないけど」
「ちがうの?」少し間を開けて美彩が返す。
「もっと心の話っていうか……なんだろう、言葉で説明する方法が見つからないや」
「言い出した本人がわからないんじゃ、私にはもっとわからないよ」
「ごめん」
昼間に溜め込んだ夏の熱気を放出して、徐々に冷めていくアスファルトを踏みしめながら二人は宛もなくどこかへ進んでいく。実のところ、彼らが帰るべきなのはもちろん家であるのだが、その道からはとっくに外れていた。「はあ、暑いね」
「夏だからね」間髪入れず直樹が挟む。
「夏だからかあ」
幼馴染だからか、それとも何なのか。なんとなく、二人の間には触れてはいけない話題があるような気がして、それがものすごくもどかしかった。
だが、それに言及することもなく熱に浮かされたような話が続いた。
「そういえばさ、もうすぐ夏祭りだよね」美彩が流れに合わせる形でふとつぶやく。
「え? ……ああ、夏祭り。そうだね」
意外そうに驚く直樹を見て、美彩が言葉を重ねる。
「――なんか変なこと言った?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
夏のせいだろうか。重たい空気が二人にのしかかってくる。
「あの夏祭りって代わり映えしないなあって。だって、毎年同じ人達が来て、同じことをして、同じような時間が流れるじゃん」
かつて、まだ相当に幼かった彼らも、地元の友人数名を連れて、ほぼ毎年のようにその祭りに訪れていた。直樹はそれが楽しめるような気分ではないようだった。
「そうかもしれないけどさ。小さい頃から同じメンバーで行ってたんだし、それに、夏の風物詩って言ったら私たちにとっては夏祭りでしょ? 今更、引っかかることなんてある?」
「いや、別に引っかかりはしてないんだ。……まあ、聞かなかったことにしてよ。僕でもなんだかよくわからないんだ」
直樹は自分の心の中に巣食う、味わったことのない退屈に驚きながらも、ふと湧いた単純な疑問を彼女にぶつけることにした。
「美彩は夏祭りいくの?」
「私が?」
「うん。去年はお互い忙しかったし行かなかったけど、行くつもりなのかなって」
「まあ、たまには行ってもいいのかなって私は思ってるけど」
「中学の友達と行く?」
家から少し遠くの中学校に通っている彼らは、小学校にいたときとは違って、お互い全く異なる関係を作り上げていた。それがどうやら自然だったようで二人は、それに流れるまま中学生活を形作っていた。
「まあ、あの子達をここまで連れて行くのもどうかなって思うけど」
「中学校からだとちょっと遠いか」
「それにあのお祭りは私・達・の・祭・り・なのかなって思うしさ」
「私達?」
何年も前から変わらない道路を歩いて、家からぐんぐんと離れていくのは実際には初めてではなく、これが二人、幼馴染のいつもどおりだった。
「そう。だからさ、今度の夏祭りは二人で行かない?」
「え? あ、二人」
「だって、同じことしたくないんでしょ? だったらたまには新鮮な気分を味わってみようよ」
暑そうに顔を真っ赤にして美彩が続ける。
「それにみんなで行かなくたって私達だったら楽しいでしょ。だからさ、どう?」
突然答えを迫ってくる彼女の提案を頭で整理しようとした直樹は、通りを駆ける生ぬるい風ごときに思考が奪われ、結局流れに任せてこう呟いた。
「いいよ。――面白そうだし」
誰かを呼ぶ声が家中に響く日曜のお昼時、晴天の下、夏の暑い風が窓から入ってくる。
「お姉ちゃん、私のやつどこにやったの? 今日着ていきたいから取り出したのに!」
人の騒ぐ声がしばらく続いた後、着替えているのだろうか、布のこすれる音が部屋から伝わってくる。
慌ただしそうな様子の娘が「なんで?」だとか「ちょっと、お姉ちゃん手伝ってよ」と話しているのを聞いて、母親はいよいよそういう時期が訪れたのかと一人微笑んでいた。
しばらくして少女とその姉が部屋から出てくると、母親は娘の成長に声を上げて驚いた。
「あら、似合ってるじゃない」
中学2年生にして上品さを感じられる大人のような立ち振舞は、いつぞやの白いワンピースの少女とは思えない美しい変容ぶりだった。
「えへへ、そうでしょ、お母さん? そうだ、写真撮ってよ!」
ただ、そのキラキラとした表情と飛び出す言葉は可愛らしさに満ちていて、その差が自身の幼少期によく似たものだと、母親は懐かしみながら娘の言葉に従った。
「あまり遅くならないようにね、美彩」
「大丈夫だよ! きっと」
地区の夏祭りで行われる打ち上げ花火が今年は何時頃始まるのか――後でお隣さんに聞かないと。心のなかで笑いながら母親は思うのだった。
普段は何でもない道路に、今日ばかりは屋台の広がる非日常の舞台が広がっていた。
「ごめん、待った?」
そう言って、さわやかな藍を身にまとった美彩が直樹に話しかける。
「ああ、いや。浴衣着たんだね」
「そう。せっかくだから。似合ってる?」
「似合ってるよ、もちろん」
数日前の様子とは打って変わって直樹の屈託のない笑顔に美彩は釣られて「そっか、うれしい」なんて普段なら恥ずかしくて言えない素直な言葉を口に出してしまった。
どうにも胸の中に収められない非日常感が二人を包みながら、彼らはいつものように歩き出す。当然、今まで一緒にいたいつものメンバーはいない。
「直樹、何食べたい?」ズラッと広がる屋台を一望して美彩が尋ねる。
「そうだな……やっぱりたこ焼きじゃない? 美彩が好きだって何年も前に言ってたでしょ」
そう言って直樹が美彩の方を見ると、少しうつむいていた彼女が慌てて笑顔で言葉を返す。
「あ、ごめん、ちょっとビックリしちゃった。――私の好きな食べ物、覚えてたんだね」
依然として今までに感じたことのないぎこちなさを覚えながら、一方で新鮮な感情が直樹に迫ってきた。
屋台での買い物を済ませ、ソースの刺激的な香りを運びながら二人は更に進む。普段は大して人の多くないこの地域でも夏祭りとなるとたくさんの人数が、祭りを楽しむ一人となって舞台の上を歩く。
「どう? お祭り、そんなに面白くない?」
「いや――どうしてだろう、なんだか新鮮な気持ちだよ。歩き慣れた道路、聞き慣れたざわざわ。今日は夏祭りが違って見えるよ」
「なら良かった」
私と一緒だから? とは聞かなかった。
一瞬人混みが引いたところで、直樹が声をかける。
「花火をみるならやっぱり山だけど、浴衣を着てあそこまで行ける?」
「あ……考えてなかったや。ま、動けなくなったら直樹におんぶしてもらうから」
郵便ポストにも満たない背丈の頃から幼馴染である彼らにとって、祭りで行われる花火を見る場所は、近くの小山の中腹からだと決まっていた。
「えっと花火は……あれ、もしかして今年は時間が違う?」直樹が入口で渡されたパンフレットと腕時計を交互に見る。
「あ、そっか、今年はいつもよりも始まるのが一時間早いってお母さんが言ってたから……」
「あと、十分?」
二人は顔を見合わせて情けなさそうに苦笑いを浮かべる。
このままだと開始までに間に合わないと知った直樹は、恥ずかしさになんとか耐えながら美彩を背中に担いで山にたどり着いた。
その時に感じた体重とかすかに感じられた息遣いが、どうにも直樹には耐え難いものだったらしく、ただ黙々と運ぶしか、精神の余裕がなかったようだった。
「……よいしょっと」
「ごめん、本当にしてくれるなんて」
「……お役に立てたならなにより」
ここは同じ小学校の仲間しか知らない特別な場所。しかし、今日に限っては二人だけの場所であることを改めて意識して、妙に長く感じる三分を待つ。
「実はさ、直樹が公園にいたあの日。私一度直樹の家に行ったんだ」
ふと美彩が呟いた。
「そのときに、夏祭りに行こって誘おうと思ってたんだ」
「なんでって聞いてもいい?」
「え? ああ――一緒に行きたかったから? 分かんないよ。そんなの」
直樹は微笑んで次の言葉を待つ。
「あのね。私きっと、玄関先で直樹を見たら『たまたま通りがかったから寄ってみた』ぐらいしか言えなかったと思う」
「美彩は」
「――なに?」
「僕ら、お互いなんか変わったのかなって思わない?」
「あー、ははっ、そうかもね」
幼馴染だから、やっぱりこの緊張感に慣れなくて、でも少しだけ心地良い。祭りが始まってから感じていたその空気の正体が、徐々に明らかになるのを二人は分かっていた。
木々が風に揺れる中、この先何を話せばいいか迷う直樹の頭上で大きな、鮮やか色をした花が咲いた。
「わあ……!」美彩が優しい笑顔で花火を見つめる。
「なんとか、始まりまでに間に合ってよかった」
夏の轟音が心臓を打ち、未だに震えていた直樹の心が、ゆっくりと落ち着いていくのを感じる。
「花火、綺麗だね?」
美彩の瞳が様々な色彩で輝いて、直樹はその美しさに見とれてしまった。
そして美彩に会ったときから感じていたこのぎこちなさと新鮮な感情は、直樹の心の変化によるものだと確かに気づいた。
「確かに、とっても綺麗だ」
「ねえ、こっちのほうがよく見えるよ」
引っ張られて握った手が少しだけ湿っていて、二人は顔を見合わせる。
それから互いに恥ずかしそうにしながらも二人は決してその手を離さない。
言葉を交わさずとも、通じ合う確かな気持ちの繋がりが二人の間にあったから。
それから、三十分に渡って咲いた花々の下で――二人だけの風が確かな心の変化とともに夏を通り過ぎていった。
この作品は拙作『夏色の風、変わらない僕ら』を改稿したものです。(炉紀谷游)
腹に眠る蝶 - パピヨン・キャーロ
あらすじ
「男はカフェに立ち入り、コーヒーを一杯頼んでから席に座った。」から始まるのは、人々の日常を綴った奇妙な物語。誰もが主人公のこの世界で男は、何を考えるのか。新鮮な物語の描出技法に隠れた「無」の意図をここに。
本編
男はカフェに立ち入り、コーヒーを一杯頼んでから席に座った。
手に持っていた新聞を広げて目に映る文字を追いかける。
「ドクター・レイン実験成功 科学技術に貢献 隣国との差 今後の関係なお悪化?」
男はドクター・レインが何者か、そしてその人物が何を成し遂げたのかには興味を示さず、ただぼんやりと、紙面の上で踊っている文字の営みを観察して、それで満足したようだった。
「コーヒーです。どうぞ」
「ありがとう。ところで一つ、君はこの言葉を知っているかい?」
目に光のない女は、客からの質問に――全く突然で、質問を投げかけられたことにさえ気づいていなかったが――とりあえず何らかの行動をしようと男を見つめた。
「お客様、なんのことでしょうか」
男はにこやかに文章の一部分を指さして、読めるけれど意味がわからないんだよと言った。
「お客様、失礼ながら図書館というところに向かわれるとよろしいかと」
女は、失礼しますとだけ残してそこから去ってしまった。私は君に尋ねたかったのだがね。しかし、君がそう言うのならきっと何か答えられない相当の理由があるというのだろう。男は諦めた。
そして、男の言うことはまさにその通りだった。女は先程、彼氏が車にはねられた知らせを聞いたばかりで、コーヒーを作る手も、それを客に渡す手も酷く震えていたのだ。それに、どうも物好きな紳士が自分に話しかけていたようで、それもまた酷く混乱する要因になっていた。かろうじて、会話が成り立っていたのが奇跡だった。きっと、彼氏が図書館から出たときにはねられたと聞いていたからだろう。だが、それを知るのは女だけだった。
新聞を読む手を止め、コーヒーを一口。男は窓を見た。
映る景色は田舎町に特有のまばらな人通りと騒々しい車両の駆ける姿だけだった。男はこの町にあまり親しくはなかった。それに人間と人間の企みをつなげる仕事が男の本業だったので、こういう田舎町というのは滅多に滞在せず、もっぱらその仕事――ビジネス――の中心地である都会で生活するのが日常だった。
カフェはこじんまりとしているものの、テーブルがいくつかあって多少なりとも客もいた。昼を少し過ぎたあたりであることを店主は覚えていたが、壁にかけてある時計が不調で、あいにく愛用の腕時計――黒を基調とした金色の装飾が施されている安物――も、小汚い家に忘れてしまったので、今が何時なのか確認する術を持っていなかった。
新聞の男は、ほかのテーブルを観察していた。見ると、十代の少年と少女が二人で楽しそうに会話していた。みすぼらしい見た目だ。言葉遣いもそれほど上品ではない。だが二人の目は輝いている。若さからだろうか。私にはもうない。興味深い。
男の洞察は見当違いというわけではなかった。この時代、隣の国の内戦が激化したことで、多くの人々が逃げ惑う事態となっていた。この二人は両親を失った兄妹で、数多もの幸運と、多大なる勇気によってこの国へと逃げてくることができたのだ。
「今ある薬を全部売れたら、もっといい家に住める」少年が言う。
「お母さんとお父さんが喜んでくれるといいね」少女が言う。
「きっと笑ってくれるさ」
「うれしいね」
そのときカフェの扉が開かれて黒いスーツをまとった男が二人、面々に姿を見せた。
「ガッツェはいるか?」
「はい? どなたですか」店主が言う。
「いいから、ガッツェはいるかと聞いている」別の、背丈の低い男が同じ内容を尋ねる。
「いえ。うちで働いているのはそこのキャサリン、あとはアルボー、それにフェニクという者だけです」
「お前の名前はなんだ」初めの、背丈の高い男が、スーツのポケットに手をいれて質問した。
「ロンドといいます。この店が、マスター・ロンドであることが今お示し出来る真実の証です」
「この店じゃないらしい」男が男にそう言って、そこから去ろうとする。
そのガッツェというのはどなたなんですか、と新聞を持った男が口を開いた。
背丈の高い男が、彼をじっくり見つめてからこう言った。
「わからない」
「なら、この新聞を読んでご覧なさい。ほらここに、尋ね人に関する記述がありますから。あとここに電話してみるのもどうですか」
背丈の低い男が、電話という音声に飛びついた。
「兄貴、電話っていうのはどうだい」
男は、示された通りに新聞の記述をみてから、弟分に対して「悪くない」と答えた。それで、新聞を見せた男に礼を言って二人とも、店を出てしまった。
結局、新聞の男の知的好奇心を満たすようなことは得られなかったが、兄貴分が近づいてきたときに臭った火薬らしい成分からして、ガッツェと名のつく人間の命はそう長くはないのだろうと、近い未来の幸福を祈ることができた。
男は満足してカフェを出た。マスター・ロンドは男の気晴らしにはちょうどいい空間であったように思う。一つ言うなら壁にかかっていた時計が止まっていたのが気になったぐらいだろう。
町に出ると日が眩しかった。だがそのおかげで、道路に並ぶ建物とその近辺で生の篝火を必死に燃やし続ける人の様子がよくわかった。あれはきっと薬で人生を滅ぼした人間だろう。どうか彼らにも救いがあるように。男は親指を薬指に擦り合わせ、その二本指で首から腹をなぞった。儀式とは、表象的には意味をなさないのかもしれないと男は思った。
男は回想した。なぜ自分がこの田舎町にいるのか。この日は休日だから、仕事を放棄したかったわけではないし、ここに来てまで何かを果たしたかったわけではなかった。だが、バスを乗り継いでまで来る勇気と時間があったのは確かだった。
ときどき、自分が好奇心の赴くままに動いてしまうことがあることを男は知っていた。だがここに来た動機はもっとはっきりしていたような覚えがあった。
しかしどれほど時間をかけても答えはさっぱり出てきそうになかったので男は歩き始めた。男は歩くのが好きだ。だから同僚からはミスター・ウォークと呼ばれている。安直だが、ミスター・ウォークは自らがミスター・ウォークと呼ばれることに抵抗がなかったし、それにミスター・ウォークと四回ぐらい呼ばれれば、自分にとってそれが自分の名前だというような感覚を覚えるのも不思議ではなかった。
彼は、近くの図書館に立ち寄ってそこにいる司書にこう尋ねた。
「今日、新聞でこんな言葉を読んだんですが、どういう意味かご存知ですか」
司書から渡された一枚のメモ用紙にスラスラと文字を書く。ミスター・ウォークは教養があったので文字を書くことは得意だった。
「これは、つまり胸騒ぎがするという意味の慣用句ですよ」
なるほど、そういうことか。男は満たされた。
司書にとってもこれは都合のいい出来事だった。ちょうどこの慣用句を使うような機会があったのだ。今朝、館長がいつまで経っても日課の庭園いじり――図書館の外にある館長の趣味空間――から戻ってこないので、ちょうど同僚に対してこの言葉を使ったのだ。我ながら状況にあった適切な言葉だったように思う。
「ありがとう。お礼に何ができましょうか」
「仕事ですから。あなたの教養に役立てて幸いです」
ミスター・ウォークは仕事という言葉が好きでもあったし嫌いでもあった。前職では文字通りワーカホリックとなって、同僚からミスター・ホリックと呼ばれていた(彼は当時、酒好きでもあったのだ)。彼自身は仕事が好きだった。だが体と本人の意識しない精神世界が過労を許さなかったので彼はその職を辞することにした。彼が担当していた客からもらったたくさんの手紙や御礼の品は、消費財でない限りは彼の人生において特別なものであり続けるのであろう。
「では、失礼します」
ミスター・ウォークは図書館を離れた。ちょうどそのとき、遠くから銃声が聞こえた。つい先日まで戦闘訓練に参加していたので、一般人の彼でも銃声がなにかは容易に判断がついた。そして、彼は足早にそこを立ち去った。ああいう揉め事は自分から首を突っ込むものじゃないんだ。私は逃げるぞ。
ミスター・ウォークは銃声とは反対の方向へと進んでいった。行きはバスだったから帰りは電車で行こう。そう考えれば、こちらの方向は駅に近づく方なので都合が良かった。
ここまでを振り返ると、今日はやはり日常的だった。普通の休日が流れ、そして明日から平日が始まる。人はこれを「無」と呼ぶのかもしれない。無意味、無価値、無秩序。抽象的な言葉遊びが先行しミスター・ウォークは自分に酔っていた。しかし彼は想像した。もし私の知らないところで、様々な物語が生まれていたとすれば、私はなにか関わることができただろうか。それとも私はただ傍観していただけだったのだろうか。今私は、どこで物語が起きたかわからないのだからその物語の主人公に私はなっていないのだろうか。
男は脳内の言葉に圧倒され、結局なにの結論も見出すことはできなかった。机上の空論がありうるのなら、今の男には地上の空論がお似合いだった。
今日はこれから雨が降るらしい。わずかに憂鬱だったが男の気分はまだ晴れやかだった。
異常なほどに明るい、大地を焼き尽くすような光が空を覆うのを見て、男はふと慣用句の言葉を想起した――腹に眠る蝶が、目を覚ます――と。
箱庭 - 炉紀谷 游
あらすじ
「私」は七畳の空間に住まう大学生で、人をD学生と呼んで自身のエゴイズムを加速させる。「私」は自分の胸の内に怠惰と無力感があることを分かっており、それでもなお、自らに知性と理性が備わっていることを誇りに思っていた。「私」は事実のリフレクションとして夢のことを語る。彼女との出会いと歓び、そして最後に綴られる「箱庭」への問いかけとは。
本編
私
目が覚めると私は呆然としていた。自分が突然箱庭のなかに閉じ込められ、自身に自由などないかのような気持ちさえ沸き立ってきた。しかし、それが目覚めたばかりの空虚な不安感に過ぎないと分かっていた私は、ゆっくりと体を起こした。
独りで暮らす私の部屋は七畳の、自活には問題のない空間だった。
しかし、友人を連れてこようとすると、たちまち自身の空間を他者の目でよく観察しなければならなくなって、どうもそれは、実直に云って不安定な私の精神的健康を考えると、大変望ましくないと思われた。
大学生という身分に包まって、早二年が経ったように思う。思うというのは、その身分に胡座をかきながら、自由の風なるものが、何がなんだか私には想像が出来なかったのだ。
いや、かえってこれが「自由の風」であるのかもしれない。確かに私は、ハタチにして本質的な自由――自己決定権の程度が最も高いところにあること――を手に入れているという実感が胸の内にある。
しかし、私の現況と自由という詞ことばを混同することは、先に云ったように精神的健康に良くない、という思いが頭の上にのしかかり、その荷物を振り捨てるように、頭を左右に揺らすのだった。
このように述べてみたところで、どれほど私の存在が高名なものになるだろうか。如何ように詞を修飾してみても、真実のラムプは、私の心の奥底に隠していた怠惰と無力感を鮮やかに映し出している。
もっとも幸いと思えるのは、精神世界にいる私は、己を愚鈍であるとは考えていないということだろう。
それほど深刻な知恵の欠如を自らに感じず、また外界存在とのすり合わせ、コミュニケーションなるものを取ってみれば、私はまだ、知性や理性という点においては、その他の大学生を上回っているという感覚があった。
それが私のひどく勝手な妄想であると云う者がいれば、そう思わせておけばいい。少なくとも私は、己の価値判断の尺に基づいて、あるいは大学が下す数量的な評価や、他者から与えられた非凡な評価や指摘に基づいてそう理解しているのだ。
その思考は私にとって愉悦なものであった。ご存じの通り、私は己に欠落したものが多いことを認めている。そのなかで、このように、部分的にでも人を上回っているという自認は大変に愉快で、それで酒を飲むことだってできるのであった。
私は酒を独りでは飲まない。故に、この快楽に満ちた私の見解は、大変に数の少ない貴重な友人らに共有され、同意とも否定ともとれない微妙な困惑の色を返答される。
私はしばしば、己が愉悦に浸るために眼前に映し出す大学生の虚像を「D学生」と呼称している。いくら己の健康維持のためとはいえ、特定個人を侮蔑するほどの愚かさを自身の胸の内に有していなかった私は、そうやってありもしない詞に、己のエゴイズムを乗せていったのだった。
私は顔面の整理に励んだ後、装いに多少の気を配って外へと繰り出した。昨晩見た夢がどうも私に強い辱めを受けるように眼前にやって来たので、目が冴えてしまったのだ。
春という春はこの前終わり、小路に散った花びらが、次の季節の到来を予感させた。
それで、昨晩見た夢の話をしたい。まずこの夢というのが、私の数少ない友人との飲みで起こった事実のリフレクションだったのだ。
夢
彼女は、高校以来の付き合いであった。もとより、大した関係を作ったわけではなく、ただ奇妙にも二回に渡って行われた教室の移動に彼女と私が一緒になったほどの、ささやかな偶然が二人を繋げていた。
大学さえも同じであることはさして気に留めていなかった。私と同じ程度の知性があり、そして興味分野が似た者であれば、この大学を選ぶのは分かっていたために、彼女もまたこの大学に来て、何ら違和だとか不審な影をそこに見ることはなかった。
個人的な価値観を箱庭に投影してよいのなら、私は彼女が本質的には私と類似した存在であると感じていた。
高校以来、男女からの高い評価と期待を寄せられるに十分な快活な態度や振る舞い、そして生徒会という形骸化した組織に入り込み、いくつかの校内規則の改廃を実現した、その全般的な社交性と強い出世欲のようなものについては、彼女に感心させられる点が数多くあったように思えるが、しかしどこか思想や社会に対する視点の在り方については、彼女が持ちうるいずれの器用さや能力のないあの私が持ちうるものと共通する点があったと考えていた。
高校の話を引っ張り出してしまうと、想像を超えて長く長く懐古の温かさに浸ってしまう癖があるので、一つだけ、彼女について驚いた話をしようと思う。
私はそのとき昼餉を終えてささやかな休みを、何をするでもなくぼんやりと過ごしていた。独りでいることは今ほどではなく、向かおうと思えば、近くにいる友人の輪に入り込むことができた。だがこのときは、疲労感だかなんだかで、交友の延期を己に求め、時間の感覚が薄れるまでその教室空間に揺蕩う構えを見せていた。
そのなかで彼女が、教室に入ってきた形で私を見つけたと記憶しているが、声をかけてきて私の机の前に立ちはだかった。
「どうしてみんな、恋がきれいなものだって云って信じ切るんだろう」
予想もしない詞の投げかけに、私は一度聞き返した。
「だってさ、皆心の内にそれなりの悪いことを思ってるはずなんだから、そんな人達がくっついたって、きれいなわけはないと思うんだ」
記憶の欠片は、今だとこの程度しか残されていないので、本当のことを云えば、細かい言い回しだとか、導入が違っているかもしれない(このとおり微妙な話題を、直接的な話法で彼女が展開したのかは定かではないということだ)。だがしかし、私が記憶に留めるほどに重要だと判断した「彼女らしさ」への遭遇は、概ねこのような経験だった。
一方で彼女に対して私がどのようにレスポンドしたのかは、さっぱり覚えていないものである。
そして私はこれ以外にも度々記憶に残った彼女の本質的な部分から、同じ知性と理性を彼女そのものに認めることとなった。
そしてその彼女と大学で初めて会ったときに、私は平然たる態度を装いながらも驚きの心象を彼女に受けた。
それを明記するのはひどく憚られるというものなのだが、ともかくそれは表面的には自由の風なるものを纏い、それどころか自由自在に操った結果の変容ぶりということだった。
彼女とは高校からの付き合いであり、奇遇にも二人を遠隔で繋げていた連絡手段は、活発とまではいかなくとも定期的な活動が見られていた。
故に、日常的なやり取りは高校から今に続いていたし、入学試験が近づいたとなれば、同じ志を持ちあった者同士、労い励まし合う関係ではあった。
しかし、大学に入るまでの長い春の休みの間、関係に若干の疎遠を見た私にとって、彼女なりの大学生第一歩はとても新鮮で動揺を誘うものだったのだ。
さて、今の彼女がどのようなものかは最低限に理解できたろう。話を戻して、私がそんな彼女と飲むことになった事実の仔細を述べていこうと思う。
彼女と私は同じ大学を志望した盟友とも云うべき仲ではあったが、学部学科の違いがその実、初めの一年間を二人の関係に対する大きな隔たりの時期に変えていった。
それはもはや望んでいたことであったし、このように述べて美化をしてはみたが、高校以来の仲とはいえ奥深い関係性の構築があったわけではないし、そうであって支障はなかったのだ。
その状況が変化したのはまさに今春のことだった。
私の友人であるS君の誘いに乗じ、飲みに出て、それこそD学生の本質について熱弁していたときだ。
大学の近くにある飲み屋は、それこそ私たちのような学生にとって交流の場である。故に多少の知り合いを目撃することは多けれど、漂う空気を読んで、席で他と談笑する者へ声をかけるかかけまいかを判断するような、ある意味で個別的な環境に整備されていた。
大衆酒場と云えば、概ね箱庭の者には理解できるだろうが、そこにははっきりしない黄色を光らせるラムプが天井に並び、事実であるかはどうでもいいとして、どうにもべとつくような雰囲気を漂わせる、煩雑とした空間が広がっているのだ。
そこで私は自身の思想について述べていた、というわけだが、奇遇にもそこで私たちは彼女の入店を刮目することとなった。
独り。
目が合ったのは必然とも云うべきか。
彼女は私の顔を見るなり、鮮やかな、かつての記憶とも重なる、笑みを湛えて私たちの席に近づいた。
「偶然だね、――君」
「久しぶり。誰かと来たんじゃないのかい?」
「私? いや、今日はなんとなく独りでさ。よかったら一緒にどう? そこの方もよかったら」
そう云って彼女はS君の隣に座って自分のことを打ち明け、私は一方S君が顔に浮かべている困惑を解消するよう働いた。
D学生の話は、私とS君が飲み屋で展開した最後の話題であった。このときS君は予定があり、まもなくこの微塵も生産性のない集いを切り上げることになっていたのだ。従って、彼女とS君との間に起きた若干の問答の後、S君は満足げに店を去った。
机を挟んで相対する形で私と彼女が目線を合わせたとき、何処となく懐かしい記憶が蘇ってきた。
それは高校生の時、閑散とした教室で勉強を教えあっていたときの記憶だった。
それから雑多な空間のなか、髪の一部を染めた全く美しい彼女を見て気恥ずかしくなった私は目をそらして、ただ意味もなく懐かしい懐かしいと、詞は違えど似たような感想を呟いて彼女の同意を得ようとしていた。
彼女は多少私の提示する話題に乗っかりはしたが、なにか別のものをこの二人に見出そうとしているようで、私は注意深く彼女のことを観察した。
その結果をここに明らかにする必要はないが、表象の会話がお互いにとって無意味なものだと強く感じられたその瞬間、彼女はこのように云った。
「――君って、やっぱり分からないんだよね」
「どういうことかな」
「私と――君って、全然似てないなと思ったからさ。自分の考えている方向とは真逆の発想で、ものを考えていそうだから」
「それはまた急に意味ありげな話題だね。僕はその逆、僕らは似ていると思っていたけど」
「へえ、意外だ。例えばどこが似ているって思う?」
そこでその問いが投げられてから、よどみなく流れていた思考が突然止まってしまった。
「そうだな。突然こういう話をしたがるところとかじゃないかな」
「こういう話?」
「普通、会話の導入と云えば日常的で相手の共感を誘うような話題から入るはずじゃないか。それなのに君は、思い返せばいつも、昔から、直接的な話題を浴びせかけてきた気がする」
彼女は私の詞を聞いてにんまりと笑った。
「だって、面白くないんだもん。もう知ってるようなことを間に挟んだとして、その会話で満足できるような人間じゃないから」
「じゃあ、普段からそんなに直接的なのかい」
「――君、そんなに私は生きるのが下手じゃないよ。普段はね、隠して隠して、バレないように、見せないように、気づかれないように振る舞ってるだけ」
飲み屋の天井についているラムプは、どう言い表せばいいか判然としないが、霧がかった黄色のような光を帯びていた。
「君はね、私とは全く違うから本物の私に耐えられるかなって。その辺の人間じゃ、きっと通じ合えないから」
世間は彼女のような人間をどう呼ぶのだろうか。いや、私たちのような人間をどう呼ぶのだろうか。
世間を遠くから見て、自分はそこに属しているという感覚よりも、ときより介入するかのような立ち回りをする生き物が私たちであるという認識が、色濃く箱庭に立ち昇ってきたように思う。
「私はね、すごく面白がって生きてるんだ。例えば今。今日は本当に、独りでお酒を飲みに来たつもりなんだけど、偶然昔の友だちに会ってこうして、そう。他の人に云ったらなんだかよく分からない顔をされるような、脈絡のない話を一方的にぶつけてる」
「言われてみればそうかもしれない。君は元々そういう振る舞い方をしてたけどもね」
「今日はね、君でなければ、知り合いでも一緒には飲まなかったと思う」
「なんだか特別な事情があるとみえる」
彼女は私をじっくり見て、聞き覚えのある口調でこう云った。
「どうして人は、恋を特別なものだと勘違いするんだろうね」
「……昔、似たようなことを君から聞いたよ」
「え、ああそう。そっか――いや、でもその時と今じゃあ、込めた思いは違うかな」
「どういう訳があるのかい」
「これでもうまくやって来たはずなのに、男の人とはなんでか長続きしないんだ」
「ああ」
彼女は器用だが、仮に私と似たような属性をその体の一部にのみでも認めるとすれば、それは器用なだけであって、順応することができる訳ではないことを指すのだろう。
「私は、それなりには正直だから、きれいな恋をしたいと思えばそうしようと頑張るんだけどね。普通の人は、どこか胸のうちに悪いものを抱える隙があると思うんだ。だから、どこかですれ違う。悪いことを考えるな、って云いたいんじゃない。隠して善人のふりしないでほしいってことを云いたいんだよね」
「それはなかなか難しい話だ」
私は彼女に、こう直接的ではないけれど――私たちとD学生とでは、本質的なものが異なっている、知性と理性という点のみに限ってみても、それは明白であると云った。
「ところで、その男っていうのはどういう人なんだい」
彼女は気まずそうな顔をして、ついさっきまで愛していたはずの男のことを陳述するのには抵抗がある旨を述べた。
「君が云う通りならば、僕は本質的に君と違うことになるのだろう。だったらば、僕は壁打ち同然の存在、君の人生に何ら影響を与えない扱いをしても構わないというわけだよ。君が今まで僕にそうしてきたように」
私はこれを、善意で述べた。
「まあ、そうだね」
私はこれを、尋常ならざる思いをもって受け止めた。
これ以降のことはとてもではないが明示することは忌避すべきものである。振り返ってみると、私は男女の諍いに首を挟んだだけではなく、いくつかの認容できない過ちを犯している。はじめに、私は理性を失念していた。その次に、知性を忘却していた。そして愚かにも、私はD学生同然の立ち振る舞いを、よりにもよって彼女に見せてしまった。
しかし、若干の救いを自らに見出すのならば、私がその過ちを知覚できていることをここに摘示しようと思う。
だがいかなる美化や自己都合の良い記憶の改竄を試みたとしても、私は確かに、彼女が私を突き放したような感覚に襲われ、またどこから湧き出たのか分からない嫉妬に苛まれ、その究極的な逃避の方法として、さらなる関係性の発展を――如何にしても、我々は同じ精神性を持っているだろうという推論を極めて上品にかつ悪意なく提示する形で――相手に希求するに至ったのだ。
桜
先にも述べたように、私はこの事実のリフレクションが夢で現れたことに対して強い辱めを覚えている。故に内省としていることをご理解いただきたい。
真実のラムプは、私の本質的な部分に怠惰と無力感があることを証明している。故に私は己の行いに対して、過剰な正義感があったことを認めざるを得ない。
物事には当然の順序があり、それを逸脱することは知性のないことだと信じていた私にとって、これは大きな、非常な過ちなのだ。
表象的には、相手に遠慮の念を齎し、無為な感情の吐露のなかに自身の欠落したものを再認するだけの、社会通念上許容されるコミュニケーションの一つと云えるだろうが、怠惰と無力感を常時自らに訴えている私にしてみれば、存在自由を保証する知性や理性の失却は、脅威そのものでしかないのだ。
だが、箱庭の皆さんに恐れ入ることであるのを承知で申し上げるならば、私はそれから二度三度、彼女と連絡することがあった。彼女の思考では、私と彼女は全くの別方向に歩を進める存在だということであったが、私の主張により、それとは別の見解が彼女の中に根付くことになったそうである。
従って、あの場で提示された遠慮の念は、当惑そのものであり、あるいはそれでしかなかったということである。
それから、端的に云えば私は当面予想された展開を味わった。
幸福。
自由。
希望。
欲すべきものが与えられ、充足感という、想像もしなかった歓びが私の懐に転がり込んできた。
しかしそれは、現況を考えると、全く持ってここに明示するようなことではないのだろう。
私は小路を歩き続け、ふとこじんまりとした公園にあった葉の付いた桜を見上げる。
春を盛り上げた美しい桜もいつか散って無くなってしまう。路には萎びて変色した花びらがいくつもあった。
今の私には、それが新たな生命の象徴だと捉えることはできなかった。むしろそれは最期の暗喩という感じがした。
全身に自身の気が通っていることを確認した私は再び歩を進める。
近所には古店があり、そこには現代価格と逸脱した世界観のなかで商売を続ける老婆がいる。
私はその者に声をかけ、適当なものを買って店を出る。
遅くなってしまったが、断っておきたいのは、私は今、自らの精神的健康に気遣うため、自らの視点で一方的に物を語っているということである。
彼女は正直な女だった。自由だった。思想や言動に対して、行動にズレがあるように思われたのは、彼女が唯一私と方向を違えた部分に起因するものだ。
それがきっと、彼女の中にある厭世観を具体化することになったのだろう。
私がD学生と呼んでいるものは、今や一つの概念となって、私や似たような者にとっての憂鬱の言語化として成立している。それは何らの社会活動や人々を否定する詞なのではなく、その存在に対として成立する、少数派、私たちへの皮肉なのである。
箱庭の皆さんに問いたいのは、私の罪悪の程度である。私は自らに欠落を多く認めてきた。そのなかで私は社会的には妥当とされる段階で多様な振る舞いを示してきた。ここになにか償うべきものがあるのならば、可能な限り履行しようと思う。しかしそこになにもないのならば、私はただ独りであることを認めなければならないのだと思う。
至ったもの
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